学問のすゝめ

✦ スナック翻訳版

福沢諭吉 · 0/901

Snack Point

✦ 「天は人の上に人を造らず」の本当の意味。近代日本の知の原点。

✦ 1872〜76年刊行。全17編、累計300万部超の大ベストセラー。当時の日本人口の10人に1人が読んだ計算。

✦ 学問の意義から国民の権利、独立の精神まで。今読んでもまったく古びない。

目次

底本情報

公開: 青空文庫
底本: 「日本の名著 33 福沢諭吉」中公バックス、中央公論社
初出: 1872年
章構成: 章番号は原文準拠(章タイトルはSnackReadが独自に付与)

✦ スナック翻訳版について

原文に忠実なAI翻訳・現代語訳版です。原文/翻訳の切り替えができます。学術的な正確さを保証するものではありません。

※AIによる翻訳・現代語訳版
初編(1/5)
初編(1/5)1/10

初編 「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と言われている。 つまり、天が人を生み出すときには、すべての人は平等であり、生まれつき身分の上下はなく、 万物の霊長として体と心を使い、この世のあらゆるものを活用して衣食住を満たし、 自由に、互いの邪魔をせず、それぞれが安楽に暮らせるようにしたのが天の意図である。

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初編(1/5)2/10

しかし今、広く世の中を見渡すと、賢い人もいれば愚かな人もいる。貧しい人もいれば裕福な人もいる。身分の高い人も低い人もいて、その差は雲と泥ほどもある。これはなぜか。理由はとても明らかだ。『実語教』に「人は学ばなければ知恵がない。知恵のない者は愚か者だ」とある。

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初編(1/5)3/10

つまり、賢い人と愚かな人の違いは、学ぶか学ばないかで決まるのだ。また世の中には難しい仕事もあれば、簡単な仕事もある。

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初編(1/5)4/10

その難しい仕事をする人を身分の重い人と呼び、簡単な仕事をする人を身分の軽い人という。およそ頭を使い、心配を伴う仕事は難しく、手足を使う肉体労働は簡単である。だから医者、学者、政府の役人、あるいは大商人、多くの使用人を抱える大地主などは、身分が重く貴い者と言えるだろう。

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初編(1/5)5/10

身分が重く貴ければ自然とその家も裕福になり、下の者から見れば手の届かない存在に見えるが、その根本を探れば、ただその人に学問の力があるかないかで差がついただけであって、天が決めた運命ではない。ことわざに「天は富や地位を人に直接与えず、その人の努力に与えるものだ」という。

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初編(1/5)6/10

だから先に言った通り、人は生まれつき身分や貧富の区別はないのだ。

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初編(1/5)7/10

ただ学問に励んで物事をよく知る者が貴い人・裕福な人となり、無学な者が貧しい人・地位の低い人となるのだ。学問とは、難しい漢字を覚え、読みにくい古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るといった、実用性のない文学のことではない。

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初編(1/5)8/10

こうした文学も人の心を楽しませる便利なものではあるが、昔から儒者や国学者が言うほど崇め尊ぶべきものではない。

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初編(1/5)9/10

昔から、漢学者で家計のやりくりが上手な人は少なく、和歌が得意で商売も巧みな町人もめったにいない。そのため心ある町人や農民は、子どもが学問に熱心なのを見ると、「いずれ家の財産を食いつぶすだろう」と親として心配する者がいる。これは無理もないことだ。結局、そうした学問が実生活から離れていて日常の役に立たない証拠なのだ。

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初編(1/5)10/10

だから今は、そんな実用性のない学問は後回しにして、もっぱら励むべきは日常生活に役立つ実学である。

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初編(1/5)

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初編(2/5)
初編(2/5)1/10

たとえば、いろは47文字を習い、手紙の書き方、帳簿のつけ方、そろばんの練習、天秤の扱い方などを身につけ、さらに進んで学ぶべきことは非常に多い。地理学とは日本国内はもちろん世界各国の風土ガイドのこと。物理学とは自然界の万物の性質を観察し、そのはたらきを知る学問。歴史とは詳しい年代記であり、世界の古今の様子を調べる書物。

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初編(2/5)2/10

経済学とは一個人や一家の家計から国全体の財政までを説くもの。

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初編(2/5)3/10

修身学とは自分の行いを正しくし、人と付き合い、この世を渡っていくための自然の道理を述べたものである。

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初編(2/5)4/10

これらの学問をするには、いずれも西洋の翻訳書を調べ、だいたいのことは日本語の仮名で用が足りるようにし、あるいは若くて文才のある者には原書も読ませ、一つ一つの学問で実際の事実を押さえ、その事柄に即して身近なところから道理を求め、今日の役に立てるべきである。

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初編(2/5)5/10

以上は人間にとって基本的な実学であり、身分の上下に関係なく誰もがたしなむべき心得である。この心得があってこそ、士農工商それぞれが自分の務めを果たし、各自の家業を営み、自分自身も独立し、家も独立し、国全体も独立できるのだ。学問をするには、自分の分限を知ることが大切である。

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初編(2/5)6/10

人は生まれつき、縛られもせず束縛もされず、一人前の男は男、一人前の女は女として、自由な存在である。しかし、ただ「自由だ」とばかり言って分限を知らなければ、わがままや放蕩に陥ることが多い。その分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の邪魔をせずに自分の自由を実現することである。

16/901
初編(2/5)7/10

自由とわがままの境界線は、他人の邪魔をするかしないかの間にある。

17/901
初編(2/5)8/10

たとえば自分のお金を使うことなら、酒や遊びに溺れて放蕩を尽くすのも自由なように思えるが、決してそうではない。一人の放蕩は周囲の手本となり、やがて世間の風俗を乱して人の教育を妨げるから、使うお金が自分のものであっても、その罪は許されない。

18/901
初編(2/5)9/10

また、自由と独立は個人だけでなく、国にも当てはまることである。

19/901
初編(2/5)10/10

わが日本はアジアの東に位置する島国で、昔から外国と交流を持たず、自国の産物だけで暮らして不足を感じたこともなかった。しかし嘉永年間にアメリカ人が来航して以来、外国貿易が始まり今日の状況に至ったのだ。

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初編(2/5)

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初編(3/5)
初編(3/5)1/10

開港後もいろいろと議論が多く、鎖国だ攘夷だとうるさく言う者もいたが、その見識は非常に狭く、ことわざで言う「井の中の蛙」で、その議論は取るに足らないものだった。

21/901
初編(3/5)2/10

日本であれ西洋諸国であれ、同じ天と地の間にあって、同じ太陽に照らされ、同じ月を眺め、海を共有し、空気を共有し、人としての心情も同じ人間なのだから、こちらに余るものはあちらに渡し、あちらに余るものはこちらがもらい、互いに教え合い学び合い、恥じることも誇ることもなく、互いの利便を図り互いの幸福を祈り、

22/901
初編(3/5)3/10

天理と人道に従って交流を結び、道理のためにはアフリカの人々にも頭を下げ、

23/901
初編(3/5)4/10

正義のためにはイギリスやアメリカの軍艦をも恐れず、国の名誉に関わることなら日本国民が一人残らず命を捨てても国の威光を落とさないこと、これこそが一国の自由と独立というものである。

24/901
初編(3/5)5/10

それなのに、中国人などのように自分の国以外に国はないかのように振る舞い、外国人を見れば一口に「夷狄だ」と唱え、四本足で歩く畜生のように蔑み嫌い、自国の力も考えずにむやみに外国人を追い払おうとし、かえってその「夷狄」

25/901
初編(3/5)6/10

に苦しめられるような始末は、まったく国の分限を知らないことであり、個人に例えれば、自由を実現できずにわがまま放蕩に陥った者と言うべきだ。

26/901
初編(3/5)7/10

王政維新以来、わが日本の政治は大きく改まり、外では万国公法に基づいて外国と交流し、内では国民に自由独立の精神を示し、すでに平民に苗字と乗馬を許したのは歴史上の一大快挙であり、士農工商の四つの身分を平等にする基礎がここに定まったと言えよう。

27/901
初編(3/5)8/10

だから今後は、日本国民に生まれつきの身分というものはもうないのであり、ただその人の才能と徳、そしてその地位によって身分があるだけだ。

28/901
初編(3/5)9/10

たとえば政府の役人を粗末に扱わないのは当然のことだが、それはその人自身が貴いからではない。その人の才能と徳でその職務を務め、国民のために大切な国法を扱っているから尊ぶのだ。人が貴いのではなく、国法が貴いのである。旧幕府の時代、東海道でお茶壺の行列が通ったことは誰でも知っている話だ。

29/901
初編(3/5)10/10

そのほか御用の鷹は人よりも貴く扱われ、御用の馬には旅人も道を譲るなど、すべて「御用」の二文字をつければ石でも瓦でも恐ろしく貴いもののように見え、世の人も何千年もの昔からこれを嫌いながらも自然とその慣習に慣れ、上下ともに見苦しい風俗を作ってきた。

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初編(3/5)

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初編(4/5)
初編(4/5)1/10

しかし結局これらは法が貴いのでも品物が貴いのでもなく、ただむやみに政府の威光を振りかざし、人を畏れさせて自由を妨げようとする卑怯なやり方で、

31/901
初編(4/5)2/10

中身のない見せかけの威光というものである。

32/901
初編(4/5)3/10

今日に至ってはもはや日本国内にそんな浅ましい制度や風俗はなくなっているはずだから、人々は安心して、もし政府に対して不満があれば、それを隠して陰で恨むのではなく、正当な手段を求め、筋道を通して静かに訴え、遠慮なく議論すべきである。天理と人情にかなうことならば、命がけで争うべきだ。

33/901
初編(4/5)4/10

これこそが一国の国民としての分限というものである。

34/901
初編(4/5)5/10

前に述べた通り、個人も国家も、天の道理に基づいて自由で独立したものであるから、もしこの国の自由を妨げようとする者がいれば、世界中の国を敵に回しても恐れるに足りない。また、個人の自由を妨げようとする者がいれば、政府の役人であっても遠慮する必要はない。

35/901
初編(4/5)6/10

まして今は四民平等の基本も確立されたのだから、皆安心して天の道理に従い思う存分に事を行えばよい。とはいえ、人にはそれぞれの立場があるから、その立場にふさわしい才能と徳がなくてはならない。才徳を身につけるには物事の道理を知らなくてはならない。物事の道理を知るには文字を学ばなくてはならない。

36/901
初編(4/5)7/10

これこそが学問が急務である理由なのだ。

37/901
初編(4/5)8/10

最近の様子を見ると、農工商の三つの身分の人々は以前の百倍も力をつけ、やがて士族と肩を並べる勢いに至り、今日では三民の中から人材があれば政府に採用される道もすでに開かれている。だからよく自分の立場を顧みて、自分を重んじ、卑劣な行いをしてはならない。およそ世の中で無知文盲の民ほど憐れむべき、そしてまた憎むべきものはない。

38/901
初編(4/5)9/10

知恵がないことの極みは恥を知らないことであり、自分の無知のせいで貧困に陥り飢えと寒さに苦しむとき、自分を責めずに周りの裕福な人を恨み、ひどい場合には徒党を組んで強訴や一揆などの乱暴に及ぶことがある。恥知らずと言うべきか、法を恐れないと言うべきか。

39/901
初編(4/5)10/10

国の法律のおかげで自分の安全を守り生活しているのに、頼りにしているその法律を、自分の私欲のためには破る。まったく矛盾した話ではないか。

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初編(4/5)

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初編(5/5)
初編(5/5)1/10

あるいはたまたま身元がしっかりしていて相応の財産がある者でも、金を貯めることは知っていても子孫を教育することを知らない。教育されなかった子孫が愚かなのも当然のことだ。やがて遊び暮らして放蕩に走り、先祖の財産を一朝にして灰にしてしまう者も少なくない。

41/901
初編(5/5)2/10

こうした愚かな民を治めるには、道理で諭す方法がないから、ただ威力で脅すしかない。西洋のことわざに「愚かな民の上に厳しい政府あり」というのはまさにこのことだ。

42/901
初編(5/5)3/10

これは政府が厳しいのではなく、愚かな民が自ら招いた災いなのだ。愚民の上に厳しい政府があるなら、良い民の上には良い政府があるという道理だ。だから今の日本でも、この国民にしてこの政治があるのだ。もし国民の道徳がさらに衰えて無学文盲に沈むなら、政府の法もさらに厳しくなるだろう。

43/901
初編(5/5)4/10

もし国民が皆学問に志して物事の道理を知り、文明の風潮に向かうなら、政府の法もさらに寛大になるだろう。

44/901
初編(5/5)5/10

法が厳しいか寛大かは、ただ国民の徳があるかないかによって自然と加減されるだけだ。誰が厳しい政治を好んで良い政治を嫌うだろうか。誰が自国の繁栄を願わないだろうか。誰が外国に侮られることを甘んじて受けるだろうか。これが人としての当たり前の気持ちだ。

45/901
初編(5/5)6/10

今の世に生まれて国を思う心のある者は、必ずしも身を苦しめて思い悩むほどの心配をする必要はない。

46/901
初編(5/5)7/10

ただ、その大切な目標は、この人情に基づいてまず自分の行いを正し、熱心に学問に志し、幅広く物事を知り、それぞれの身分にふさわしいだけの知恵と徳を備えて、政府は政治を行いやすく、国民は支配を受けても苦しむことがないよう、互いにその役割を果たして共に国の平和を守ろうというただこの一事だけである。

47/901
初編(5/5)8/10

今、私たちが勧める学問もこの一事を趣旨としている。端書

48/901
初編(5/5)9/10

このたび私の故郷・中津に学校を開くにあたり、学問の趣旨を書いて旧知の同郷の友人に見せようと一冊をまとめたところ、ある人がこれを見て「この冊子を中津の人だけに見せるより、広く世間に公表すれば効果もまた大きいだろう」と勧めてくれた。そこで慶応義塾の活字版でこれを印刷し、同志の皆さんにお読みいただくことにした。

49/901
初編(5/5)10/10

明治四年十二月 福沢諭吉記小幡篤次郎二編 端書

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初編(5/5)

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二編(1/5)
二編(1/5)1/10

学問とは幅広い言葉であり、形のない学問もあれば、形のある学問もある。心学・神学・理学などは形のない学問であり、天文・地理・物理・化学などは形のある学問だ。どれも知識と見聞の範囲を広げて物事の道理をわきまえ、人間としての務めを知ることである。

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二編(1/5)2/10

知識や見聞を広げるには、人の話を聞いたり、自分で工夫を凝らしたり、書物を読んだりしなければならない。

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二編(1/5)3/10

だから学問には文字を知ることが必要だが、昔から世間の人が思っているように、ただ文字を読むことだけを学問とするのは大きな間違いだ。文字は学問をするための道具であり、たとえば家を建てるのにハンマーやノコギリが必要なようなもの。

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二編(1/5)4/10

ハンマーやノコギリは建築に欠かせない道具だが、その道具の名前を知るだけで家の建て方を知らない者は大工とは言えない。

54/901
二編(1/5)5/10

まさにこの理屈で、文字を読むことだけ知って物事の道理をわきまえない者は学者とは言えない。いわゆる「論語読みの論語知らず」とはまさにこれだ。わが国の『古事記』は暗唱できても今日の米の相場を知らない者は、生活の学問に暗い人と言うべきだ。

55/901
二編(1/5)6/10

経書や歴史書の奥義には通じていても、商売の方法を心得て正しく取引できない者は、帳簿の学問に拙い人と言うべきだ。

56/901
二編(1/5)7/10

何年も苦労して多額のお金を費やし洋学を修めたのに、なお一人で自立した生活ができない者は、時代の学問に疎い人だ。こうした人はただの「文字の問屋」と言うべきであり、その役割はご飯を食べる辞書と変わらない。国にとっては無用の長物、経済を妨げる居候と言ってよい。だから家計も学問、帳簿も学問、時勢を読むことも学問だ。

57/901
二編(1/5)8/10

何も和漢洋の書物を読むことだけが学問だという道理はないだろう。

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二編(1/5)9/10

この本のタイトルは『学問のすすめ』としたが、決して文字を読むことだけを勧めているのではない。本書に記す内容は、西洋の諸書からその文章を直接訳したり、その意味を訳したりして、形あることでも形ないことでも、広く人の心得となるべき事柄を挙げて学問の大きな趣旨を示したものである。

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二編(1/5)10/10

先に出した一冊を初編とし、さらにその趣旨を広げて今回の二編をまとめ、続いて三編、四編にも及ぶ予定だ。人は同等なること

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二編(1/5)

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二編(2/5)
二編(2/5)1/10

初編の冒頭に、人は万人みな同じ位に生まれ、上下の区別なく自由自在であると述べた。今この考えを広げて言おう。人が生まれるのは天がそうさせたのであって、人の力ではない。人々が互いに敬い愛し合い、それぞれの務めを果たし、互いに妨げ合わないのは、もともと同じ人間であり、同じ天の下、同じ天地の間の創造物だからである。

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二編(2/5)2/10

たとえば一つの家の中で兄弟が互いに仲良くするのは、もともと同じ家の兄弟であり、同じ父母を共にするという大きな倫理があるからだ。だから今、人と人とのバランスを問えば、これを平等と言わざるを得ない。ただしその平等とは、境遇が同じだということではなく、権利と道義が等しいということを言うのだ。

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二編(2/5)3/10

境遇について論じれば、貧富・強弱・知愚の差は非常に大きく、大名や華族で御殿に住み、美しい服を着て美食を楽しむ者もいれば、人足として裏長屋の借家に住み、今日の食事にも事欠く者もいる。才知に優れて役人や商人となり天下を動かす者もいれば、知恵がなく一生飴やおこしを売る者もいる。強い相撲取りもいれば弱いお姫様もいる。

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二編(2/5)4/10

まさに雲と泥の差だが、

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二編(2/5)5/10

しかし別の面から見て、その人々が持つ本来の権利と道義で論じれば、まったく平等であり、ほんの少しの軽重もないのだ。

65/901
二編(2/5)6/10

すなわちその権利と道義とは、人々がその命を大切にし、その財産を守り、その名誉と面目を重んじるという大きな原則のことだ。天が人を生み出すとき、体と心の働きを与えて、人々にこの権利を全うさせる仕組みを作ったのだから、何があっても人の力でこれを侵してはならない。大名の命も人足の命も、命の重さは同じだ。

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二編(2/5)7/10

大商人の百万両の金も、飴屋の四文の銭も、自分のものとして守りたい気持ちは同じなのだ。

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二編(2/5)8/10

世の中の悪いことわざに「泣く子と地頭には勝てない」とか、「親と主人は無理を言うもの」などと言って、人の権利を曲げてもいいかのように唱える者がいるが、これは境遇と権利を取り違えた議論だ。地頭と百姓は境遇こそ違うが、権利が違うわけではない。

68/901
二編(2/5)9/10

百姓の体に痛いことは地頭の体にも痛いはずだし、地頭の口に甘いものは百姓の口にも甘いだろう。

69/901
二編(2/5)10/10

痛いものを避け、甘いものを取るのは人の情欲であり、他人の邪魔をせずに果たせるはずの欲求を果たすのが人の権利だ。この権利については地頭も百姓もほんのわずかの差もない。ただ地頭は裕福で強く、百姓は貧しくて弱いだけだ。貧富や強弱は人の境遇であり、もとより同じではありえない。

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二編(2/5)

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二編(3/5)
二編(3/5)1/10

それなのに、富と力の勢いで貧しく弱い者に無理を押し付けるのは、境遇が違うからといって他人の権利を侵すことではないか。

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二編(3/5)2/10

これはたとえば力士が「俺には腕力がある」と言って、その力で隣の人の腕をねじ折るようなものだ。隣の人の力はもちろん力士より弱いだろうが、弱ければ弱いなりにその腕を使って自分の生活に役立てて何の問題もないはずなのに、いわれもなく力士に腕を折られるのはまったく迷惑な話だ。また、この議論を世の中のことに当てはめて言おう。

72/901
二編(3/5)3/10

旧幕府の時代は武士と庶民の区別がひどく、武士はむやみに権威を振りかざし、百姓や町人を罪人のように扱い、「切り捨て御免」などの法律もあった。この法律によれば、庶民の命は自分のものではなく借り物と同じだ。

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二編(3/5)4/10

百姓や町人は縁もゆかりもない武士に頭を下げ、外では道を譲り、中では席を譲り、ひどい場合には自分の家で飼っている馬にさえ乗れないほどの不自由を受けていた。とんでもない話ではないか。

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二編(3/5)5/10

以上は武士と庶民が一対一で向き合ったときの不公平だが、政府と国民の関係になると、さらに見苦しいことがあった。幕府はもちろん、三百の大名がそれぞれの領地に小さな政府を立て、百姓や町人を好き勝手に扱い、慈悲に見えることがあってもその実は人の本来の権利を認めず、本当に見るに忍びないことが多かった。

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二編(3/5)6/10

そもそも政府と国民の関係は、前にも述べた通り、ただ強さ弱さの境遇が違うだけで、権利に差があるわけではない。百姓は米を作って人を養い、町人はものを売り買いして世の便利を図る。これが百姓・町人の仕事だ。政府は法令を定めて悪人を取り締まり、善人を守る。これが政府の仕事だ。

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二編(3/5)7/10

この仕事をするには莫大な費用がかかるが、政府には米も金もないので、百姓・町人から年貢や税金を出して政府の財政をまかなおうと、双方合意の上で取り決めた。これが政府と国民の約束だ。

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二編(3/5)8/10

だから百姓・町人は年貢や税金を納めてきちんと国法を守れば、その務めを果たしたと言えるし、政府は年貢や税金を受け取って正しくその使い道を立て国民を守れば、その務めを果たしたと言える。

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二編(3/5)9/10

双方がすでにその務めを果たして約束を破っていない以上、さらに何の文句もあるはずがなく、互いにその権利を行使して少しも妨げ合う道理はない。

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二編(3/5)10/10

それなのに幕府の時代には政府のことを「お上様」と呼び、お上の御用と言えばやたらに威光を振りかざすだけでなく、道中の宿代もただ食い、川の渡し賃も払わず、人足にも賃金を払わず、ひどい場合には旦那が人足を脅して酒代まで取る始末だ。言語道断と言うべきだ。

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二編(3/5)

10スナック

二編(4/5)
二編(4/5)1/10

あるいは殿様の道楽で建築をしたり、役人の判断で不必要な事業を起こしたりして無駄に金を使い、費用が足りなくなれば、あれこれ言葉を飾って年貢を増やし御用金を命じ、これを「お国の恩に報いる」と言う。そもそも「お国の恩」とは何を指すのか。

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二編(4/5)2/10

百姓や町人が安心して家業を営み、盗賊や人殺しの心配もなく暮らせることを政府の恩と言うのだろう。

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二編(4/5)3/10

もちろんこのように安心して暮らせるのは政府の法律があるからだが、法律を設けて国民を守るのはもともと政府の本業であり当然の務めだ。これを「恩」とは言えない。政府がもし国民への保護を「恩」だとするなら、百姓や町人も政府に対して、年貢や税金を納めていることを「恩」と言うだろう。

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二編(4/5)4/10

政府がもし国民の訴訟を「お上のご厄介」と言うなら、国民もこう言うだろう。「十俵の米のうち五俵を年貢に取られるのは、百姓にとって大きなご厄介だ」と。いわゆる売り言葉に買い言葉で、きりがない。とにかく互いに同じく恩があるのなら、一方だけがお礼を言って、もう一方がお礼を言わないという道理はないはずだ。

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二編(4/5)5/10

こうした悪い風習が生まれた由来を探ると、その根本は人間平等の大原則を誤り、貧富・強弱の境遇を悪用して、政府が富と力の勢いで貧しく弱い国民の権利を妨げるところまで至ったことにある。だから人は常に「人は皆平等」という趣旨を忘れてはならない。人間社会で最も大切なことだ。

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二編(4/5)6/10

西洋の言葉ではこれを「レシプロシティ」または「エクオリティ」という。初編の冒頭で述べた「万人は皆同じ位」とはこのことだ。

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二編(4/5)7/10

以上は百姓・町人の側に立って思う存分権利を主張せよという議論だが、一方から言えば別に論じるべきことがある。およそ人を扱うには、相手の人物次第で自然とその方法の加減もしなければならない。

87/901
二編(4/5)8/10

もともと国民と政府の関係は同一体であり、その役割を分けたもので、政府は国民の代理として法を施し、国民は必ずこの法を守るべしと固く約束したものだ。

88/901
二編(4/5)9/10

たとえば今、日本国内で明治の年号を受け入れている者は、今の政府の法に従うと条約を結んだ国民である。だから、ひとたび国法と定まったことは、たとえ個人にとって不都合があっても、その改革がなされるまではこれを変えることはできない。細心の注意を払って慎重に守らなければならない。これこそが国民の務めである。

89/901
二編(4/5)10/10

それなのに無学文盲で道理の「り」の字も知らず、身についた技と言えば食べて寝て起きることだけ。無学のくせに欲は深く、人を目の前で騙して巧みに政府の法をすり抜け、国法が何なのかも知らず、自分の務めが何なのかも知らず、子どもは多く生むがその子を教育する方法を知らない。

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二編(4/5)

10スナック

二編(5/5)
二編(5/5)1/4

いわゆる恥も法も知らない愚か者で、その子孫が増えれば国のためにはならず、かえって害をなす者さえいるのだ。

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二編(5/5)2/4

こうした愚か者を扱うにはとても道理では通用せず、不本意ながら力で脅して、目先の大きな害を鎮めるほかに方法がない。これが世に暴政府が存在する理由だ。わが旧幕府だけでなく、アジア諸国は昔からみなそうだった。だから一国の暴政は、必ずしも暴君や悪い役人のせいだけではなく、その実態は国民の無知が自ら招いた災いなのだ。

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二編(5/5)3/4

他人にそそのかされて暗殺を企てる者もいれば、新しい法律を誤解して一揆を起こす者もいる。強訴を口実にして金持ちの家を壊し、酒を飲み金を盗む者もいる。その振る舞いはとても人間の所業とは思えない。こうした賊民を扱うには、釈迦も孔子も名案がないのは間違いなく、どうしても厳しい政治を行うことになるだろう。だからこう言いたい。

93/901
二編(5/5)4/4

国民がもし暴政を避けたいなら、すみやかに学問に志して自ら才能と徳を高め、政府と向き合い対等の地位に上らなければならないのだ。

94/901
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二編(5/5)

4スナック

三編(1/5)
三編(1/5)1/10

これこそ私が勧める学問の趣旨である。三編 国は同等であることおよそ人間であれば、金持ちも貧乏人も、強い者も弱い者も、一般人も政府も、その権利において違いはないということは、第二編で述べた。

95/901
三編(1/5)2/10

今度はこの考えを広げて、国と国との関係について論じよう。

96/901
三編(1/5)3/10

国とは人の集まりであり、日本国は日本人の集まり、イギリスはイギリス人の集まりである。日本人もイギリス人も等しくこの世に生きる人間なのだから、互いの権利を侵害する道理はない。

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三編(1/5)4/10

一人が一人を害する道理がなければ、二人が二人を害する道理もない。百万人でも千万人でも同じことで、道理は人数の多少で変わるものではない。

98/901
三編(1/5)5/10

今、世界を見渡すと、文明開化が進んで学問も軍備も盛んで豊かな国もあれば、未開で貧しく弱い国もある。一般にヨーロッパやアメリカの国々は豊かで強く、アジアやアフリカの国々は貧しくて弱い。しかし、この貧富・強弱はあくまで国の状態の違いであって、もともと同じであるはずがない。

99/901
三編(1/5)6/10

それなのに、自国が豊かで強いからといって、貧弱な国に無理を押し付けるのは、力士が腕力で病人の腕を折るのと同じであり、国の権利として決して許されることではない。近くはわが日本も、今の状態では西洋諸国の豊かさには及ばないが、一国の権利においては少しの軽重もない。

100/901
三編(1/5)7/10

道理に反して不当な扱いを受ける日が来れば、世界中を敵に回しても恐れるに足りない。

101/901
三編(1/5)8/10

初編でも述べたとおり、「日本国中の人が一人残らず命を捨てて国の威信を守る」とはこういう場合のことだ。それだけでなく、貧富や強弱の状態は天から決められたものではなく、努力するかしないかで移り変わるものだ。今日の愚か者も明日は賢者になれるし、かつての強国も今は弱小国になりうる。古今その例は少なくない。

102/901
三編(1/5)9/10

日本人も今から学問に励み、気力をしっかり持って、まず個人の独立を目指し、それによって国全体の富強を実現すれば、西洋人の力を恐れることなどない。道理ある相手とは交わり、道理なき者は打ち払うだけだ。一人が独立してこそ一国が独立する、とはこのことだ。

103/901
三編(1/5)10/10

前に述べたように国と国は同等だが、国民に独立の気力がなければ、国の独立の権利を主張することはできない。

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三編(1/5)

10スナック

三編(2/5)
三編(2/5)1/10

その理由は三つある。第一、独立の気力がない者は国を思うこと深くない。独立とは、自分のことは自分で決め、他人に頼る心がないことをいう。自分で物事の道理を判断でき間違えない者は、他人の知恵に頼らない独立だ。自分で心身を使って生計を立てる者は、他人の財産に頼らない独立だ。

105/901
三編(2/5)2/10

人々にこの独立心がなく、ただ他人に頼ろうとばかりすれば、国中が頼る人ばかりで引き受ける人がいなくなる。たとえば盲人の行列に手引きがいないようなもので、はなはだ不都合だ。

106/901
三編(2/5)3/10

ある人は「民は従わせればよく、知らせる必要はない。世の中には賢い者もいるのだから、上に立つ賢者が庶民を支配すればよい」と言う。

107/901
三編(2/5)4/10

この意見は孔子流の考え方だが、実は大きな間違いだ。一国の中で人を治められるほどの才徳を持つ者は、千人に一人しかいない。仮にここに人口百万人の国があるとしよう。そのうち千人が知識人で、残り九十九万人以上が無知な庶民ということになる。

108/901
三編(2/5)5/10

知識人の才徳でこの庶民を治め、子供のように愛し、羊のように養い、威厳と慈悲で導けば、庶民は知らず知らず上の命令に従い、盗賊や人殺しもなく国内は平穏に治まるだろう。

109/901
三編(2/5)6/10

しかし、この国の人民は主人と客に二分され、主人は千人の知識人で国を治め、残りは全員何も知らないお客さんということになる。

110/901
三編(2/5)7/10

お客さんである以上、当然心配事も少なく、ただ主人に頼りきりで自分が責任を負うことがない。だから国を心配する気持ちも主人ほどにはならず、実にそっけない有様だ。国内のことならまだしも、ひとたび外国と戦争になればその不都合さは想像に難くない。

111/901
三編(2/5)8/10

無知無力な庶民たちは、さすがに反旗を翻すことはなくても、「自分たちはお客さんだから命を捨てるのはやりすぎだ」と逃げ出す者が多いだろう。

112/901
三編(2/5)9/10

そうなると、この国の人口は名目上百万人でも、国を守る段になると実際の人数ははるかに少なく、とても一国の独立は守れない。

113/901
三編(2/5)10/10

こうした事情から、外国に対して国を守るには、自由独立の気風を全国に満たし、身分の上下を問わず、国を自分自身のこととして引き受け、賢い者も愚かな者も、それぞれが国民としての務めを果たさなければならない。

114/901
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三編(2/5)

10スナック

三編(3/5)
三編(3/5)1/10

イギリス人はイギリスをわが祖国と思い、日本人は日本をわが祖国と思う。その国の土地は他人のものではなく、自国民の土地なのだから、国のことを思う気持ちはわが家を思うのと同じだ。国のためなら財産を失うだけでなく、命を捨てても惜しくない。これこそ報国の大義だ。

115/901
三編(3/5)2/10

もちろん政治を行うのは政府で、その支配を受けるのは人民だが、これは便宜上の役割分担にすぎない。

116/901
三編(3/5)3/10

一国全体の名誉に関わることについては、人民の務めとして、政府だけに国を任せて傍観していてよい道理があるだろうか。「日本国の某」「イギリスの某」と、名前の肩書に国名があるなら、その国に住み、自由に暮らす権利がある。その権利がある以上、当然それに伴う義務もなければならない。

117/901
三編(3/5)4/10

昔、戦国時代に駿河の今川義元が数万の兵を率いて織田信長を攻めようとしたとき、信長は桶狭間に伏兵を置いて今川の本陣に迫り、義元の首を取った。すると駿河の軍勢は蜘蛛の子を散らすように、戦いもせずに逃げ出し、あれほど名高かった今川政権も一朝にして滅び去った。

118/901
三編(3/5)5/10

近くは数年前、フランスとプロイセンの戦争で、開戦早々フランス皇帝ナポレオンがプロイセンに捕らえられた。しかしフランス国民は望みを失うどころか、ますます奮起して防戦し、骨を晒し血を流し、数か月の籠城の末に講和に至ったが、フランスは依然として元のフランスのままだった。

119/901
三編(3/5)6/10

あの今川の結末と比べれば雲泥の差だ。その理由は何か。

120/901
三編(3/5)7/10

駿河の人民はただ義元一人に頼りきりで、自分はお客さんのつもりだったから、駿河を自分の国だと思う者がいなかった。一方フランスには愛国心ある市民が多く、国の危機を自分のこととして引き受け、人に言われなくても自ら祖国のために戦う者がいた。だからこのような違いが生じたのだ。

121/901
三編(3/5)8/10

このことから、外国に対して自国を守る場合、国民に独立の気力がある者は国を深く思い、独立の気力がない者はそうでないことは明らかだ。

122/901
三編(3/5)9/10

第二、国内で独立した立場を得られない者は、外国人と接するときにも独立の権利を主張できない。独立の気力がない者は必ず人に頼り、人に頼る者は必ず人を恐れ、人を恐れる者は必ず人にへつらうものだ。

123/901
三編(3/5)10/10

常に人を恐れへつらっていると次第にそれに慣れ、面の皮が鉄のようになり、恥ずべきことを恥じず、論ずべきことも論じず、人を見ればただ腰を曲げるだけになる。

124/901
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三編(3/5)

10スナック

三編(4/5)
三編(4/5)1/10

いわゆる「習い性となる」とはこのことで、慣れてしまったことは簡単には直せないものだ。

125/901
三編(4/5)2/10

たとえば今、日本で平民に苗字や乗馬が許され、裁判所の雰囲気も変わって、表向きは士族と同等になったようだが、長年の習慣は急には変わらない。

126/901
三編(4/5)3/10

平民の根性は依然として昔の平民と変わらず、言葉遣いも卑しく、態度も卑しく、目上の人に会えば一言の理屈も述べられず、立てと言えば立ち、踊れと言えば踊り、その従順さはまるで飼い犬のようだ。

127/901
三編(4/5)4/10

まったく無気力で厚かましいと言うほかない。昔、鎖国の時代に幕府のような窮屈な政治を行っていた頃は、人民に気力がなくてもかえって政治には都合がよく、わざと無知にさせ無理に従順にすることが役人の腕の見せどころだった。しかし今、外国と交わる時代になってみると、これが大きな弊害となっている。

128/901
三編(4/5)5/10

たとえば田舎の商人が、恐る恐る外国貿易を志して横浜などに来ると、まず外国人の体格のたくましさに驚き、金の多さに驚き、商館の大きさに驚き、蒸気船の速さに驚く。

129/901
三編(4/5)6/10

すっかり度肝を抜かれた状態で、いざ外国人と取引を始めると、その駆け引きの鋭さに驚き、無理な理屈を言われると、もう驚くだけでなくその威力に震え上がって――

130/901
三編(4/5)7/10

無理だとわかっていながら大きな損をし、大きな恥辱を受けることがある。

131/901
三編(4/5)8/10

これは一人の損失ではなく、国全体の損失だ。一人の恥辱ではなく、国全体の恥辱だ。まったく馬鹿げた話だが、先祖代々独立の精神を吸ったことのない町人根性で、武士にはいじめられ、裁判所には叱られ、たった一人扶持の足軽にすら「お旦那様」と崇めてきた魂は腹の底まで腐りきっていて、一朝一夕には洗い流せない。

132/901
三編(4/5)9/10

こんな臆病者たちが、あの大胆不敵な外国人に出会って肝をつぶすのも無理はない。

133/901
三編(4/5)10/10

これこそ、国内で独立を得られない者は外に出ても独立できないという証拠だ。第三、独立の気力がない者は人に頼って悪事を働くことがある。旧幕府の時代に「名目金」といって、御三家などの権威ある大名の名前を借りて金を貸し、かなり無理な取引をしていたことがある。その行いは大いに非難されるべきだ。

134/901
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三編(4/5)

10スナック

三編(5/5)
三編(5/5)1/7

自分の金を貸して返さない者がいたら、何度でも政府に訴えるべきだ。

135/901
三編(5/5)2/7

それなのに政府を恐れて訴えることを知らず、卑怯にも他人の名前を借り、他人の権威で返金を迫るとは、なんと卑怯な振る舞いだろうか。今日では名目金の話は聞かないが、ひょっとすると世間には外国人の名前を借りている者がいるのではないか。

136/901
三編(5/5)3/7

私はまだ確証を得ていないのではっきり論じることはできないが、昔のことを思えば今の世にも疑念を持たざるを得ない。

137/901
三編(5/5)4/7

この先、万が一にも外国人の雑居が進み、その名を借りて悪事を働く者が出てくれば、国の災いは計り知れない。だから人民に独立の気力がないことを、扱いやすいと油断してはならない。災いは思わぬところから起こるものだ。国民の独立心が弱まれば弱まるほど、国を売る災いもそれだけ大きくなる。

138/901
三編(5/5)5/7

この節の初めに述べた「人に頼って悪事をなす」とはこのことだ。

139/901
三編(5/5)6/7

以上の三か条はすべて、人民に独立心がないことから生じる災害だ。今の世に生まれ、少しでも愛国の気持ちがある者は、官民を問わず、まず自分自身の独立を図り、余力があれば他人の独立を助けるべきだ。父兄は子弟に独立を教え、先生は生徒に独立を勧め、あらゆる職業の人がともに独立して国を守らなければならない。

140/901
三編(5/5)7/7

一言で言えば、人を縛って一人で苦労するよりも、人を自由にして苦楽をともにするほうがよいのだ。

141/901
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三編(5/5)

7スナック

四編(1/7)
四編(1/7)1/10

最近、識者の話をひそかに聞くと、「今後の日本の盛衰は予測しがたいが、結局、独立を失う心配はないだろうか。今の勢いで順調に進歩すれば、きっと文明の盛大な域に達するだろうか」と問う者がいる。

142/901
四編(1/7)2/10

あるいは「独立を保てるかどうかは、あと二、三十年経たなければはっきりしない」と疑う者もいる。

143/901
四編(1/7)3/10

さらには日本を甚だしく見下した外国人の説によれば、「どうせ日本の独立は危うい」と断じる者もいる。もちろん他人の説を聞いてすぐ信じて希望を失うわけではないが、結局これらの説はすべて日本の独立が保てるかどうかについての疑問だ。疑いがなければ問いが生じるはずがない。

144/901
四編(1/7)4/10

試しにイギリスに行って「イギリスの独立は保てるか」と聞いてみたら、誰もが笑って答える者はいないだろう。

145/901
四編(1/7)5/10

答える者がいないのはなぜか。それを疑っていないからだ。とすれば、わが国の文明の状態は、今日を昨日と比べれば進歩したようにも見えるが、最終的にはまだ一点の疑いを免れない。この国に生まれて日本人の名を持つ者なら、これに危機感を覚えずにはいられないだろう。

146/901
四編(1/7)6/10

私たちもこの国に生まれて日本人の名がある以上、それぞれの本分を明らかにして果たさなければならない。

147/901
四編(1/7)7/10

もちろん政治そのものを行うのは政府の仕事だが、人間の活動には政府が関わるべきでないものも多い。だから一国全体を整えるには、人民と政府が両方力を合わせてはじめて成功するのであり、私たちは国民としての本分を尽くし、政府は政府としての本分を尽くし、互いに助け合って国の独立を維持しなければならない。すべてバランスが大事だ。

148/901
四編(1/7)8/10

たとえば人の体のようなものだ。

149/901
四編(1/7)9/10

体を健康に保つには、飲食が必要であり、空気や光も必要であり、寒暖や痛みなど外からの刺激に対して内側が応じることで、体全体の働きが調和する。もし急にこの外からの刺激を取り去り、ただ生命力の働くままに放置すれば、体の健康は一日も保てない。国もまた同じだ。政治は国の働きである。

150/901
四編(1/7)10/10

この働きを調和させて国の独立を保つには、内に政府の力があり、外に人民の力があり、内外が呼応してバランスを取らなければならない。だから政府はいわば生命力のようなものであり、人民は外からの刺激のようなものだ。もし急にこの刺激を取り去り、ただ政府の働くままに放置すれば、国の独立は一日も保てない。

151/901
🔒

四編(1/7)

10スナック

四編(2/7)
四編(2/7)1/10

生理学の原理を理解し、その法則を国の経済の議論に当てはめることのできる者なら、この道理を疑うことはないだろう。今の日本の状況を見て、外国に及ばない点を挙げれば、学問、商売、法律、この三つだ。世の文明はもっぱらこの三つにかかっており、三つが揃わなければ国の独立は得られないことは明らかだ。

152/901
四編(2/7)2/10

しかし今のわが国では、どれ一つとしてまともな形になっていない。

153/901
四編(2/7)3/10

明治維新以来、政府の人材は力を尽くしていないわけではなく、その才能が劣っているわけでもない。しかし実際に事を行うにあたって、どうにもならない原因があって、思い通りにならないことが多い。その原因とは、人民の無知無学、これに尽きる。

154/901
四編(2/7)4/10

政府はすでにその原因を知っていて、しきりに学問を奨励し、法律を整え、商売の道を示すなど、人民に説いたり自ら手本を示したりと、あらゆる手を尽くしている。しかし今日に至るまでまだ実効が上がらず、政府は相変わらず専制的な政府のまま、人民は相変わらず無気力な愚民のままだ。

155/901
四編(2/7)5/10

わずかに進歩した部分があっても、そのために費やした労力とお金に比べれば、成果は見るべきものが少ない。なぜか。そもそも一国の文明は政府の力だけで進められるものではないのだ。ある人は「政府はしばらく愚民を適当にあしらいつつ、その知徳が進むのを待って、自然と文明に導けばよい」と言う。

156/901
四編(2/7)6/10

しかしこの説は、言うのは簡単だが実行は不可能だ。

157/901
四編(2/7)7/10

わが国の人民は数千年にわたって専制政治に苦しめられ、思うことを自由に言えず、嘘をついて安全を盗み、偽って罰を逃れてきた。欺きや策略は生きるための必需品となり、不誠実は日常の習慣となり、恥じる者もなく怪しむ者もない。個人の恥の心はすっかり失われ、国のことを考える余裕などあるはずがない。

158/901
四編(2/7)8/10

政府はこの悪習を正そうとして、ますます虚勢を張り、脅したり叱ったりして無理やり誠実にさせようとするが、かえってますます不信を招き、まるで火で火を消そうとするようなものだ。ついに上下の間は断絶し、それぞれが目に見えない独特の気風を形作った。その気風とはいわゆるスピリットというもので、急に変えることはできない。

159/901
四編(2/7)9/10

最近は政府の外見は大いに改まったが、その専制的な気風は今もなお残っている。

160/901
四編(2/7)10/10

人民もやや権利を得たようではあるが、その卑屈で不誠実な気風は依然として昔と変わらない。この気風は形もなく、一人の人や一つの出来事だけを見て説明できるものではないが、実際の力は非常に強く、世間全体の出来事に現れているのを見れば、それが虚構でないことは明らかだ。試みにその一例を挙げてみよう。

161/901
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四編(2/7)

10スナック

四編(3/7)
四編(3/7)1/10

今、政府の役人は少なくない。個人的にその言動を見れば、おおむね皆、器が大きく立派な人物で、私たちも非の打ちどころがなく、むしろ慕うべき点さえある。また一方で、一般人といっても全員が無気力な愚民ではなく、万に一人は公正誠実な良民もいるだろう。

162/901
四編(3/7)2/10

しかしこの立派な人物たちが、政府に入って政治を行うと、その政治の実績を見れば私たちが喜べないものがはなはだ多い。またあの誠実な良民も、政府と接するとたちまち節操を曲げ、嘘や策略で役人を欺き、少しも恥じない。この人格者にしてこの政治を行い、この民にしてこの卑劣に陥るのはなぜか。まるで一つの体に二つの頭があるようだ。

163/901
四編(3/7)3/10

私人としては賢いのに、役人としては愚かだ。個人では明晰なのに、集まると暗くなる。

164/901
四編(3/7)4/10

政府は多くの賢者が集まる場でありながら、一人の愚人の仕事をしていると言わざるを得ない。なんとも不思議なことだ。結局その原因は、あの気風というものに支配されて、一人ひとりが自分の力を十分に発揮できないからではないか。維新以来、政府が学問・法律・商売の道を興そうとして効果がないのも、病の原因はおそらくここにある。

165/901
四編(3/7)5/10

それなのに、しばらく術策で庶民をあしらい、知徳が進むのを待つというのは、威力で人を無理やり文明にするか、さもなければ騙して善に導く策だろう。政府が威力を使えば人民は偽りで応じ、政府が騙しを使えば人民は表面だけ従うだけだ。これを上策とは言えない。たとえその策が巧みでも、文明の実際には役に立たない。

166/901
四編(3/7)6/10

だから言う、世の文明を進めるには政府の力だけに頼ってはならないのだ。

167/901
四編(3/7)7/10

以上の議論から考えると、今のわが国の文明を進めるには、まず人々の心に染みついた気風を一掃しなければならない。これを一掃する方法は、政府の命令でもできず、個人の説得でもできない。必ず人に先んじて自ら行動し、人民が手本にできる目標を示す者がいなければならない。

168/901
四編(3/7)8/10

今この目標となるべき人物を探すと、農民の中にも商人の中にも、また漢学者の中にもいない。その任に当たれるのは、ただ洋学者のみだ。

169/901
四編(3/7)9/10

しかしこの洋学者にも頼れない事情がある。近年この種の人は世間に増えてきて、原書を読んだり翻訳書を読んだりして、大いに努力しているように見える。しかし学者が文字を読んで意味を理解していないのか、意味を理解しても実行する誠意がないのか、その行動について私たちが疑いを持つ点は少なくない。

170/901
四編(3/7)10/10

疑いを持つというのは、この学者や人格者たちが、みな官職があることばかり知って私的な活動を知らず、政府の上に立つ方法は知っていても政府の下にいる道を知らない、という一点だ。結局、漢学者の悪い癖から抜け出せず、中身は漢学で上着だけ洋学という有様だ。その実例を挙げてみよう。

171/901
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四編(3/7)

10スナック

四編(4/7)
四編(4/7)1/10

今の洋学者はほぼ全員が官職に就き、民間で事業をする者はほんのわずかだ。

172/901
四編(4/7)2/10

その官職に就くのは、ただ利益を貪るためだけではない。生まれてからの教育で政府にばかり目が向き、政府でなければ何もできないと思い込み、政府に頼って昔からの立身出世の志を遂げようとするだけだ。世に名の知れた大家先生であってもこの枠から脱け出せない。その行いは卑しいようにも見えるが、その心は深く責めるべきではない。

173/901
四編(4/7)3/10

意志が悪いのではなく、ただ世間の気風に酔って自覚がないのだ。

174/901
四編(4/7)4/10

名声ある立派な人物でさえこの有様だ。世間の人がその風潮に倣わないでいられようか。若い書生がわずかに数巻の本を読めばすぐ役人を目指し、志ある町人がわずかの元手があれば官の名を借りて商売をしようとする。学校も官許、説教も官許、牧畜も官許、養蚕も官許。民間の事業で官が関わっていないものは十のうち二、三しかない。

175/901
四編(4/7)5/10

こうして世間の人心はますますその風潮になびき、官を慕い、官を頼り、官を恐れ、官にへつらい、少しも独立の真心を示す者がいない。その醜態は見るに忍びない。たとえば今出版されている新聞や、各方面からの上書・建白書の類もその一例だ。

176/901
四編(4/7)6/10

出版の規制はそれほど厳しいわけではないのに、新聞を見ると政府が嫌がることは一切載せないばかりか、政府にわずかでも良いことがあれば大げさに褒め称えて実態以上に持ち上げ、まるで遊女が客に媚びるようだ。

177/901
四編(4/7)7/10

また上書や建白書を見ると、その文面はいつも卑屈を極め、政府をやたらに崇拝して鬼神のごとく扱い、自分を罪人のごとく卑下し、対等な人間世界にあるまじき虚飾の言葉を使い、平然として恥じることがない。

178/901
四編(4/7)8/10

こんな文章を読んでその人物を想像すれば、狂人と評するほかない。しかし今この新聞を出版したり政府に建白したりする者は、おおむね世の洋学者たちであり、個人としては遊女でもなければ狂人でもない。

179/901
四編(4/7)9/10

それなのにこれほどの不誠実に至るのは、まだ世間に民権を先頭に立って実践した例がないため、ただあの卑屈な気風に支配されて同調し、国民の本来の姿を見せられないからだ。

180/901
四編(4/7)10/10

まとめて言えば、日本にはただ政府があるだけで、まだ国民がいないと言ってもよい。だから言う、人民の気風を一新して文明を進めるには、今の洋学者にも頼ることはできないのだ。前に述べた議論が正しいとすれば、わが国の文明を進めて独立を守ることは、政府だけでできることではない。

181/901
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四編(4/7)

10スナック

四編(5/7)
四編(5/7)1/10

また今の洋学者にも頼れない。ならば必ず私たちが引き受けるしかない。まず自分たちから事を始め、無知な民衆に先立つだけでなく、あの洋学者たちのためにも先駆けとなって進むべき方向を示さなければならない。

182/901
四編(5/7)2/10

今の私たちの身分を考えると、学識はもとより浅いが、洋学を志してすでに久しく、この国では中程度以上の地位にある者だ。

183/901
四編(5/7)3/10

近年の世の改革も、もし私たちが主導したのでなければ、陰でこれを助けてきたものだ。あるいは助けになっていなくても、その改革は私たちが喜ぶものだから、世間の人も私たちを改革派と見なしているに違いない。

184/901
四編(5/7)4/10

すでに改革家の名があり、かつ中程度以上の地位にもあるのだから、世間の人は私たちの行動を手本にする者もいるだろう。

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四編(5/7)5/10

そうであるなら、人に先んじて事を行うのは、まさに私たちの任務と言うべきだ。そもそも物事をなすにあたって、命じるより説得するほうがよく、説得するより自ら実例を示すほうがよい。

186/901
四編(5/7)6/10

だから政府にはただ命令する権限があるだけで、説得して実例を示すのは民間の仕事だ。私たちはまず民間の立場に立ち、学問を講じたり、商売に従事したり、法律を議論したり、本を書いたり、新聞を出版するなど、国民としての分を越えないことならば遠慮なく行い、法を固く守って正しく事を処理する。

187/901
四編(5/7)7/10

もし政府の命令が不当で不利益を被ることがあれば、自分の立場を崩さずこれを論じ――

188/901
四編(5/7)8/10

まさに政府の急所に針を刺すように、旧来の弊害を取り除いて民権を回復することが、今もっとも急がれる重要な課題だ。

189/901
四編(5/7)9/10

もちろん民間の事業は多岐にわたり、またそれを行う人にもそれぞれ得意分野があるから、わずかな学者だけで全部をやるわけにはいかない。しかし私たちの目的は、事業がうまいことを示すのではなく、ただ世の中の人に民間で自ら行動する方向を知らせたいだけだ。百回説得するより一回の実例を示すほうがよい。

190/901
四編(5/7)10/10

今、私たちが自ら民間の実例を示して、「人間の事業は政府だけの仕事ではない」と伝えたい。

191/901
🔒

四編(5/7)

10スナック

四編(6/7)
四編(6/7)1/10

「学者は学者として自ら事業を行うべきだし、町人は町人として自ら事業をなすべきだ。政府も日本の政府であり、人民も日本の人民だ。政府を恐れるな、近づけ。疑うな、親しめ」この趣旨を知らしめれば、人民は進むべき方向が明確になり、上下に固有の悪い気風も次第に消えて、はじめて真の日本国民が生まれるだろう。

192/901
四編(6/7)2/10

政府のおもちゃではなく政府への刺激となり、学問・商売・法律も自然と人民のものとなって――

193/901
四編(6/7)3/10

国民の力と政府の力が互いにバランスを保ち、それによって国全体の独立を維持すべきなのだ。

194/901
四編(6/7)4/10

以上の議論をまとめると、今の学者がこの国の独立を助けるにあたって、政府の範囲に入り役人として事をなすのと、その範囲を出て民間で活動するのと、どちらが得でどちらが損かを述べたもので、本論は民間の立場を支持したものだ。すべて世の中のことを詳しく論じれば、利益がないものには必ず害があり、得がないものには必ず損がある。

195/901
四編(6/7)5/10

利害が半々ということはありえない。

196/901
四編(6/7)6/10

私は何か意図があって民間活動を主張するのではなく、ただ日頃の考えを述べただけだ。もし誰かが確かな証拠を挙げてこの議論を覆し、民間活動の不利を明確に示すなら、私は喜んで従い、世に害を及ぼすことはないだろう。

197/901
四編(6/7)7/10

付録として、本論についての問答をいくつか巻末に記す。その一、「事をなすには強力な政府に頼るほうが便利だ」と。

198/901
四編(6/7)8/10

答える。「文明を進めるのに政府の力だけに頼ってはならないことは、すでに本文で明らかだ。しかも政府で事をなすのはすでに数年の実績があるのに成果が出ていない。民間の事業も確実に成功するとは限らないが、理論上明らかに見込みがあるなら試みるべきだ。

199/901
四編(6/7)9/10

まだ試しもしないでまず成否を疑うような者は、勇気ある者とは言えない。」

200/901
四編(6/7)10/10

その二、「政府は人材不足だ。有能な人物が政府を離れたら業務に支障が出る」と。答える。「決してそうではない。今の政府は役人が多すぎることが問題なのだ。仕事を簡素にして役人を減らせば、業務はうまく整理され、余った人材は民間で活躍できる。一挙両得だ。

201/901
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四編(6/7)

10スナック

四編(7/7)
四編(7/7)1/7

わざわざ政府の仕事を増やし、有能な人材に無駄な仕事をさせるのは下策と言うべきだ。

202/901
四編(7/7)2/7

しかもこの人材は政府を離れても外国に行くわけではない。日本にいて日本のために働くだけだ。何の心配がいるだろうか。」その三、「政府の外に民間の有力者が集まれば、自然と第二の政府のようになり、本来の政府の権威が落ちるのではないか」と。答える。「これは小人の言い分だ。民間の人も役人も等しく日本人だ。

203/901
四編(7/7)3/7

ただ立場を変えて事をなすだけだ。

204/901
四編(7/7)4/7

実際は互いに助け合って国全体の利益を図るのだから、敵ではなく真の益友だ。しかも民間の人物が法を犯すことがあれば罰すればよい。少しも恐れることはない。」その四、「民間で活動したい人物がいても、官職を離れると生計の手段がない」と。答える。「こんなことは立派な人物の言うべきことではない。

205/901
四編(7/7)5/7

自ら学者と名乗って国の行く末を心配するほどの者に、芸のない人物がいるはずがない。技能で食べていくのは難しくない。

206/901
四編(7/7)6/7

しかも役人として公務を行うのも民間で仕事をするのも、その難しさに違いはない。もし役人の仕事が楽でその利益が民間の仕事より多いとしたら、その利益は実際の働きに見合わない余分なものだ。実力以上の利益を貪るのは立派な人間のすることではない。

207/901
四編(7/7)7/7

芸も能力もなく、たまたま運よく役人になって給料をむさぼり贅沢の元手にし、冗談半分で天下のことを語るような者は、私たちの仲間ではない。」

208/901
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四編(7/7)

7スナック

五編(1/5)
五編(1/5)1/10

『学問のすすめ』はもともと民間の読本や小学校の教科書として書いたものだから、初編から三編までは努めてやさしい言葉を使い、文章を読みやすくすることを心がけてきた。しかし四編ではやや文体を変えて難しい言葉を使ったところもある。

209/901
五編(1/5)2/10

またこの五編も明治七年一月一日に仲間が集まったときの話を文章にしたものだから、文体は四編と同様で、わかりにくいかもしれない。

210/901
五編(1/5)3/10

つまり四編と五編は学者を相手に論じたものなので、このような次第になったのだ。

211/901
五編(1/5)4/10

世の学者はたいてい腰抜けで気力は頼りないが、文章を読む目はなかなか確かで、どんな難しい文章でも困ることはない。だからこの二冊も遠慮なく文章を難しく書き、内容も自然と高度になった。

212/901
五編(1/5)5/10

そのせいで、もともと民間の読本であるべき『学問のすすめ』の趣旨を損なってしまったのは初学者には申し訳ないが、六編からはまた元のやさしい文体に戻り――

213/901
五編(1/5)6/10

もっぱらわかりやすさを重視して初学者の便宜に供し、もう難しい文章は使わないつもりなので、読者はこの二冊だけで全体の難易を判断しないでほしい。

214/901
五編(1/5)7/10

明治七年一月一日の式辞私たちは今日、慶応義塾にあって明治七年の元日を迎えた。この年号はわが国独立の年号であり、この塾は私たちの仲間が独立して作った塾だ。独立の塾にいて独立の新年を迎えられることは、なんと喜ばしいことだろう。しかし、これを得て喜べるものは、失えば悲しみとなる。

215/901
五編(1/5)8/10

だから今日喜ぶときに、いつか悲しむときが来ることを忘れてはならない。

216/901
五編(1/5)9/10

昔からわが国は治乱を繰り返して政府はたびたび変わったが、今日まで国の独立を失わなかったのは、国民が鎖国の風習に安んじ、治乱興亡がすべて国内の出来事で、外国と関わりがなかったからだ。外国と関係がなければ、平和も一国内の平和、乱れも一国内の乱れであり、その中で守ってきた独立も一国内だけの独立で、他国と争ったわけではない。

217/901
五編(1/5)10/10

たとえるなら、子供が家の中で育てられてまだ外の人と接したことがないようなものだ。

218/901
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五編(1/5)

10スナック

五編(2/5)
五編(2/5)1/10

その基盤が脆いのは当然のことだ。今や外国との交際が急に開け、国内の事務で外国に関わらないものは一つもない。何事も外国と比較して対処しなければならない時代になり、古来わが国がかろうじて達成した文明の状態を西洋諸国と比べれば、はるかに及ばないどころか、追いつこうとして途方に暮れるほどで、ますます独立の脆さを感じるのだ。

219/901
五編(2/5)2/10

国の文明は外見だけで評価してはならない。

220/901
五編(2/5)3/10

学校、工業、陸軍、海軍といっても、すべて文明の形にすぎない。この形を作るのは難しくなく、お金で買えばよい。しかしここにもう一つ、目に見えない大切なものがある。このものは目で見ることも耳で聞くこともできず、売買も貸し借りもできないが、国民の間に広く行き渡ってその作用は非常に強い。

221/901
五編(2/5)4/10

これがなければ学校その他もすべて実用にならず、まさに文明の精神と呼ぶべき最も大切なものだ。

222/901
五編(2/5)5/10

ではそれは何か。答えは、人民の独立の気力、これである。近年わが政府は盛んに学校を建て、工業を勧め、陸海軍の制度も大いに改めて、文明の形はほぼ整った。しかし人民はまだ外国に対してわが国の独立を固めて競争しようとする者がいない。

223/901
五編(2/5)6/10

競争しないどころか、たまたま外国の事情を知る機会を得た人でも、よく調べもせずにまずこれを恐れるだけだ。

224/901
五編(2/5)7/10

相手に対してすでに恐怖の心を抱いてしまえば、たとえ自分に多少の強みがあっても、それを外に発揮する手立てがない。結局、人民に独立の気力がなければ、あの文明の形もついには無用の長物になるのだ。

225/901
五編(2/5)8/10

そもそもわが国の人民に気力がない原因を探ると、数千年の昔から国の権力はすべて政府が一手に握り、軍事・学問から工業・商売に至るまで、どんな些細なことでも政府が関わらないものはなく、人民はただ政府が指し示す方向に走り回るだけだった。

226/901
五編(2/5)9/10

まるで国は政府の私有物で、人民は国の居候のようなものだ。居場所のない居候として国に食べさせてもらっている以上、国を旅館のように見て、真剣に尽くす気持ちもなく、気力を見せる機会も得られないまま、ついに国全体にそうした気風が染みついてしまった。それだけでなく、今日ではさらにひどいことがある。

227/901
五編(2/5)10/10

およそ世の中のものは、進まなければ必ず退き、退かなければ必ず進む。

228/901
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五編(2/5)

10スナック

五編(3/5)
五編(3/5)1/10

進みもせず退きもせず停滞するということはありえない道理だ。今の日本を見ると、文明の形は進んでいるようだが、文明の精神である人民の気力は日に日に後退している。どうか、試みにこれを論じさせてほしい。昔、足利・徳川の政府は民を治めるのにただ力だけを使い、人民が政府に従ったのは力が足りなかったからだ。

229/901
五編(3/5)2/10

力が足りない者は心から服従しているのではなく、ただ恐れて従う振りをしているだけだ。

230/901
五編(3/5)3/10

今の政府はただ力があるだけでなく、その知恵もとても鋭く、常に物事の機を逃すことがない。明治維新からまだ十年も経っていないのに、学校や軍備の改革があり、鉄道や電信が整備され、石造りの建物を建て鉄橋を架けるなど、その決断の速さと成果の見事さは、本当に人々を驚かせるものだ。

231/901
五編(3/5)4/10

しかし、この学校も軍備も政府のものであり、鉄道も電信も政府のもの、石造建築も鉄橋もすべて政府のものである。

232/901
五編(3/5)5/10

人民はこれをどう見ているだろうか。おそらく皆こう言うだろう。「政府は力があるだけでなく知恵もあり、自分たちの遠く及ぶところではない。政府は雲の上から国を治め、我々は下でそれに頼るだけだ。国のことを心配するのは上の仕事で、下々の関わることではない」と。

233/901
五編(3/5)6/10

ざっくり言えば、昔の政府は力だけを使い、今の政府は力と知恵の両方を使う。昔の政府は民を治める術に乏しく、今の政府はそれに長けている。

234/901
五編(3/5)7/10

昔の政府は民の力をくじき、今の政府はその心を奪う。昔の政府は民の外側を侵し、今の政府は内側を支配する。昔の民は政府を鬼のように見て、今の民は神のように見る。昔の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む。

235/901
五編(3/5)8/10

この流れのまま改めることがなければ、政府が何かを始めるたびに文明の形は整っていくように見えても、人民はますます気力を失い、文明の精神はどんどん衰えていくだけだ。

236/901
五編(3/5)9/10

今、政府には常備の軍隊がある。人民はこれを国を守る兵として、その盛んさを喜び意気揚々とすべきはずなのに、かえって民を威圧する道具と見なして恐れるだけだ。今、政府には学校や鉄道がある。人民はこれを文明の証として誇るべきなのに、かえって政府のお恵みだと思い、ますます頼る心が強まるだけだ。

237/901
五編(3/5)10/10

人民がすでに自国の政府に対して萎縮しきっているのに、どうして外国と競い合って文明を争う余裕があるだろうか。

238/901
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五編(3/5)

10スナック

五編(4/5)
五編(4/5)1/10

だから言いたい。人民に独立の気力がなければ、文明の形を整えても無用の長物であるばかりか、かえって人々の心を萎縮させる道具になってしまう。以上の議論から考えると、国の文明は上の政府から起こすものでもなく、下の庶民から生まれるものでもない。

239/901
五編(4/5)2/10

必ずその中間の人々から興り、世の中の方向を示し、政府と並び立ってはじめて成功が期待できるのだ。

240/901
五編(4/5)3/10

西洋諸国の歴史を調べてみると、商売や工業の道で、政府が作り出したものは一つもない。その元はすべて、中間層の学者たちの知恵と工夫から生まれたものばかりだ。蒸気機関はワットの発明であり、鉄道はスティーブンソンの工夫であり、経済の法則を論じて商売のやり方を一変させたのはアダム・スミスの功績である。

241/901
五編(4/5)4/10

これらの偉大な人物はいわゆるミドルクラスの人々で、国の政治家でもなく、また肉体労働の庶民でもない。まさに国民の中間に位置し、知力で世の中を導いた人たちだ。その工夫や発明がまず一人の頭の中で生まれると、それを世に公開して実際に行うために仲間を集め、ますますその事業を大きくし、人々に計り知れない幸福を末永く残すのである。

242/901
五編(4/5)5/10

この間、政府の役割はといえば、ただその事業を妨げずに自由にやらせ、人々が向かうところを察してこれを守ることだけだ。だから文明の事業を行うのは民間の人々であり、その文明を守るのが政府なのだ。

243/901
五編(4/5)6/10

こうして国民は文明をまるで自分のものとして、競い合い、羨み、誇り、国に何か良いことがあれば国中の人が手を叩いて喜び、ただ他国に先を越されることだけを恐れるのだ。

244/901
五編(4/5)7/10

だから文明に関わるあらゆるものが人民の気力を高める道具となり、一つとして国の独立を助けないものはない。その状況は、まさに我が国の現状と正反対だと言ってもよいだろう。

245/901
五編(4/5)8/10

今の日本で、あのミドルクラスの立場に立ち、文明を先導して国の独立を守るべき者は、ただ学者だけである。

246/901
五編(4/5)9/10

しかしこの学者たちは、時勢を見る目が足りないのか、国を憂えることが自分のことほど切実でないのか、あるいは世の風潮に流されて何でも政府頼みだと思っているのか、大半は学者の立場にとどまらず官職に就き、些末な事務に走り回って無駄に心身をすり減らしている。

247/901
五編(4/5)10/10

その振る舞いには笑えるものが多いのだが、本人はそれで満足し、周りも怪しまない。ひどい場合には「野に遺賢なし(在野に優秀な人材は残っていない)」と言ってこれを喜ぶ者さえいる。

248/901
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五編(4/5)

10スナック

五編(5/5)
五編(5/5)1/8

もちろん時代の流れがそうさせているのであって、その罪は一個人にあるわけではないが、国の文明にとっては大きな災いと言わざるを得ない。文明を育てる役目を担うべき学者たちが、その精神が日に日に衰えていくのを傍観して憂える者がいないとは、本当に深いため息をつくべきことであり、また声を上げて嘆くべきことである。

249/901
五編(5/5)2/8

ただ我が慶応義塾の仲間だけは、かろうじてこの災難を免れ、数年にわたって独立の名を失わず、独立の塾で独立の気概を養ってきた。その目指すところは、全国の独立を守るという一点にある。とはいえ、時勢が世を支配する力は急流のようであり大風のようである。

250/901
五編(5/5)3/8

この勢いに立ち向かって毅然とするのはもちろん容易ではなく、並外れた勇気がなければ、知らぬ間に流され靡き、足元を失う恐れがある。

251/901
五編(5/5)4/8

そもそも人の勇気や実行力は、読書だけで身につくものではない。読書は学問の手段であり、学問は物事を行うための手段だ。実際の現場に出て経験を積まなければ、決して勇気や実行力は生まれない。我が塾で既にその力を身につけた者は、貧しさに耐え困難を乗り越えて、学んだ知識を文明の実践に活かさなければならない。

252/901
五編(5/5)5/8

その分野は数え切れないほどある。

253/901
五編(5/5)6/8

商売に励まなければならない、法律を議論しなければならない、工業を興さなければならない、農業を勧めなければならない、著述・翻訳・新聞の出版など、およそ文明に関わることはすべて自分のものとして取り組み、国民の先頭に立って政府と助け合い、官の力と民の力を均等にして国全体の力を増し、今の危うい独立を揺るがぬ基盤の上に置き、

254/901
五編(5/5)7/8

外国と競っても一歩も譲らず、今から数十年後に振り返って今日の姿を思い出し――

255/901
五編(5/5)8/8

今日の独立を喜ぶどころか、むしろ笑って懐かしむほどに発展している――そうなれば、それこそ痛快なことではないか。

256/901
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五編(5/5)

8スナック

六編(1/6)
六編(1/6)1/10

学者は自分の進むべき方向を定めて、しっかりとした目標を持つべきである。【六編 国法の貴さについて】政府とは国民の代理人であり、国民の意向に従って事を行うものだ。その役割は、罪ある者を取り締まり罪なき者を守ること、それだけである。これが国民の望みであり、この目的を果たせば国内の利益となる。

257/901
六編(1/6)2/10

そもそも罪ある者とは悪人であり、罪なき者とは善人である。

258/901
六編(1/6)3/10

もし悪人が来て善人を害そうとするなら、善人が自分で防ぎ、自分の家族を殺そうとする者がいれば捕まえて殺し、財産を盗もうとする者がいれば捕まえて打ち据える――理屈としては問題ないが、一人の力で大勢の悪人を相手にして防ぐのは、とても無理なことだ。

259/901
六編(1/6)4/10

たとえ何とか対処しようとしても、莫大な費用がかかって割に合わない。だから先に述べたように、国民の代表として政府を立て、善人を守る役目を任せ、その代わりに役人の給料はもちろん政府のあらゆる経費を国民が負担しましょうと約束したのだ。

260/901
六編(1/6)5/10

さらに政府は国民の総代理人として事を行う権限を得たのだから、政府がすることは国民がすることと同じであり、国民は必ず政府の法に従わなければならない。

261/901
六編(1/6)6/10

これも国民と政府の約束だ。だから国民が政府に従うのは、政府が作った法に従うのではなく、自分たちが作った法に従うことなのだ。国民が法を破るのは、政府の法を破るのではなく、自分たちの法を破ることだ。法を破って罰を受けるのは、政府に罰せられるのではなく、自分たちが定めた法によって罰せられるのだ。

262/901
六編(1/6)7/10

これを分かりやすく言えば、国民は一人で二人分の役目を果たしているようなものだ。

263/901
六編(1/6)8/10

その一つ目の役目は、自分の代理として政府を立て、国中の悪人を取り締まって善人を守ることだ。二つ目の役目は、政府との約束をしっかり守り、法に従って保護を受けることだ。このように、国民は政府と約束して政治の権限を政府に任せたのだから、決してこの約束を破って法に背いてはいけない。

264/901
六編(1/6)9/10

人を殺した者を捕まえて死刑にするのも政府の権限、盗賊を縛って牢屋に入れるのも政府の権限、裁判を行うのも政府の権限、暴力や喧嘩を取り締まるのも政府の権限だ。これらのことについて、国民は少しも手を出してはいけない。

265/901
六編(1/6)10/10

もし勘違いして勝手に罪人を殺したり、盗賊を捕まえて打ったりすれば、それは国の法を犯し、自分勝手に他人の罪を裁いたことになる。これを「私裁」と言い、その罪は許されない。

266/901
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六編(1/6)

10スナック

六編(2/6)
六編(2/6)1/10

この点については、文明諸国の法律は非常に厳しい。いわゆる「威厳はあるが乱暴ではない」というものだ。日本では政府の威光は盛んに見えるが、人民はただ政府の偉さを恐れるだけで、法そのものの尊さを知らない者がいる。ここで私裁がなぜいけないのか、国法がなぜ尊いのかを説明しよう。

267/901
六編(2/6)2/10

例えば、自分の家に強盗が押し入り、家族を脅して金を奪おうとしたとする。

268/901
六編(2/6)3/10

この時、家の主人の本来の義務は、この件を政府に訴えて処置を待つことだ。しかし事態は火急で訴え出る暇もなく、そうこうするうちに強盗が蔵に入って金を持ち出そうとしている。

269/901
六編(2/6)4/10

止めようとすれば主人の命も危ない。そこでやむを得ず、家の者で協力してとりあえず強盗を捕まえ、その後で政府に届け出るのだ。

270/901
六編(2/6)5/10

強盗を捕まえる際には、棒を使うこともあり、刃物を使うこともあり、賊に怪我をさせることもあるだろう。足を折ることもあるかもしれないし、緊急の時は鉄砲で撃ち殺すこともあるかもしれない。しかし結局のところ、主人は自分の命を守り財産を守るために一時的に対処しただけであり、決して賊の無礼を咎めて罪を罰する趣旨ではない。

271/901
六編(2/6)6/10

罪人を罰するのは政府だけに認められた権限であり、個人の仕事ではない。

272/901
六編(2/6)7/10

だから自分の力で強盗を取り押さえ、手中に収めた以上は、一般人の立場としてこれを殺したり殴ったりしてはならないのはもちろん、指一本触れることも許されない。

273/901
六編(2/6)8/10

ただ政府に知らせて裁判を待つだけだ。もし強盗を捕まえた後で、怒りに任せて殺したり殴ったりすれば、その罪は無実の人を殺し、無実の人を殴るのと変わらない。

274/901
六編(2/6)9/10

例えばある国の法律に「十円を盗んだ者の刑は百叩き、また足で人の顔を蹴った者の刑も百叩き」とあるとする。

275/901
六編(2/6)10/10

ここに泥棒がいて、人の家に入り十円を盗んで逃げようとした時、主人に取り押さえられ、すでに縛られた後で、主人がなおも怒りに任せて足で泥棒の顔を蹴ったとする。

276/901
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六編(2/6)

10スナック

六編(3/6)
六編(3/6)1/10

するとその国の法律で裁けば、泥棒は十円を盗んだ罪で百叩き、主人もまた一般人の身で勝手に賊の罪を裁き足で顔を蹴った罪で百叩きとなるだろう。

277/901
六編(3/6)2/10

国法の厳しさはこのようなものだ。人々は恐れなければならない。この理屈で考えれば、敵討ちがよくないこともわかるだろう。自分の親を殺した者は、その国で一人の人間を殺した公の罪人だ。この罪人を捕まえて刑に処するのは政府だけの役目であり、一般人が関わることではない。

278/901
六編(3/6)3/10

それなのに殺された者の子だからといって、政府に代わって勝手にこの公の罪人を殺す道理があるだろうか。

279/901
六編(3/6)4/10

出しゃばりな行為と言うべきだけでなく、国民としての義務を誤り、政府との約束に背くものだ。もしこの件で政府の対応がおかしく罪人をひいきするようなことがあれば、その不当さを政府に訴えるべきだ。どんな事情があっても、決して自分で手を出してはいけない。たとえ親の仇が目の前をうろついていても、勝手にこれを殺す道理はない。

280/901
六編(3/6)5/10

昔、徳川の時代に、浅野家の家来が主君の仇討ちとして吉良上野介を殺したことがあった。

281/901
六編(3/6)6/10

世間はこれを赤穂の義士と称えている。大きな間違いではないか。この時、日本の政府は徳川であった。浅野内匠頭も吉良上野介も浅野家の家来も、皆日本の国民であり、政府の法に従いその保護を受けると約束していた者たちだ。

282/901
六編(3/6)7/10

それなのに、ちょっとした行き違いで上野介が内匠頭に無礼を働いた時、内匠頭はこれを政府に訴えることを知らず、怒りに任せて上野介を斬ろうとし、ついに双方の喧嘩になった。徳川政府の裁判で内匠頭には切腹が命じられ、上野介には刑が加えられなかった。この裁判は実に不公正なものだったと言うべきだ。

283/901
六編(3/6)8/10

浅野家の家来たちがこの裁判を不公正だと思ったなら、なぜこれを政府に訴えなかったのか。

284/901
六編(3/6)9/10

四十七士が申し合わせて、それぞれ正当な手続きに従って政府に訴え出ていたなら、もとより横暴な政府のことだから最初は訴えを取り上げず、あるいはその人を捕まえて殺すこともあっただろう。

285/901
六編(3/6)10/10

しかしたとえ一人が殺されても恐れずにまた代わりの者が訴え出て、殺されるたびに訴え続け、四十七人の家来が正義を訴えて命を失い尽くすに至れば、いかなる悪政府でもついには必ずその正しさに屈し――

286/901
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六編(3/6)

10スナック

六編(4/6)
六編(4/6)1/10

上野介にも刑を科して裁判を正すことがあっただろう。

287/901
六編(4/6)2/10

そうしてこそはじめて本当の義士と呼べるはずなのに、この道理を知らず、国民の立場にいながら国法の重さを顧みず勝手に上野介を殺したのは、国民の義務を誤り政府の権限を侵して、勝手に人の罪を裁いたものだ。

288/901
六編(4/6)3/10

幸い徳川政府がこの乱暴者たちを処刑したから事は収まったが、もし許していたら、吉良家の一族がまた仇討ちとして赤穂の家来を殺すことは間違いなかっただろう。

289/901
六編(4/6)4/10

そうなればこちらの一族もまた仇討ちで吉良の一族を攻め、仇討ちに仇討ちが続いて果てしなく、ついには双方の一族や仲間が死に絶えるまで止まらない。いわゆる無政府・無法の世の中とはこういうことだ。私裁が国を害することはこれほどのものだ。慎まなければならない。

290/901
六編(4/6)5/10

昔の日本では、百姓や町人が武士に対して無礼を働けば「切り捨て御免」という法があった。これは政府が公に私裁を許したものだ。

291/901
六編(4/6)6/10

とんでもないことではないか。そもそも国の法は一つの政府だけが執行すべきものであり、法の出どころが多くなればなるほど、その権力もそれに応じて弱くなる。例えば封建時代に三百の大名がそれぞれ生殺与奪の権を持っていた時は、政府の力もその分だけ弱かったはずだ。私裁の最も極端なもので、政治を害する最も大きなものは暗殺である。

292/901
六編(4/6)7/10

昔から暗殺の事例を見ると、私怨のためにする者もあれば、金を奪うためにする者もある。この種の暗殺を企てる者はもとより罪を犯す覚悟で、自分でも罪人のつもりだ。しかし別にもう一種の暗殺がある。この暗殺は個人的な理由ではなく、いわゆる政敵を憎んで殺すものだ。

293/901
六編(4/6)8/10

国の政治について各自が意見を異にし、自分の考えで他人の罪を勝手に裁き、政府の権限を侵して好き勝手に人を殺し、それを恥じないどころかむしろ得意顔をし、自ら「天誅を行った」と称すれば、世間もこれを「報国の士」と呼ぶ者がいる。そもそも天誅とは何だ。天に代わって罰を下したというつもりか。

294/901
六編(4/6)9/10

もしそのつもりなら、まず自分の立場をよく考えなければならない。

295/901
六編(4/6)10/10

もともとこの国に住んで、政府に対してどんな約束をしたのか。 「必ず国法を守り、身の保護を受ける」と約束したはずだ。

296/901
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六編(4/6)

10スナック

六編(5/6)
六編(5/6)1/10

もし国の政治に不満があり、国を害する人物がいると思うなら、静かにこれを政府に訴えるべきなのに、政府を差し置いて自ら天に代わって事を行うとは、お門違いも甚だしいと言うべきだ。

297/901
六編(5/6)2/10

結局この種の人は、性格は真面目だが物事の道理に暗く、国を憂えることは知っていても、国を憂えるための正しい方法を知らない者だ。歴史を見てみよ。古今東西の実例で、暗殺によってうまく事を成し世の中の幸福を増したものは、いまだかつて一つもない。

298/901
六編(5/6)3/10

国法の尊さを知らない者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前だけうまく取り繕い、表向き犯罪の名がなければ実質的な罪を犯しても恥としない。

299/901
六編(5/6)4/10

恥じないだけでなく、巧みに法を破って罰を逃れる者がいれば、かえってそれをその人の腕前として良い評判を得ることさえある。

300/901
六編(5/6)5/10

世間の日常会話では、「これもお上の御法度だ、あれも政府の建前だけれど、こうやって裏で取り計らえば表向きの御法度には引っかからない」などと、「表向きの内緒」と笑いながら話して誰も咎めない。ひどい場合には下級役人と相談の上でこの裏工作をし、双方ともに得をして罪がないかのように振る舞っている。

301/901
六編(5/6)6/10

実際、あの御法度というものが煩雑すぎて実行不可能だからこそ、こうした裏工作も行われるのだろうが、一国の政治として考えれば、最も恐るべき悪習だ。こうして国法を軽んじる風潮に慣れ、人民全体に不誠実な気風が生まれ、守れば便利なはずの法まで守らなくなり、ついには罰を受けることになる。

302/901
六編(5/6)7/10

例えば、今、往来で立小便をすることは政府の禁制だ。

303/901
六編(5/6)8/10

ところが人民は皆、この禁令の尊さを知らずに、ただ巡査を恐れるだけだ。日暮れ時など巡査がいないのを見計らって法を破ろうとし、たまたま見つかれば罰に従うものの、本人の心の中では尊い国法を犯したから罰せられるとは思わず、ただ恐ろしい巡査に出くわしたのがその日の不運だと思うだけだ。実に嘆かわしいことではないか。

304/901
六編(5/6)9/10

だから政府が法を立てる時は、できるだけ簡潔なのがよい。

305/901
六編(5/6)10/10

いったんこれを定めて法とした以上は、必ず厳格にその趣旨を貫かなければならない。人民は政府の定めた法を見て不便だと思うことがあれば、遠慮なく論じて訴えるべきだ。しかしいったんその法を認めてその下にいる以上は、勝手に法の良し悪しを言わず、慎んでこれを守らなければならない。

306/901
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六編(5/6)

10スナック

六編(6/6)
六編(6/6)1/12

最近、先月のことだが、我が慶応義塾にも一つの出来事があった。

307/901
六編(6/6)2/12

華族の太田資美君が一昨年から私費でアメリカ人を雇い、義塾の教員として提供していたが、このたび交代の時期が来て、別のアメリカ人を雇おうとした。本人との話はすでにまとまったので、太田氏が東京府に書面を出し、このアメリカ人を義塾に入れて文学・科学の教師にしたいと願い出た。

308/901
六編(6/6)3/12

ところが文部省の規則に――

309/901
六編(6/6)4/12

「本国で学科卒業の免状を取得し所持している者でなければ、雇い入れを許可しない」という条項があった。

310/901
六編(6/6)5/12

ところが今回雇おうとしていたアメリカ人はその免状を持っていなかった。ただの語学教師ということならともかく、文学・科学の教師としては願いを聞き届けられないと、東京府から太田氏に通達があった。

311/901
六編(6/6)6/12

そこで福沢諭吉から東京府に書面を出し、「この教師は免状を持っていないが、その学力は当塾の生徒を教えるのに十分である。太田氏の願い通りに許可されたい。あるいは語学教師と申し立てれば願いも通るだろうが、もともと我が生徒は文学・科学を学ぶつもりなので、語学と偽って官を欺くことはしない」と願い出た。

312/901
六編(6/6)7/12

しかし文部省の規則は変えられないとのことで、諭吉の願書も返却された。

313/901
六編(6/6)8/12

このため、すでに内約が整っていた教師を雇えなくなり、去年の十二月下旬に本人はアメリカへ帰ってしまった。太田君の志も水の泡となり、数百人の生徒も望みを失った。実に一私塾の不幸にとどまらず、日本の学問のためにも大きな妨げであり、馬鹿らしく腹立たしいことだが、国法は尊重すべきものなので、どうしようもない。

314/901
六編(6/6)9/12

いずれ近日また改めて願い出るつもりだ。

315/901
六編(6/6)10/12

今回の件について、太田氏をはじめ塾の仲間が集まって相談し、「あの文部省が定めた私塾教師の規則もいわゆる御法度だから、ただ『文学・科学』の文字を消して『語学』に変えれば願いも通り、生徒にとっては大いに幸いだろう」と何度も話し合った。

316/901
六編(6/6)11/12

しかし結局、今回の教師を得られず生徒の学業が後退することがあっても、官を欺くのは立派な人間として恥ずべきことだから、慎んで法を守り国民としての分を誤らない方が――

317/901
六編(6/6)12/12

上策であるということになり、ついにこのような結末に至ったのだ。

318/901
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六編(6/6)

12スナック

七編(1/6)
七編(1/6)1/10

もちろん一私塾の話なので些細なことに見えるかもしれないが、議論の趣旨は世の教えにも関わることと思い、ついでにこれを巻末に記しておく。【七編 国民の職分について】第六編で国法の尊さを論じ、「国民は一人で二人分の役目を果たすものだ」と述べた。今またこの役目・職分についてさらに詳しく説明し、六編の補足としたい。

319/901
七編(1/6)2/10

そもそも国民には、一人の身で二つの務めがある。

320/901
七編(1/6)3/10

その一つ目は、政府の下に立つ一人の民としての務めだ。これは言わば「お客」の立場である。二つ目は、国中の人民が申し合わせて「国」という会社を作り、その規則を定めて実行することだ。

321/901
七編(1/6)4/10

これは「主人」の立場である。例えば百人の商人がある商社を作り、皆で相談して規則を定めて実行するなら、百人はその商社の主人だ。

322/901
七編(1/6)5/10

この規則が定まって、社中の人が皆これに従い背かないなら、百人はその商社の客でもある。つまり国は商社のようなもの、人民は社中の人のようなもので、一人で主人と客の二つの役割を果たすべき存在なのだ。第一に、客の立場から言えば、国民は国法を重んじ、人間は皆平等だという趣旨を忘れてはいけない。

323/901
七編(1/6)6/10

他人が自分の権利を侵すのを嫌うなら、自分も他人の権利を妨げてはいけない。

324/901
七編(1/6)7/10

自分が楽しむものは他人も楽しむのだから、他人の楽しみを奪って自分の楽しみを増やしてはいけない。他人の物を盗んで自分の富にしてはいけない。人を殺してはいけない、人を中傷してはいけない。正しく国法を守り、お互い平等という大義に従うべきだ。

325/901
七編(1/6)8/10

また、国の政治体制によって定められた法は、たとえ愚かに思えても不便に思えても、みだりに破る道理はない。

326/901
七編(1/6)9/10

軍を動かすのも外国と条約を結ぶのも政府の権限であり、この権限はもともと約束によって国民から政府に与えたものだから、政府の政治に関係のない者は決してそのことに口出しすべきではない。

327/901
七編(1/6)10/10

もし国民がこの道理を忘れて、政府の対応が気に入らないからと勝手に議論を起こし、条約を破ろうとしたり軍を起こそうとしたり、ひどい場合には一人で刀を持って飛び出すようなことがあれば、国の政治は一日も保たない。

328/901
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七編(1/6)

10スナック

七編(2/6)
七編(2/6)1/10

これは例えるなら、あの百人の商社で相談の上十人を選んで支配人にしたのに、残り九十人が支配人のやり方が気に入らないと各自勝手に商売を論じ、支配人が酒を売ろうとすれば九十人はぼた餅を仕入れようとし、意見がバラバラで、ひどい場合には独断でぼた餅の取引を始め、商社の規則に背いて他人と争いを起こすようなものだ。

329/901
七編(2/6)2/10

そんなことでは会社の商売は一日も成り立たない。

330/901
七編(2/6)3/10

ついにその商社が解散することになれば、その損害は百人全員が等しく引き受けることになる。愚かなこともはなはだしい。だから国法が不正で不便だとしても、それを口実にして破る道理はない。もし実際に不正や不便な点があるなら、国の支配人である政府に説いて穏やかにその法を改めさせるべきだ。

331/901
七編(2/6)4/10

政府が聞き入れなければ、力を尽くしつつも辛抱して時節を待つべきである。

332/901
七編(2/6)5/10

第二に、主人の立場から言えば、国民はすなわち政府そのものだ。なぜなら、国民全員が直接政治を行うわけにはいかないから、政府というものを設けてこれに国政を任せ、国民の代理として事務を処理させるという約束を定めたからだ。だから国民は家元であり主人であり、政府は代理人であり支配人だ。

333/901
七編(2/6)6/10

例えば商社百人の中から選ばれた十人の支配人が政府で、残り九十人が国民のようなものだ。

334/901
七編(2/6)7/10

この90人の出資者たちは、自分で実務をこなすわけではないが、自分の代理として10人に仕事を任せたのだから、立場としては商社のオーナーと言わざるを得ない。

335/901
七編(2/6)8/10

また、あの10人の支配人は実務を担当しているとはいえ、もともと出資者たちの依頼を受けて、その意向に従って仕事をすると約束した者たちだから、実際には私的な仕事ではなく、商社の公務を行っているのだ。

336/901
七編(2/6)9/10

世間で政府に関することを「公務」「公用」と呼ぶのも、その言葉の由来をたどれば、政府の仕事は役人個人のものではなく、国民の代理として国を治める公の仕事だという意味だ。こうした理由から、政府は国民から委託を受け、その約束に従い、身分の上下なくすべての人の権利を守らなければならない。

337/901
七編(2/6)10/10

法を正しくし罰を厳格にして、少しでも不公平があってはならないのだ。

338/901
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七編(2/6)

10スナック

七編(3/6)
七編(3/6)1/10

もし賊の集団が人の家に押し入ったとき、政府がそれを見て取り締まれないなら、政府も賊の仲間と言ってよい。政府が国法の趣旨を果たせず国民に損害を与えたなら、その額の大小や時期の新旧を問わず、必ず賠償しなければならない。

339/901
七編(3/6)2/10

たとえば役人の不手際で国内の人や外国人に損害を与え、3万円の賠償金を払うことになったとしよう。

340/901
七編(3/6)3/10

政府にはもともとお金があるはずがないから、その賠償金の出どころは必ず国民だ。この3万円を日本全国およそ3000万人で割ると、一人あたり10文になる。役人の不手際が10回重なれば、一人あたり100文。5人家族なら500文だ。

341/901
七編(3/6)4/10

田舎の小さな農家にとって500文あれば、妻子と一緒に山里なりのごちそうを用意して、ひと晩の楽しみを味わえるはずだ。それが、ただ役人の不手際のせいだけで、日本中の罪のない庶民からこの上ない楽しみを奪ってしまうとは、本当に気の毒な話ではないか。

342/901
七編(3/6)5/10

国民としては、そんな馬鹿らしいお金を出す理由などないように思える。しかし、その国民こそ国の大元のオーナーであり、最初から政府にこの国を任せて運営させる約束をし、損得ともに自分で引き受けるべき立場なのだから、お金を失った時だけ役人の失態をあれこれ批判するのはよくない。

343/901
七編(3/6)6/10

だから国民は、ふだんからよく注意を払い、政府の対応に不安を感じたら、親切に指摘し、遠慮なく穏やかに意見を述べるべきだ。国民はすでに国のオーナーであり、国を守るための費用を払うのはもともとその役目なのだから、この費用を出すにあたって、決して不満の顔を見せるべきではない。

344/901
七編(3/6)7/10

国を守るためには役人の給料も必要だし、陸海軍の費用も必要だ。裁判所の費用もあれば地方の役所の費用もある。合計すれば大金に思えるが、一人あたりに割ると、いくらになるだろうか。日本の歳入を全国の人口で割れば、一人あたり1円か2円だろう。

345/901
七編(3/6)8/10

一年間にわずか1、2円を払って政府の保護を受け、夜中の強盗の心配もなく、一人旅で山賊を恐れることもなく、安心してこの世を生きていけるのは、大きな恩恵ではないか。どんなにお得な商売があるといっても、税金を払って政府の保護を買うほど安い買い物はないだろう。

346/901
七編(3/6)9/10

世の中を見ると、建築に大金をかける人もいれば、良い服や美食に力を注ぐ人もいる。ひどい場合は酒や遊びにお金を捨てて財産を傾ける人もいる。こうした出費と税金の額を比べたら、比較にもならない。

347/901
七編(3/6)10/10

無駄遣いなら一銭でも惜しむべきだが、道理にかなった出費であるだけでなく、払えば安い買い物ができるお金なのだから、迷うことなく気持ちよく税金を払うべきだ。

348/901
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七編(3/6)

10スナック

七編(4/6)
七編(4/6)1/10

このように国民も政府もそれぞれの本分を尽くして協力し合えれば文句はないが、時には政府がその本分を越えて暴政を行うことがある。そうなったとき、国民の取るべき行動はただ三つしかない。すなわち、屈服して政府に従うか、力で政府に対抗するか、正しい道理を守って身を捨てるか、この三つだ。

349/901
七編(4/6)2/10

第一の、屈服して政府に従うのは、もっともよくない。

350/901
七編(4/6)3/10

人は天の正しい道に従うことを本分とする。それなのに節を曲げて政府が人為的に作った悪法に従うのは、人としての本分を破ることだ。しかも、一度屈服して不正な法に従えば、後の世代に悪い前例を残し、世の中全体に悪い風潮を広めてしまうだろう。

351/901
七編(4/6)4/10

昔から日本でも、愚かな民の上に暴政の政府があって、政府が威圧的に振る舞えば、民はおびえ恐れた。あるいは政府のやり方を見て明らかに理不尽だと思っても、正面から理非を述べれば必ず怒りを買い、後々ひそかに役人に痛めつけられるだろうと恐れて、言うべきことも言わなかった。

352/901
七編(4/6)5/10

その「後日の恐れ」とは、俗に言う「犬の糞で仕返しされる」というやつで、人々はひたすらこの報復を恐れ、どんな無理でも政府の命令には従うものだと心得て、世の中全体の風潮となり、ついに今日の情けない有様に陥ったのだ。これこそ国民が屈服した結果、禍を後世に残した一例だ。

353/901
七編(4/6)6/10

第二の、力で政府に対抗するのは、一人でできることではなく、必ず仲間を集めなければならない。つまり内乱である。

354/901
七編(4/6)7/10

これは決して良い策とは言えない。いったん兵を挙げて政府に立ち向かえば、事の善悪はひとまず置いて、ただ力の強弱だけを比べることになる。しかし古今の内乱の歴史を見れば、民衆の力は常に政府より弱い。また内乱を起こせば、それまでその国で行われていた政治の仕組みがひっくり返るのは言うまでもない。

355/901
七編(4/6)8/10

しかし旧い政府も、どんなに悪政であっても、それなりの善政や良い法律がなければ長年政府の名で統治できるはずがない。だから一時の暴挙でこれを倒しても、暴力を暴力で置き換え、愚かさを愚かさで置き換えるだけだ。

356/901
七編(4/6)9/10

また内乱のきっかけをたどれば、もともと人の非情さを憎んで起こしたものだ。しかし、この世で内乱ほど非情なものはない。

357/901
七編(4/6)10/10

友人との交わりを壊すのはもちろん、ひどい場合は親子で殺し合い、兄弟で敵対し、家を焼き人を殺し、あらゆる悪事を尽くす。そんな恐ろしい状態で人の心はますます残忍になり、ほとんど動物とも言える振る舞いをしておきながら、旧い政府よりも良い政治を行い、寛大な法律を敷いて、世の中を思いやりの厚い方向に導こうというのか。

358/901
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七編(4/6)

10スナック

七編(5/6)
七編(5/6)1/10

無理な話というべきだ。

359/901
七編(5/6)2/10

第三の、正しい道理を守って身を捨てるとは、天の道理を信じて疑わず、どんな暴政の下にいても、どんなに厳しい法で苦しめられても、その苦痛を耐え忍んで志を曲げず、武器を一切持たず、力も一切使わず、ただ正しい道理を唱えて政府に迫ることだ。以上三つのうち、この第三の策こそ最善とすべきだ。

360/901
七編(5/6)3/10

道理で政府に迫れば、その時その国にある良い政治や法律は少しも害を受けない。

361/901
七編(5/6)4/10

その正論がすぐに受け入れられないこともあるだろう。しかし道理のあるところはこの主張によって明らかなのだから、人の心は必ずこれに従う。だから今年実現しなければ、来年を待てばよい。

362/901
七編(5/6)5/10

また、力で対抗すれば一つを得ようとして百の害を招く危険があるが、道理を唱えて政府に迫れば、ただ除くべき害を除くだけで、他に問題を起こすことがない。

363/901
七編(5/6)6/10

その目的は政府の不正をやめさせることにあるのだから、政府のやり方が正しくなれば、議論もおのずと終わるだろう。

364/901
七編(5/6)7/10

また、力で政府に立ち向かえば、政府は必ず怒り、自分の非を顧みないどころか、ますます暴威を振るって間違いを押し通そうとする勢いになるだろう。しかし静かに正論を唱える者に対しては、たとえ暴政の政府であっても、その役人もまた同じ国の人間なのだから、正義を守って身を捨てる姿を見れば、必ず同情し憐れむ心が生まれるはずだ。

365/901
七編(5/6)8/10

他者を憐れむ心が生まれれば、おのずと過ちを悔い、おのずと気勢がくじけて、必ず改心するに至るだろう。このように世を憂いて身を苦しめ、時には命を落とすことを、西洋の言葉でマーターダム(殉教)という。失うのはただ一人の命だけだが、その効果は、何千何万人を殺し何千万両を費やした内乱の軍勢よりも、はるかに大きい。

366/901
七編(5/6)9/10

昔から日本で討ち死にした者も多く、切腹した者も多い。いずれも忠臣義士として評判は高いが、その命を捨てた理由をたどれば、多くは二人の主君が権力を争う戦に関わった者か、主君の敵討ちなどで華々しく命を投げ出した者ばかりだ。見た目は美しいようだが、実際には世の中の役には立っていない。

367/901
七編(5/6)10/10

自分の主人のためだと言い、主人に申し訳が立たないからと、ただ命さえ捨てればよいと思うのは、教養のない時代の常識だが、今、文明の大義でこれを考えれば、こうした人々はまだ命の捨てどころを知らない者と言うべきだ。

368/901
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七編(5/6)

10スナック

七編(6/6)
七編(6/6)1/11

そもそも文明とは、人の知恵と徳を向上させ、一人一人が自分自身を律して互いに付き合い、害することも害されることもなく、それぞれの権利を実現して社会全体の安全と繁栄を達成することを言う。

369/901
七編(6/6)2/11

だから、戦いにしても敵討ちにしても、はたしてこの文明の趣旨にかなうのか。この戦いに勝ちこの敵を滅ぼし、この敵討ちを遂げてこの主人の面目を立てれば、必ず世の中は文明に向かい、商売も盛んになり工業も興って社会全体が安全で繁栄するという目的があるなら、討ち死にも敵討ちももっともなようだが、実際にはそんな目的があるはずがない。

370/901
七編(6/6)3/11

かの忠臣義士たちにも、そこまでの見通しはなかっただろう。

371/901
七編(6/6)4/11

ただ義理で主人への申し訳を果たしただけのことだろう。主人への申し訳で命を捨てた者を忠臣義士と呼ぶなら、今の世にもそういう人は多い。下男の権助が主人の使いに行き、1両の金を落として途方に暮れ、主人に申し訳が立たないと思い詰めて、並木の枝にふんどしをかけて首を吊る例は世に珍しくない。

372/901
七編(6/6)5/11

この忠実な下男が自ら死を決めたときの気持ちを察すれば、同情に値しないだろうか。

373/901
七編(6/6)6/11

使いに出たまま帰らず、まず自分が死んでしまう。永く英雄をして涙で胸をぬらさしめるべきだ。主人から預かった1両の金を失い、主従の義理を一死をもって果たしたのは、古今の忠臣義士に対して少しも恥じることがない。

374/901
七編(6/6)7/11

その忠誠は太陽や月とともに輝き、その功名は天地とともに永遠であるはずなのに、世間の人は皆つれなくこの権助を軽蔑し、石碑を建てて功績を称える者もなく、殿堂を建てて祀る者もいないのはなぜか。

375/901
七編(6/6)8/11

みな言うだろう、「権助の死はわずか1両のためで、たいした話ではない」と。しかし事の重さは、金額の大小や人数の多少で決まるものではない。世の文明に役立つかどうかで、その重さを決めるべきなのだ。

376/901
七編(6/6)9/11

かの忠臣義士が1万の敵を殺して討ち死にするのも、この権助が1両を失って首を吊るのも、その死が文明の役に立たないという点ではまったく同じだ。どちらが軽くどちらが重いとも言えないのだから、義士も権助も、ともに命の捨てどころを知らない者と言ってよい。こうした行為をマーターダム(殉教)と呼ぶことはできない。

377/901
七編(6/6)10/11

私が知るかぎり、人民の権利を主張し正論を唱えて政府に迫り、命を捨てて最後を全うし、世界中に対して恥じることのない者は、昔からただ一人、佐倉宗五郎だけだ。ただし宗五郎の伝記は世間に伝わる読み物の類だけで、まだ詳しい正史は見つかっていない。もし見つかったら、いつかこれを書き記してその功績を称え、世の人の手本としたい。

378/901
七編(6/6)11/11

八編 自分の考えで他人を支配してはならない

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七編(6/6)

11スナック

八編(1/6)
八編(1/6)1/10

アメリカのエイランドという人が書いた『モラル・サイエンス』という本に、人の心身の自由について論じた部分がある。その要旨はこうだ。人の体は他人とは別の独立した存在であり、自分で自分の体を扱い、自分で自分の心を使い、自分一人を管理して、やるべき仕事をやるものである。そこで、第一に、人にはそれぞれ身体がある。

380/901
八編(1/6)2/10

身体によって外の物に接し、それを手に入れて望みを叶えることができる。

381/901
八編(1/6)3/10

たとえば種を蒔いて米を作り、綿を取って衣服を作るようなものだ。第二に、人にはそれぞれ知恵がある。知恵によって物事の道理を発見し、事を進める方法を間違えない。たとえば米作りで肥料の方法を考え、木綿を織るのに機械を工夫するようなものだ。すべて知恵と判断力の働きだ。第三に、人にはそれぞれ欲望がある。

382/901
八編(1/6)4/10

欲望が心身の働きを起こし、この欲望を満たして幸福を得る。たとえば人は誰でも良い服や美味しい食事を好む。

383/901
八編(1/6)5/10

しかし良い服や美味しい食事は自然に湧いてくるものではない。これを手に入れるには人の働きが必要だ。だから人の働きはたいてい欲望に促されて起きるものだ。この欲望がなければ働きもなく、働きがなければ安楽な幸福もない。禅坊主などは働きもなく幸福もないものと言うべきだ。第四に、人にはそれぞれ誠実な本心がある。

384/901
八編(1/6)6/10

誠の心によって欲望を制し、その方向を正しくして、止まるべきところを定める。

385/901
八編(1/6)7/10

たとえば欲望には際限がなく、良い服や美食もどこまでで十分と線引きしにくい。もし今やるべき仕事をさておいて、ひたすら自分の欲しいものだけを得ようとすれば、他人を害して自分を利するしか道がない。これは人間のすることではない。この時に欲と道理を見分けて、欲から離れ道理の中に導くのが誠の本心だ。

386/901
八編(1/6)8/10

第五に、人にはそれぞれ意志がある。意志によって事を成す志を立てる。

387/901
八編(1/6)9/10

たとえば世の中の出来事は偶然にできるものではない。良いことも悪いことも、すべて人がこうしようという意志があってこそできるのだ。以上五つは人に欠かせない性質であり、この性質を自由自在に使いこなして、一身の独立を成し遂げるのだ。

388/901
八編(1/6)10/10

さて「独立」というと、世間から外れた変わり者で人付き合いのない人のように聞こえるが、決してそうではない。

389/901
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八編(1/6)

10スナック

八編(2/6)
八編(2/6)1/10

人としてこの世に生きている以上、友人がいないわけにはいかない。しかしその友人もまた、こちらが友人を求めるのと同じように交わりを求めてくるのだから、世の中の付き合いはお互い様だ。ただ、この五つの力を使うにあたり、天が定めたルールに従って、分をわきまえることが大切だ。

390/901
八編(2/6)2/10

つまりその分限とは、自分もこの力を使い、相手もこの力を使って、互いにその働きを妨げないということだ。

391/901
八編(2/6)3/10

このように、人としての分をわきまえて世を渡れば、人に責められることもなく、天に罰せられることもないだろう。これを人間の権利と言うのだ。以上の理由から、人は他人の権利を妨げない限り、自由に自分の身体を使う権利がある。

392/901
八編(2/6)4/10

好きなところへ行き、望むところに留まり、働くも遊ぶも、この仕事をするもあの仕事をするも、昼夜勉強するも、気が向かなければ何もせず一日寝ていても、他人に迷惑をかけないことなら、よそからあれこれ口出しする理由はない。

393/901
八編(2/6)5/10

もし前の説に反して、「人は理屈に関係なく他人の言うとおりに動くべきで、自分の考えを出すのはよくない」という議論を立てる者がいたとしよう。

394/901
八編(2/6)6/10

この議論ははたして道理にかなっているか。もし道理にかなうなら、人間が住むすべての世界で通用するはずだ。試しに一つの例を挙げよう。

395/901
八編(2/6)7/10

天皇は将軍よりも貴いのだから、天皇の意志で将軍の体を好き勝手に動かし、行こうとすれば「止まれ」と言い、止まろうとすれば「行け」と言い、寝るも起きるも飲むも食べるも思いのままにできるだろう。

396/901
八編(2/6)8/10

将軍はまた配下の大名を支配し、自分の意志で大名の体を自由に操るだろう。大名は家老を支配し、家老は用人を支配し、用人は徒士を支配し、徒士は足軽を支配し、足軽は百姓を支配するだろう。

397/901
八編(2/6)9/10

さて百姓には目下の者がいないから少々困るが、もともとこの議論は人間社会に通用する当然の道理に基づくものなのだから、百万回回っても元に戻らざるを得ない。

398/901
八編(2/6)10/10

「百姓も人であり、天皇も人である、遠慮はいらない」と開き直り、百姓の意志で天皇の体を好き勝手に扱い、お出かけしようとすれば「止まれ」と言い、行在所に留まろうとすれば「帰れ」と言い、起居や飲食すべて百姓の思い通りにして、豪華な食事をやめて麦飯を差し上げるなどということになったらどうか。

399/901
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八編(2/6)

10スナック

八編(3/6)
八編(3/6)1/10

こうなると、日本中の人間が自分自身を律する権利がないのに、他人を支配する権利はあるということになる。

400/901
八編(3/6)2/10

人の体と心がまったく別の場所にあって、体はまるで他人の魂を泊める旅館のようなものだ。下戸の体に上戸の魂を入れ、子供の体に老人の魂を入れ、盗賊の魂は孔子の体を借り、猟師の魂は釈迦の体に宿る。

401/901
八編(3/6)3/10

すると下戸が酒を酌んで愉快がり、上戸は砂糖湯を飲んで満足し、老人が木に登ってはしゃぎ、子供が杖をついて世話を焼き、孔子が弟子を率いて盗みを働き、釈迦如来が鉄砲を持って狩りに行くことになるだろう。

402/901
八編(3/6)4/10

奇妙で、不思議で、理解しがたい。これを天の道理や人情と言うのか、文明開化と言うのか。3歳の子供でもその答えは簡単だろう。何千年もの昔から、日本や中国の学者たちが「上下貴賤の名分」とやかましく言ってきたのも、結局は他人の魂を自分の体に入れようとする企てだったのだろう。

403/901
八編(3/6)5/10

これを教え、これを説き、涙を流して諭し、末世の今日に至ってその功徳もようやく現れ、大は小を制し強は弱を圧する風潮となった。学者先生も得意顔で、神代の神々や周の聖賢も草葉の陰で満足していることだろう。その功徳の一、二を例として挙げてみよう。

404/901
八編(3/6)6/10

政府が強大で庶民を圧迫するという話は前編でも書いたので、ここでは省略し、まず男女の間の問題から述べよう。

405/901
八編(3/6)7/10

そもそもこの世に生まれた者は、男も人であり女も人である。この世に欠かせない役割を果たすという点では、天下に男がいなくても困るし、女がいなくても困る。その役割はまったく同等だ。ただ違うのは、男は力が強く女は力が弱いということだ。力の強い男が女と格闘すれば必ず勝つだろう。これが男女の違うところだ。

406/901
八編(3/6)8/10

世の中を見ると、力ずくで人の物を奪ったり人を辱めたりする者は罪人として刑罰を受けることもある。しかし家の中では堂々と人を辱めて、誰もとがめないのはなぜか。『女大学』という本には、「女には三従の道がある。幼い時は父母に従い、嫁いだ時は夫に従い、老いたら子に従うべし」と書いてある。

407/901
八編(3/6)9/10

幼い時に父母に従うのはもっともだが、嫁いでから夫に従うとはどういうことか、その従い方を問わなければならない。

408/901
八編(3/6)10/10

『女大学』によれば、夫が酒を飲み、遊女に通い、妻をののしり子を叱って、放蕩のかぎりを尽くしても、妻はこれに従い、この放蕩者を天のように敬い、顔色をやわらげ、やさしい言葉で意見すべきとだけ書いてあり、その先のことは何も書いていない。

409/901
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八編(3/6)

10スナック

八編(4/6)
八編(4/6)1/10

つまりこの教えの趣旨は、放蕩者であろうと不倫者であろうと、いったん夫と約束した以上、どんな恥辱を受けてもこれに従うしかなく、ただ本心とは違う顔つきを作って諫める権利があるだけだ。その諫めに従うかどうかは放蕩夫の気分次第で、つまり夫の気まぐれを天命と思うしかない。

410/901
八編(4/6)2/10

仏教の書に「罪業深い女人」ということがあるが、この有様を見れば、女は生まれながら大罪を犯した罪人と同じだ。

411/901
八編(4/6)3/10

また一方では女性を厳しく責め、『女大学』には女の七去(離縁の理由)として「淫乱なれば離縁する」と明記してある。男にとっては大いに便利だ。あまりに不公平な教えではないか。結局、男は強く女は弱いという点から、腕力を根拠にして男女の上下関係を作った教えなのだろう。以上は不倫の話だが、ここにもう一つ妾の問題がある。

412/901
八編(4/6)4/10

世に生まれる男女の数は同じはずだ。

413/901
八編(4/6)5/10

西洋人の調査によれば、男子が生まれる割合は女子よりやや多く、男22人に対し女20人の比率だという。であれば、一人の夫が二人三人の妻をめとるのは天の道理に背くことが明白だ。これを動物と呼んでも差し支えない。父を同じくし母を同じくする者を兄弟と呼び、父母兄弟が一緒に暮らすところを家と呼ぶ。

414/901
八編(4/6)6/10

しかし今は、兄弟が父は同じだが母が違い、一人の父だけが独立して大勢の母が群れをなしている。これを人間の家と呼べるだろうか。家の字の意味をなしていない。

415/901
八編(4/6)7/10

たとえその屋敷が立派であろうと、その邸宅が美麗であろうと、私の目から見れば人の家ではなく、動物の小屋と言わざるを得ない。妻と妾が家に同居してうまくやっている例は、昔から聞いたことがない。妾だって人の子だ。

416/901
八編(4/6)8/10

一時の欲のために人の子を動物のように使い、家の風紀を乱して子孫の教育を害し、世に災いを流して後世に毒を残す者を、罪人と言わずにいられようか。

417/901
八編(4/6)9/10

ある人が言うには、「大勢の妾を養ってもうまく扱えば人情を害することはない」と。これは夫自身が言う言葉だ。もしそれが本当なら、逆に一人の女に大勢の男を養わせ、「男妾」として家族の二等親の位に置いたらどうか。そうして家をうまく治め、人間社会の大義にまったく害がないなら、私の議論もやめて口を閉ざそう。

418/901
八編(4/6)10/10

天下の男たちよ、よく自分自身を振り返るべきだ。

419/901
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八編(4/6)

10スナック

八編(5/6)
八編(5/6)1/10

またある人は言う、「妾を養うのは跡継ぎを作るためだ。孟子の教えに『不孝に三つあり、子孫がないのが最大の不孝だ』とある」と。私はこう答える。天の道理に反することを唱える者は、孟子であろうと孔子であろうと遠慮なく罪人と呼んでよい。妻を娶って子供が生まれないからといって、これを大不孝とは何事だ。

420/901
八編(5/6)2/10

言い訳にしても、ひどすぎないか。少しでも人の心を持っている者なら、誰が孟子のでたらめを信じるだろうか。

421/901
八編(5/6)3/10

そもそも不孝とは、子が道理に背くことをして、親の心身を不快にさせることを言う。もちろん老人は孫が生まれれば喜ぶが、孫がなかなか生まれないからといって、それを子の不孝と言ってはならない。試しに天下の父母に聞いてみたい。

422/901
八編(5/6)4/10

子に良い縁談があって良い嫁をもらい、孫がなかなか生まれないからといって怒り、嫁を叱り、子を打ち、あるいは勘当しようとするだろうか。

423/901
八編(5/6)5/10

世界は広いが、そんな変わり者がいるとは聞いたことがない。こんなものはもともと空論で、弁解するまでもない。一人一人が自分の心に聞いて自分で答えればよいことだ。親に孝行するのはもちろん人として当然で、お年寄りなら他人であっても丁寧にするものだ。まして自分の父母に対して、情を尽くさないでいられようか。

424/901
八編(5/6)6/10

利益のためでも名声のためでもなく、ただ自分の親だと思い、自然な真心をもって孝行すべきなのだ。

425/901
八編(5/6)7/10

昔から日本や中国で孝行を勧める話は非常に多く、『二十四孝』をはじめ他の著作も数え切れない。しかしこれらの本を読むと、十中八九は人間にできないことを勧めるか、愚かで笑うべきことを説くか、ひどい場合は道理に背いたことを褒めて孝行としている。

426/901
八編(5/6)8/10

寒中に裸で氷の上に寝てそれが溶けるのを待つなど、人間にできることではない。

427/901
八編(5/6)9/10

夏の夜に自分の体に酒を塗って蚊に食わせ、親に近づく蚊を防ぐくらいなら、その酒代で蚊帳を買うほうがよほど賢い。父母を養う稼ぎもなく途方に暮れて、罪のない子供を生き埋めにしようとするその心は、鬼とも蛇とも言うべきで、天の道理と人情を害する極みだ。

428/901
八編(5/6)10/10

さっきは子がないことを大不孝と言っておきながら、ここではすでに生まれた子を穴に埋めて血筋を絶とうとしている。

429/901
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八編(5/6)

10スナック

八編(6/6)
八編(6/6)1/7

いったいどちらが孝行なのか。前後で矛盾するでたらめではないか。結局この孝行論も、親子の名分をはっきりさせ上下の関係を明確にしようとして、無理やり子を責めているのだろう。その責める内容を聞けば、「妊娠中に母を苦しめ、生まれてからは三年間父母の懐を離れず、その大恩はどうだ」と言う。

430/901
八編(6/6)2/7

しかし子を産み子を育てるのは人間だけではない。鳥も獣もみなそうだ。

431/901
八編(6/6)3/7

人の親が鳥獣と違うのは、子に衣食を与えるだけでなく、教育して人間社会の道を教えるという、ただその一点だけだ。しかし世の中の親で、子を産んでも子を教える道を知らない者は多い。

432/901
八編(6/6)4/7

自分は放蕩にふけって子に悪い手本を見せ、家を汚し財産を使い果たして貧困に陥り、気力が衰え財産が尽きると、放蕩が頑固になり、子に向かって孝行を要求するとは、いったい何のつもりか。

433/901
八編(6/6)5/7

どんな厚かましさがあれば、こんな恥知らずの極みに至れるのか。父は子の財産を貪ろうとし、姑は嫁の心を悩ませ、親の考えで子供夫婦の生活を支配し、親の無理は通って子供の言い分はまったく通らない。嫁はまるで餓鬼の地獄に落ちたようで、起居も睡眠も食事も、自由なものが何もない。

434/901
八編(6/6)6/7

何か一つでも舅姑の意に沿わなければすぐ「不孝者」と呼ばれ、世間の人もこれを見て心では無理だと思いながら、自分のことではないからまず親の理不尽に味方して、理屈もなく子を責める。あるいは通人と言われる者が、理非を問わず親を騙せと偽りの策を教える者もいる。 これが人間の家庭の道と言えるだろうか。

435/901
八編(6/6)7/7

私はかつてこう言ったことがある。 「姑の手本は遠くにない、自分が嫁だった時のことだ」と。

436/901
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八編(6/6)

7スナック

九編(1/5)
九編(1/5)1/10

姑がもし嫁をいじめたいなら、自分がかつて嫁だった頃を思い出すべきだ。以上は上下貴賤の名分から生じた悪弊で、夫婦と親子の二つの例を示した。世の中でこの悪弊が行われている範囲は非常に広く、あらゆる物事、人間のつきあいに染み渡っている。さらなる例は次の編で述べよう。

437/901
九編(1/5)2/10

九編 学問の趣旨を二通りに述べて中津の旧友に贈る人の心身の働きを細かく見れば、二つに分けることができる。第一は、個人としての働きだ。

438/901
九編(1/5)3/10

第二は、人間社会の仲間として、その交際における働きだ。第一について。心身の働きによって衣食住の安楽を実現すること、これを個人としての働きと言う。とはいえ、天地の間にあるすべての物は、一つとして人の役に立たないものはない。

439/901
九編(1/5)4/10

一粒の種を蒔けば二、三百倍の実がなり、深山の木は手入れしなくてもよく育ち、風で車を動かすこともでき、海は運送に使える。山の石炭を掘り、川や海の水を汲み、火をつけて蒸気を作れば、重い船や車を自由に動かせる。

440/901
九編(1/5)5/10

このほか自然の力は数え切れない。人はただこの自然の力を借りて、わずかに手を加えて自分の役に立てているだけだ。

441/901
九編(1/5)6/10

だから人間が衣食住を得るというのは、すでに自然の手で99パーセントの準備が整ったものに、人の力で1パーセントを加えるだけのことだ。人が衣食住を作っていると言うことはできない。実際は道端に捨ててあるものを拾っているようなものだ。

442/901
九編(1/5)7/10

だから、自分で衣食住をまかなうのは難しいことではないし、これを成し遂げたからといって自慢するほどのことでもない。

443/901
九編(1/5)8/10

もちろん自力で生計を立てることは人間の一大事であり、「汝の額の汗をもって汝の食を得よ」とは古人の教えだが、私の考えでは、この教えを達成しただけでは、人としての務めを終えたとは言えない。この教えはただ、人が動物に劣らない程度にするだけのものだ。試しに見てほしい。鳥も獣も魚も虫も、みな自分で食べ物を得ている。

444/901
九編(1/5)9/10

ただ食べ物を得て一時の満足を得るだけでなく、蟻のように遠い将来を見据えて穴を掘って住処を作り、冬に備えて食料を蓄えているではないか。しかし世の中には、この蟻の行いと同じことで満足している人がいる。一つ例を挙げよう。

445/901
九編(1/5)10/10

男が成長して、工業や商売に就いたり役人になったりして、ようやく親戚や友人の世話になるのを卒業し、それなりに衣食を賄って他人に迷惑もかけず、借家でなければ自分で小さな家を建て、家具はまだ揃わなくてもとりあえず嫁だけはもらおうと、望みどおりに若い女性を娶り、暮らしも落ち着いて倹約を守り、

446/901
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九編(1/5)

10スナック

九編(2/5)
九編(2/5)1/10

子供はたくさん生まれたが教育もひととおりで大した金もかからず、

447/901
九編(2/5)2/10

急な病気などの出費に30円か50円ならいつでも用意でき、細く長く暮らす計画に心を砕いて、とにもかくにも一軒の家を守っている。すると本人は自力で生計を立てたと得意顔になり、世間もこの人を独立した人物だ、立派な働き者だと褒めるが、実はこれは大きな勘違いではないか。

448/901
九編(2/5)3/10

この人はただ蟻の弟子と言うべきだ。生涯の仕事は蟻を超えていない。衣食を求め家を建てる際には、額に汗を流したこともあろうし、胸を痛めたこともあろう。古人の教えに対して恥ずかしくないとはいえ、その成果を見れば「万物の霊長」としての目標を達成した者とは言えない。

449/901
九編(2/5)4/10

このように一身の衣食住を得ることで満足してよいとするなら、人の一生はただ生まれて死ぬだけで、死ぬ時の様子は生まれた時と何も変わらない。

450/901
九編(2/5)5/10

こうして子孫に伝えていけば、何百代経っても一つの村の姿は昔の村のままで、世の中に公共の事業を起こす者もなく、船も作らず橋も架けず、一身一家の外はすべて自然のままにして、その土地に人間が生きた痕跡を残すことがないだろう。

451/901
九編(2/5)6/10

西洋人がこう言っている。「世の中の人がみな小さな満足に安んじていたら、今日の世界は天地開闢の時の世界と何も変わらなかっただろう」と。まったくその通りだ。もちろん満足には二種類あって、その区別を間違えてはならない。

452/901
九編(2/5)7/10

一つを得てまた二つを欲し、満たされればまた不足を感じ、ついに満足することを知らないのは、これを「欲」あるいは「野心」と呼ぶべきだ。しかし、自分の心身の能力を広げて達成すべき目標を達成しないのは、これを「愚か」と言うべきだ。第二に、人の本性は集団で暮らすことを好み、決して一人きりで孤立することはできない。

453/901
九編(2/5)8/10

夫婦や親子だけでは、まだこの本性を満たすには足りない。必ずさらに広く他の人と交わり、その交わりが広がるほど幸福も大きくなると感じるもので、これが人間社会が生まれる理由だ。すでに世間に出てその社会の一員となった以上は、それに伴う義務がなければならない。

454/901
九編(2/5)9/10

世の中で学問、工業、政治、法律と言われるものは、すべて人間の社会のためにあるもので、人間社会がなければどれも不要だ。政府はなぜ法律を作るのか。

455/901
九編(2/5)10/10

悪人を防ぎ善人を守り、人間社会を健全に保つためだ。学者はなぜ本を書き人を教育するのか。次の世代の知識を導き、人間社会を維持するためだ。

456/901
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九編(2/5)

10スナック

九編(3/5)
九編(3/5)1/10

昔、ある中国人が「天下を治めるのは肉を分けるように公平にしよう」と言い、「また庭の草を除くよりも天下を掃除しよう」と言ったのも、みな人間社会のために役立とうとする志を述べたものだ。およそ誰でも少しでも得たものがあれば、それで世の中の役に立ちたいと思うのが人情だ。

457/901
九編(3/5)2/10

あるいは自分にはそのつもりがなくても、知らず知らずのうちに後世の子孫がその恩恵を受けることがある。

458/901
九編(3/5)3/10

人にこうした性質があるからこそ、人間社会の義務を果たすことができるのだ。昔からこのような人物がいなかったなら、私たちは今日生まれても、今の世界にある文明の恩恵を受けることはできなかっただろう。親の財産を受け継げば「遺産」と呼ぶが、この遺産はただ土地や家財だけで、失えば消えてしまう。しかし世の文明はそうではない。

459/901
九編(3/5)4/10

世界中の古人をひとまとめにして、この古人から今の世界中の人である私たちへ譲り渡された遺産だと考えれば、その大きさは土地や家財の比ではない。しかし今、誰に向かってこの恩を感謝すべき相手は見当たらない。これは、たとえば生活に欠かせない日光や空気を得るのにお金がいらないようなものだ。その物は貴重だが、持ち主はいない。

460/901
九編(3/5)5/10

ただこれを古人の隠れた恩恵と言うしかない。天地開闢の始めには、まだ人の知恵は開けていなかった。

461/901
九編(3/5)6/10

その様子を描写すれば、ちょうど生まれたばかりの赤ん坊にまだ知識が芽生えていないようなものだ。たとえば麦を作って粉にするのに、自然のままの石と石で叩き砕いていたのだろう。

462/901
九編(3/5)7/10

その後、ある人が工夫して二つの石を丸く平たい形に作り、その中心に小さな穴を掘って、一方の石の穴に木か金属の心棒を差し、この石を下に据えてその上にもう一つの石を重ね、下の石の心棒を上の石の穴にはめ、石と石の間に麦を入れて上の石を回し、石の重さで麦を粉にする仕組みを考えたのだろう。

463/901
九編(3/5)8/10

これが挽き臼だ。昔はこの臼を人の手で回していたが、後の時代には臼の形も改良され、水車や風車に取り付けたり、蒸気の力を使うようになったりして、だんだん便利になった。

464/901
九編(3/5)9/10

何事もこの通りで、世の中は少しずつ進歩し、昨日便利だったものが今日は古くさくなり、去年の新しい工夫が今年はもう時代遅れになる。

465/901
九編(3/5)10/10

西洋諸国の日々進歩する勢いを見ると、電信・蒸気・あらゆる機械が次々と登場しては新しい姿に変わり、日に日に目新しいものばかりだ。

466/901
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九編(3/5)

10スナック

九編(4/5)
九編(4/5)1/10

目に見える機械だけが新しいのではない。人の知恵がますます開ければ交際はますます広がり、交際が広がれば人情はますます穏やかになる。

467/901
九編(4/5)2/10

万国公法の考えが力を持ち、戦争を軽々しく起こさなくなり、経済の議論が盛んになって政治や商売の風潮が一変し、学校の制度、著書のスタイル、政府の議論、議会の政談と、改善すればするほど高みに達し、その行き着く先は計り知れない。

468/901
九編(4/5)3/10

試しに西洋文明の歴史を読み、天地開闢から1600年代まで読んで本を閉じ、200年を飛ばして1800年代の巻を開いて見たら、その驚くべき進歩に驚かない者はいないだろう。とても同じ国の歴史とは信じがたいはずだ。しかしその進歩の根本をたどれば、すべて古人の遺産であり、先人のおかげなのだ。

469/901
九編(4/5)4/10

日本の文明も、そのはじめは朝鮮・中国から入ってきた。以来、日本人の力で磨きをかけて近世の姿に至り、洋学に至ってはその源は遠く宝暦年間にある(『蘭学事始』という本を見てほしい)。

470/901
九編(4/5)5/10

近年、外国との交際が始まってから、西洋の学説が次第に広まり、洋学を教える者があり、洋書を翻訳する者があり、国民の意識が大きく方向を変えて、そのために政府も改まり、藩も廃されて今日の勢いになった。こうして再び文明の端を開いたのも、やはり古人の遺産であり先人のおかげと言うべきだ。

471/901
九編(4/5)6/10

以上のとおり、昔から有力な人物が心身を尽くして世のために働いてきた例は少なくない。この人物たちの志を思えば、衣食住が豊かであることだけで満足する人たちだったはずがない。人間社会の義務を重んじ、その志すところは高く遠いところにあったのだ。

472/901
九編(4/5)7/10

今の学者はこの人物たちから文明の遺産を受け取って、まさに進歩の最前線に立っているのだから、その進むべきところに限界はないはずだ。

473/901
九編(4/5)8/10

今から数十年後の文明の世になれば、後の世代の人々が私たちの功績を仰ぐこと、ちょうど今の私たちが古人を敬うのと同じようにさせなければならない。まとめて言えば、私たちの務めは今この世に生きて、自分たちが生きた痕跡を残し、遠く後世の子孫に伝えるという、ただこの一事にある。その責任はまことに重い。

474/901
九編(4/5)9/10

たった数冊の教科書を読んで、商人や職人や下級役人になり、年に数百円を稼いでわずかに妻子を養って、それで満足してよいだろうか。それはただ他人に害を与えないだけで、他人の役に立つ者ではない。また物事を成すにはタイミングの良し悪しがあり、時期を得なければ有能な人物でもその力を発揮できない。古今その例は少なくない。

475/901
九編(4/5)10/10

近くは私たちの故郷にも優れた人物がいたことは、私たちがよく知るところだ。

476/901
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九編(4/5)

10スナック

九編(5/5)
九編(5/5)1/4

もちろん今の文明の目で見れば、その人物たちの言行には方向を間違えたものも多いだろう。しかしそれは時代のせいであって、その人の罪ではない。実際には行動力に欠けることはなかった。

477/901
九編(5/5)2/4

ただ不幸にして時代に恵まれず、宝を懐に抱えたまま生涯を過ごし、あるいは亡くなり、あるいは老い、ついに世の人々にその才能の恩恵を十分に与えることができなかったのは、残念と言うしかない。今はもうそうではない。

478/901
九編(5/5)3/4

先にも述べたように、西洋の学説が広まり、ついに旧幕府を倒し藩を廃止したのは、ただの戦争の変動と見てはならない。文明の力は一度の戦争で終わるようなものではない。だからこの変動は戦争の変動ではなく、文明に促された人心の変動なのだ。あの戦争の変動はすでに7年前に終わって跡形もないが、人心の変動は今なお続いている。

479/901
九編(5/5)4/4

物は動かなければ導くことができない。

480/901
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九編(5/5)

4スナック

十編(1/5)
十編(1/5)1/10

学問の道を先導して人々の心を導き、さらに高い境地へ進ませるには、今こそが絶好の機会であり、この機会に居合わせたのが今の学者だ。だから学者は世のために努力しなければならない。以下、十編に続く。十編 前編の続き、中津の旧友に贈る

481/901
十編(1/5)2/10

前編で学問の趣旨を二つに分けて論じたが、その議論をまとめると、「人はただ一身一家の衣食を賄って満足すべきではない。人の天性にはもっと高い使命があるのだから、人間社会の仲間に入り、その一員として世のために努めなければならない」ということだ。学問をするなら、志を高く遠くに置かなければならない。

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十編(1/5)3/10

飯を炊き風呂の火を焚くのも学問であり、天下の事を論じるのもまた学問だ。

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十編(1/5)4/10

しかし一家の家計をやりくりするのは簡単で、天下の経済は難しい。およそ世の中で手に入れるのが簡単なものには価値がない。物の価値が高いのは、手に入れる手段が難しいからだ。私が思うに、今の学者には、難しいことを避けて簡単な方へ流れる傾向があるようだ。

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十編(1/5)5/10

昔の封建時代には、学者に力量があっても、天下のことはすべてがんじがらめで、学問を活かす場がなかったから、やむを得ず学んだ上にさらに学び続けた。その学風はよいとは言えないが、読書に励んでその博識さは今の人の及ぶところではない。今の学者はそうではない。学んだことはすぐに実践に移すことができる。

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十編(1/5)6/10

たとえば洋学生が3年修業すれば、ひととおりの歴史書や科学書を知り、すぐに洋学教師を名乗って学校を開ける。人に雇われて教えることもでき、政府に仕えて重用されることもある。さらに簡単な道もある。流行りの翻訳書を読み、世間を走り回って内外のニュースを聞き、機会をつかんで官職につけば、堂々たる役人だ。

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十編(1/5)7/10

こんな風潮が当たり前になれば、学問は決して高い水準には達しないだろう。

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十編(1/5)8/10

やや失礼な話になるが、お金の計算で説明しよう。学塾に入って修業するのに1年の費用は100円に過ぎない。3年間で300円の元手を投じて、すぐに月50〜70円の利益を得るのが洋学生の商売だ。

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十編(1/5)9/10

耳学問だけで役人になる者は、この300円の元手すら使わないのだから、もらう月給はまるまる手取りの利益だ。

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十編(1/5)10/10

世の中のあらゆる商売の中で、こんな割合の大儲けができるものがあるだろうか。高利貸しでもこれにはかなわないだろう。

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十編(1/5)

10スナック

十編(2/5)
十編(2/5)1/10

もちろん物の値段は世の需要の多少によって上下するもので、今は政府をはじめ各方面で洋学者を急いで求めているから、こういう相場になっているだけだ。その人を悪いとは責めないし、雇う側を愚かだとも言わない。

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十編(2/5)2/10

ただ私としては、この人にあと3年か5年の苦労を耐えて本当の実学を身につけてから仕事に就かせれば、大きな成果を上げるだろうと思うのだ。

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十編(2/5)3/10

そうしてこそ、日本全国に広がる知恵と徳に力が加わり、はじめて西洋諸国の文明と競い合えるようになるのだ。今の学者は何を目標にして学問に取り組んでいるのか。自由独立の大義を求め、自主自由の権利を取り戻すと言っているのではないか。「自由独立」と言う以上、その言葉の中にはおのずと義務の考えも含まれるはずだ。

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十編(2/5)4/10

独立とは一軒の家に住んで他人に衣食を頼らないという意味だけではない。これはただ内向きの義務だ。

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十編(2/5)5/10

さらに一歩進めて外向きの義務を論じれば、日本に住んで日本人の名を恥ずかしめず、国中の人と力を合わせて、この日本を自由独立の地位に押し上げてこそ、はじめて内外の義務を果たしたと言えるのだ。だから一軒の家でただ衣食するだけの人は、一家独立の主人とは言えるが、まだ独立した日本人とは言えない。試しに見てほしい。

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十編(2/5)6/10

今の世の中は、文明は名ばかりでまだ実が伴わず、外見は整っているが中身の精神は衰えている。

496/901
十編(2/5)7/10

今の日本の陸海軍で西洋諸国の軍隊と戦えるか。決して戦えない。今の日本の学問で西洋人に教えられるか。教えられるものは何もない。むしろこちらが彼らに学んでもなお追いつけないのではないかと心配するばかりだ。

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十編(2/5)8/10

海外に留学生がおり、国内には雇い外国人がいて、政府の省庁・官署・学校から、各地の港に至るまで、ほとんどすべて外国人を雇わないところはない。

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十編(2/5)9/10

民間の会社や学校でも、新しく事業を始めるものはまず外国人を雇い、高額の給料を払って頼りにするケースが多い。「相手の長所を取り入れて自分の短所を補う」と人は言うが、今の状況を見れば、こちらはすべて短所で相手はすべて長所のようだ。

499/901
十編(2/5)10/10

もちろん数百年の鎖国を開いて、いきなり文明国と交わるのだから、まるで火と水が接するようなもので、この交際のバランスを取るためには、あちらの人材を雇い、あちらの製品を買って急場の不足を補い、混乱を収めるのはやむを得ないことだ。

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十編(2/5)

10スナック

十編(3/5)
十編(3/5)1/10

一時的に外国に頼るのも国の失策とは言えない。

501/901
十編(3/5)2/10

とはいえ、他国のものに頼って自国の用を賄うのは、もちろん永久の計画ではない。ただ一時的なことだと自分を慰めるしかないが、その「一時」はいつ終わるのか。他に頼らず自分でまかなう方法はどうすれば得られるのか。これを見通すのは非常に難しい。

502/901
十編(3/5)3/10

ただ、今の学者が学業を成し遂げるのを待ち、この学者に自国の用を担わせるほかに手段はない。

503/901
十編(3/5)4/10

これこそ学者が自分の身に引き受けた使命であり、その責任は急を要すると言うべきだ。今、国内に雇い入れている外国人は、日本の学者がまだ未熟なので、しばらくその代理を務めてもらっているものだ。国内に外国の製品を買い入れているのは、日本の工業がまだ拙いので、しばらくお金と交換して用を済ませているものだ。

504/901
十編(3/5)5/10

この人を雇いこの品を買うために費やすお金は、日本の学術がまだ外国に及ばないために、日本の財産を外国へ捨てていることになる。

505/901
十編(3/5)6/10

国のためには惜しむべきことだ。学者の身としては恥ずべきことだ。また、人は将来への希望がなければならない。希望がなければ世のために努力する者はいない。明日の幸せを望んで今日の不幸を慰めればよい。来年の楽しみを望んで今年の苦しみを耐えればよい。

506/901
十編(3/5)7/10

昔は世の中のすべてが古い慣例に縛られて、志のある人でも希望を育てる目標がなかった。しかし今はそうではない。この束縛を一掃して以来、まるで学者のために新世界を開いたかのようで、天下どこにでも活躍の場がある。

507/901
十編(3/5)8/10

農業、商売、学者、役人、著作、新聞執筆、法律研究、芸術、工業、議会と、できないことは何もない。

508/901
十編(3/5)9/10

しかもこれらの事業を成し遂げて、国内で仲間割れするのではなく、知恵の鋒を競い合う相手は外国人だ。この知恵の戦いに勝てば日本の地位は上がり、負ければ地位は下がる。目標は大きく、目指すところは明確だ。

509/901
十編(3/5)10/10

もちろん天下の事を実行するには優先順位や緩急があるが、結局この国に欠かせない事業は、それぞれの得意分野に応じて今から研究しなければならない。

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十編(3/5)

10スナック

十編(4/5)
十編(4/5)1/10

世の中で生きる義務を知る者なら、この時代にこの状況を傍観しているはずがない。学者は努力しなければならない。こう考えれば、今の学者は決して普通の学校教育だけで満足すべきではない。

511/901
十編(4/5)2/10

志を高く遠くに置いて学術の真髄に到達し、自由独立で他人に頼らず、たとえ同志の友がいなくても一人でこの日本を支える気力を養い、世のために尽くさなければならない。

512/901
十編(4/5)3/10

私たちはもちろん、和漢の古い学者たちが「人を支配すること」ばかり知って「自分を磨くこと」を知らないやり方を好まない。だからこそ、この本の初編から人民同権の説を主張し、一人ひとりが自分の責任を引き受けて自分の力で生きることの大切さを論じてきた。

513/901
十編(4/5)4/10

しかし、この「自力で生きる」という一点だけでは、まだ私たちの学問の趣旨を語り尽くしたとは言えない。たとえば、ここに酒に溺れ女遊びにふけり、放蕩の限りを尽くす若者がいたとしよう。この者を正すにはどうすればよいか。

514/901
十編(4/5)5/10

この若者を導いて一人前にしようとするなら、まず酒をやめさせ、遊びを制し、そのうえで相応の仕事に就かせるべきだろう。酒と遊びをやめさせないうちは、まだ一緒に仕事の話などできない。しかし、酒色に溺れないからといって、それだけでその人に徳があるとは言えない。

515/901
十編(4/5)6/10

ただ世間に害を与えないだけで、「役に立たない人間」という評価は免れない。

516/901
十編(4/5)7/10

酒と遊びをやめさせたうえ、仕事に就き、生計を立て、家に貢献してはじめて「人並みの若者」と言えるのだ。「自力で食べていけ」という議論もこれと同じこと。

517/901
十編(4/5)8/10

わが国の武士以上の身分の人々は、数千年の旧習に慣れきって、衣食がどこから来るのかも知らず、豊かさがなぜ得られるのかも考えず、ふんぞり返って何もせずに暮らし、それを当然の権利だと思っている。その姿は、まるで酒色に溺れて前後不覚になっている者と同じだ。

518/901
十編(4/5)9/10

こんな人々に何を言えばよいのか。まずは「自分で稼げ」と説いて、その酔った夢から目を覚まさせるしかない。こんな人に高尚な学問を勧められるだろうか。世のためになる大義を説けるだろうか。たとえ説いたところで、夢の中で学問に入れば、その学問もまた夢の中の夢でしかない。

519/901
十編(4/5)10/10

つまり、私たちがもっぱら「自分で稼げ」と主張して、まだ本当の学問を勧めなかったのはこういう理由なのだ。

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十編(4/5)

10スナック

十編(5/5)
十編(5/5)1/4

だからこの説は、働かずに食べている人々に向けた言葉であって、学問に励む人に諭すべきものではない。ところが聞くところでは、近ごろ中津の旧友のうち学問を志す者の中に、まれに学業がまだ半ばなのに早くも生計の道を求める人がいるという。生計はもちろん軽んじてはならない。

521/901
十編(5/5)2/4

人にはそれぞれ才能の長短があるから、将来の方向を定めるのはもっともなことだ。しかし、もしこの風潮が広まり、ただ金を稼ぐことばかり競い合うようになれば、優秀な若者がその実力を未熟なまま腐らせてしまう恐れがある。本人にとっても悲しいことだし、世の中にとっても惜しいことだ。

522/901
十編(5/5)3/4

それに生計が苦しいといっても、よく家計をやりくりすれば、急いで金を稼いで使い、小さな安心を買うよりも、努力して倹約を守り、大成する時を待つほうがずっとよい。

523/901
十編(5/5)4/4

学問をするなら大いに学問せよ。農業をするなら大農家になれ、商売をするなら大商人になれ。学者よ、小さな安定に満足するな。粗末な服を着て粗末な飯を食い、暑さ寒さをいとわず、米も搗け、薪も割れ。学問は米を搗きながらでもできるものだ。人間の食事は西洋料理に限らない。麦飯を食べて味噌汁をすすりながら、文明のことを学ぶべきなのだ。

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十編(5/5)

4スナック

十一編(1/5)
十一編(1/5)1/10

第八編で、上下・貴賤の身分制度から夫婦・親子の間に生じた弊害の例を示し、「その害はこれ以外にもまだ多い」と書いた。そもそもこの身分制度がなぜ生まれたかを考えると、その形は強い者が弱い者を支配するということに違いないが、もともとの意図は必ずしも悪意から生じたものではない。

525/901
十一編(1/5)2/10

結局、世の中の人はみな愚かだが善良だと思い込んで、彼らを救い、導き、教え、助け、ひたすら目上の言うことに従わせ、自分の考えを一切出させない。目上の者はだいたい自分の経験と勘で、よいように取り計らう。

526/901
十一編(1/5)3/10

国の政治も、村の支配も、店の経営も、家のやりくりも、上と下が心を一つにして、あたかも世の中の人間関係を親子の間柄のようにしようという考え方だ。

527/901
十一編(1/5)4/10

たとえば十歳くらいの子供の面倒を見るなら、もちろんその子に判断を任せるべきではなく、だいたい両親の見計らいで衣食を与えればよい。子供はただ親の言うことに逆らわず指図に従えば、寒い時にはちょうど綿入れが用意してあり、お腹が空く時にはもう食事の支度が整い、ご飯も着るものもまるで天から降ってくるかのように手に入る。

528/901
十一編(1/5)5/10

何一つ不自由なく安心して暮らせるだろう。

529/901
十一編(1/5)6/10

両親は自分の命にも代えられない愛する子だから、教えるのも諭すのも、褒めるのも叱るのも、すべて本当の愛情から出ている。親子が一体のようで、その心地よさはたとえようもない。これが親子の関係であって、そこでは上下の身分もうまく成り立ち、何の支障もない。

530/901
十一編(1/5)7/10

身分制度を主張する人は、この親子関係をそのまま人間社会全体に当てはめようとしている。なかなか面白い考えのようだが、ここに大きな問題がある。親子の関係は、知恵の成熟した実の父母と十歳くらいの実の子供との間でしか成り立たない。他人の子供に対しては当然うまくいかない。

531/901
十一編(1/5)8/10

たとえ実の子供でも、二十歳を過ぎればしだいにやり方を変えなければならない。

532/901
十一編(1/5)9/10

まして、すでに大人になった他人同士の間では、とてもこのやり方で人間関係がうまくいくはずがない。「望ましいけれど実行できない」とはまさにこのことだ。さて、国も村も政府も会社も、およそ人間の付き合いと呼ばれるものはみな大人と大人の関係であり、他人と他人の付き合いだ。

533/901
十一編(1/5)10/10

この他人同士の付き合いに、実の親子のやり方を持ち込もうとするのは無理ではないか。

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十一編(1/5)

10スナック

十一編(2/5)
十一編(2/5)1/10

とはいえ、たとえ実際には無理でも、「もしうまくいけば素晴らしいだろう」と想像すると、それを実行に移したくなるのが人情の常だ。これこそ世に身分制度が生まれ、専制政治が行われるようになった理由である。だから言う。身分制度の根本は悪意から生じたのではなく、想像力によって無理に作り上げたものなのだ、と。

535/901
十一編(2/5)2/10

アジア諸国では、君主のことを「民の父母」と呼び、人民のことを「臣子」や「赤子」と呼び、政府の仕事を「牧民の職」と称した。中国では地方の役人を「何州の牧」と名づけたこともある。この「牧」という字は家畜を養うという意味だから、一つの州の人民を牛や羊のように扱うつもりで、その名前を堂々と看板に掲げたわけだ。

536/901
十一編(2/5)3/10

あまりに失礼な話ではないか。

537/901
十一編(2/5)4/10

こうして人民を子供のように、牛羊のように扱うといっても、先に述べたとおり、その最初の意図は必ずしも悪意ではない。

538/901
十一編(2/5)5/10

実の父母が実の子供を養うようなつもりで、まず君主を聖明な存在と定め、賢く正しい人材を集めて補佐させ、私心なく私欲なく、清らかなこと水のごとく、まっすぐなこと矢のごとく、自分の心を推し量って民に及ぼし、民を慈しみの心で治め、飢饉には米を配り、火事には金を与え――

539/901
十一編(2/5)6/10

――助け育てて衣食住の安楽を得させ、上の者の徳化は南風のそよぐように広がり、民がこれに従うのは草がなびくようなもので、柔らかいこと綿のごとく、無心なこと木石のごとく、上下が一体となって太平の世を謡おうという目論見なのだろう。

540/901
十一編(2/5)7/10

まさに極楽の世界を描いたかのようだ。しかしよく事実を考えると、政府と人民はもともと血のつながりがあるわけではなく、まったくの他人同士だ。他人同士の付き合いには情に頼ってはいけない。必ず規則や約束を作り、互いにこれを守って細かな差まで争い、双方ともかえって丸く収まるものだ。これこそ国の法律が生まれた理由である。

541/901
十一編(2/5)8/10

また先のように、聖明な君主と賢良な臣下と従順な民という注文はあるけれど、いったいどの学校に入ればそんな完璧な聖人を育てられるのか。どんな教育を施せばそんな立派な民を得られるのか。

542/901
十一編(2/5)9/10

中国でも周の時代から延々とここに苦心してきたはずだが、今日まで一度も注文どおりに治まった試しはなく、結局は今のように外国人に押し付けられてしまったではないか。

543/901
十一編(2/5)10/10

それなのにこの道理を理解せず、効かない薬を何度も飲むように、小手先の仁政を施し、神でもない身で聖人ぶって、その仁政に無理をねじ込んで恩恵を押しつけようとする。恩恵は迷惑に変わり、仁政は厳しい法に化け、それでもなお太平を謡おうというのか。謡いたければ一人で謡うがよい。誰も和する者はいないだろう。その目論見こそ回りくどい。

544/901
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十一編(2/5)

10スナック

十一編(3/5)
十一編(3/5)1/10

隣で見ていてもお腹を抱えて笑わずにはいられない。

545/901
十一編(3/5)2/10

この風潮はひとり政府だけに限らず、商家にも、学塾にも、神社にも、寺にも見られないところはない。一つ例を挙げてみよう。

546/901
十一編(3/5)3/10

店の中で旦那が一番の物知りで、元帳を扱うのは旦那一人。番頭や手代もそれぞれ仕事をしているが、商売全体の仕組みは知らされていない。ただ口うるさい旦那の指図に従うだけで、給金も指図次第、仕事も指図次第。

547/901
十一編(3/5)4/10

商売の損得は帳簿を見て知ることもできず、朝晩旦那の顔色をうかがい、笑っていれば商売が当たったのだろう、眉にしわを寄せていれば外れたのだろうと推測するくらいのものだ。

548/901
十一編(3/5)5/10

何の心配もすることがない。

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十一編(3/5)6/10

ただ一つの心配は、自分が預かっている帳面を使って裏でこっそり不正を働くことだけだ。鷲のような旦那の眼力もそこまでは及ばず、律儀一筋の忠助と信じていたのに、駆け落ちか急死かで姿を消した後に帳面を調べてみれば、大穴が空いている。そこではじめて人を信用しすぎたと嘆くのだ。しかしこれは人が頼りないのではない。

550/901
十一編(3/5)7/10

専制のやり方が頼りないのだ。旦那と忠助は赤の他人の大人同士ではないか。

551/901
十一編(3/5)8/10

忠助に商売の利益配分を約束もせず、子供のように扱おうとしたのは旦那の考え違いと言うべきだ。このように、上下・貴賤の身分を正して、ただその名目だけにこだわり専制の権力を振るおうとすると、その毒が噴き出す先は、人間社会にはびこる欺きや策略という症状だ。この病にかかった者を「偽善者」と呼ぶ。

552/901
十一編(3/5)9/10

たとえば封建時代に大名の家来は、表向きはみな忠臣のつもりで、形を見れば君臣上下の礼儀を正し、お辞儀をするにも敷居一本の内外を争い、亡き殿様の命日には精進を守り、若殿の誕生日には正装し、年始の挨拶や菩提寺の参詣に一人も欠席がない。

553/901
十一編(3/5)10/10

その口ぶりは「貧しさは武士の常、忠義を尽くして国に報いる」とか「主君の恩を受ける者はその仕事に命を捧げる」などと大層に言いふらし、いざとなれば今にも討ち死にしそうな勢いだ。普通の人はこれに騙されるだろうが、ひそかに裏から観察すれば、やはり例の偽善者なのだ。大名の家来で良い役職に就いている者の家に金が貯まるのはなぜか。

554/901
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十一編(3/5)

10スナック

十一編(4/5)
十一編(4/5)1/10

決まった家禄と役料で一銭の余分も入るはずがないのに。

555/901
十一編(4/5)2/10

それなのに収支を計算して余りがあるのは実に怪しい。いわゆる役得にせよ賄賂にせよ、主人の財産をくすねたことに違いない。最もひどい例を挙げれば、建築奉行が大工から割り前を取り、会計役人が出入りの商人から付け届けを受け取るなどは、全国の大名家でほとんど公然の慣行のようになっていた。

556/901
十一編(4/5)3/10

主君のためには馬前で討ち死にさえすると言っていた忠臣が、その買い物のピンはねをするとは、あまりにもおかしいではないか。

557/901
十一編(4/5)4/10

金メッキの偽善者と言うべきだ。あるいはまれに正直な役人がいて賄賂の噂も聞こえなければ、「前代未聞の名臣だ」と藩中で評判になるが、その実態はただ金を盗まなかっただけのこと。人に盗む心がないからといって、それほど褒めるべきことでもない。ただ偽善者がひしめく中に、まともな人が混じっているから格別に目立つだけだ。

558/901
十一編(4/5)5/10

結局、この偽善者の多さも元をたどれば昔の人の妄想にすぎない。世の人民はみな善人で扱いやすいと思い込んだ結果、ついに専制・抑圧に至り、最後には飼い犬に手を噛まれるのだ。返す返すも、世の中で頼りにならないものは名ばかりの身分制度だ。毒を流す最大のものは専制・抑圧だ。恐れなくてよいだろうか。ある人が言った。

559/901
十一編(4/5)6/10

「こうして人民の不実な悪い例ばかり挙げればきりがないが、全員がそうというわけでもない。」

560/901
十一編(4/5)7/10

「わが日本は義の国で、古来、義士が身を捨てて主君のために尽くした例はたくさんある」と。答えて言う。「たしかにそのとおりで、義士がいないわけではない。ただその数が少なすぎて計算が合わないのだ。元禄年間は義の気風の全盛期とも言うべき時代だ。その時に赤穂七万石の中に義士は四十七人いた。

561/901
十一編(4/5)8/10

七万石の領地にはおよそ七万人の人口があるだろう。七万人中に四十七人なら、七百万人中には四千七百人のはずだ。」

562/901
十一編(4/5)9/10

「時代が移り変わり、人情はしだいに薄くなり、義の気風も衰えたと世間がよく言うが、そのとおりだろう。そこで元禄時代から義気を三割引きにすると、七百万人につき三千二百九十人の割合だ。今、日本の人口を三千万とすれば、義士の数は一万四千百人になるはずだ。この人数で日本を守るのに足りるだろうか。

563/901
十一編(4/5)10/10

三歳の子供にも計算できることだろう。」

564/901
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十一編(4/5)

10スナック

十一編(5/5)
十一編(5/5)1/4

以上の議論によれば名分は完全に破綻したわけだが、念のためもう一言付け加えておこう。名分とは見せかけの名目のことだ。見せかけの名目ならば上下・貴賤すべて無用だが、この虚飾の名目と実際の職分とを入れ替えて、職分さえ守ればこの名分も差し支えない。つまり、政府は国の帳場であり人民を治める職分がある。

565/901
十一編(5/5)2/4

人民は国の出資者であり国費を負担する職分がある。文官の職分は法律を議論して定めることにある。

566/901
十一編(5/5)3/4

武官の職分は命じられた場所に赴いて戦うことにある。このほか学者にも商人にもそれぞれ定まった職分がある。

567/901
十一編(5/5)4/4

ところが中途半端な知識でうぬぼれた者が「名分は無用」と聞いて、早くもその職分を忘れ、人民の立場にいて政府の法を破り、政府が人民の産業に手を出し、兵隊が政治を議論して自ら軍を起こし、文官が武力に屈して武官の指図に従うようなことがあれば、これこそ国の大乱だろう。

568/901
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十一編(5/5)

4スナック

十二編(1/5)
十二編(1/5)1/10

自主自由を生半可にかじった結果の無政府・無法の騒動というべきだ。名分と職分とは字は似ているが、中身はまったく別物だ。学者はこれを取り違えてはならない。【十二編】演説の方法を勧める話演説とは英語でスピーチといい、大勢の人を集めて説を述べ、壇上で自分の考えを伝える方法だ。わが国には昔からこの方法があるとは聞かない。

569/901
十二編(1/5)2/10

寺の説法などがまずこの類だろう。

570/901
十二編(1/5)3/10

西洋諸国では演説の方法がたいへん盛んで、政府の議会、学者の集まり、商人の会社、市民の寄り合いから、冠婚葬祭、開業・開店などの細かな行事に至るまで、わずかに十数人が集まるだけでも、必ずその場で集まった趣旨を述べたり、日頃の持論を披露したり、その場の思いつきを語って聞かせたりする風習がある。

571/901
十二編(1/5)4/10

この方法が大切であることは言うまでもない。

572/901
十二編(1/5)5/10

たとえば今、議会設立の話があるが、たとえ議場を開いても、まず意見を述べる方法がなければ議会は機能しないだろう。演説で物事を伝えれば、その内容が大切かどうかはさておき、ただ口頭で述べるだけで自然と味わいが生まれるものだ。

573/901
十二編(1/5)6/10

たとえば文章に書けばそれほどの意味がないことでも、言葉で述べれば理解しやすく、人を感動させることがある。

574/901
十二編(1/5)7/10

古今の名詩・名歌もこの類で、その詩歌を普通の文章に訳せばまったく面白みがないように思えるが、詩歌の形式に従って体裁を整えれば、限りない風情が生まれて人々の心を動かすことができる。だから一人の意見を大勢に伝える速さは、その伝え方の方法に大きく左右される。

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十二編(1/5)8/10

学問はただ読書だけではないということは、すでに皆が知っていることだから今さら論じるまでもない。

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十二編(1/5)9/10

学問の要は実際に使えるかどうかにある。使えない学問は無学と同じだ。昔、ある朱子学の学生が、何年も江戸で修業してその学派の大家の説をひたすら書き写し、昼夜怠らず数年のうちに写本が数百巻になった。

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十二編(1/5)10/10

もう学問も成就したから故郷に帰ろうと、本人は東海道を下り、写本は行李に入れて船便で送り出したが、不幸にも遠州灘で難破してしまった。

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十二編(1/5)

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十二編(2/5)
十二編(2/5)1/10

この災難のために、その書生は無事に帰郷したものの、学問はすべて海に流れ、身についたものは何一つなく、まさに「本来無一物」で、その愚かさは修業前と何も変わらなかったという話がある。今の洋学者にもこの懸念がないわけではない。今日、都会の学校に入って読書や講義の様子を見れば、たしかに「学者」と呼ばざるを得ない。

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十二編(2/5)2/10

しかし、もし今その原書を取り上げて田舎に放り出したら、親戚や友人に会って「私の学問は東京に置いてきました」と言い訳するような珍事もあるだろう。だから学問の本質は読書だけにあるのではなく、精神の働きにある。この働きを実生活に活かすにはさまざまな工夫が必要だ。オブセルヴェーションとは物事を観察すること。

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十二編(2/5)3/10

リーゾニングとは物事の道理を推究して自分の説を立てることだ。

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十二編(2/5)4/10

この二つだけではもちろん学問の方法を尽くしたとは言えない。さらに本を読まなければならず、本を書かなければならず、人と談話しなければならず、人前で意見を述べなければならない。これらの方法をすべて使い尽くして、はじめて学問に励む人と言える。

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十二編(2/5)5/10

つまり、観察と推究と読書は知識を集めるため、談話は知識を交換するため、著書と演説は知識を広めるための手段なのだ。

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十二編(2/5)6/10

そうして、これらの方法のうち一人でできるものもあるが、談話と演説だけは必ず人と一緒にしなければならない。演説会が必要な理由はこれでわかるだろう。今のわが国民でもっとも憂うべきは、見識の低さだ。

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十二編(2/5)7/10

これを導いて高い境地に進めるのはもちろん今の学者の職分だから、少しでもその方法があると知ったなら、力を尽くして取り組まなければならない。

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十二編(2/5)8/10

それなのに、学問において談話や演説が大切だと明らかにわかっていながら、今日これを実行する者がいないのはなぜか。学者の怠慢と言うべきだ。人間の営みには内と外の二面があって、どちらも努めなければならない。今の学者は内の一面ばかりに身を委ねて、外の務めを知らない者が多い。このことをよく考えるべきだ。

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十二編(2/5)9/10

一人でいる時は淵のように深く沈思し、人と接する時は飛ぶ鳥のように活発に。緻密な時は中身がないかのように奥深く、豪快な時は外に限りがないかのように広大であって、はじめて真の学者と称することができる。

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十二編(2/5)10/10

【人の品行は高くなければならないという議論】前の章で「今のわが国でもっとも憂うべきは、人民の見識がまだ高くないことだ」と述べた。人の見識や品行は、高尚な理屈を語るだけでは高くならない。

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十二編(2/5)

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十二編(3/5)
十二編(3/5)1/10

禅宗には悟りというものがあって、その理屈はたいへん奥深いらしいが、その僧侶の実際の行いを見れば、回りくどくて実用に向かず、実際には漠然として何の見識もない者と変わらない。また、見識や品行はただ見聞を広めるだけでも高くならない。万巻の書を読み天下の人と交わっても、自分なりの定見がない者もいる。

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十二編(3/5)2/10

古い慣習にしがみつく漢学者などがそうだ。儒者だけでなく、洋学者もこの弊害を免れない。

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十二編(3/5)3/10

今、西洋の最新の学問を志して、経済の本を読み、道徳論を講じ、理学や哲学に日夜精神を注ぎ込んでいる。その様子は、いばらの上に座って痛みに耐えられないはずなのに、その人の私生活を見れば決してそうではない。目で経済書を読みながら家計のやりくりを知らず、口で道徳論を講じながら自分の徳を磨くことを知らない。

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十二編(3/5)4/10

その議論とその行動を比べると、まるで二人の別人がいるようで――

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十二編(3/5)5/10

まったく一貫した見識があるようには見えない。

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十二編(3/5)6/10

結局、この類の学者も、自分が口で講じ目で読んでいることを間違いだとは思っていない。 しかし、ある物事を「正しい」と知る心と、それを「正しい」と知ったうえで実行する心とは、まったく別物だ。 この二つの心は、時には両方とも働くこともあれば、両方とも働かないこともある。

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十二編(3/5)7/10

「医者の不養生」とか「論語読みの論語知らず」ということわざは、まさにこのことを言っているのだろう。

595/901
十二編(3/5)8/10

だから言う。人の見識や品行は高尚な理屈を語って高くなるものではなく、また見聞を広めるだけで高くなるものでもない。では、人の見識を高め品行を引き上げるにはどうすればよいか。その秘訣は、物事の有り様を比較して常に上を目指し、自分に満足しないことにある。

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十二編(3/5)9/10

ただし、有り様を比較するというのは一つの事柄だけを比べるのではなく、こちらの全体像とあちらの全体像を並べて、双方の良し悪しを残らず見極めなければならない。たとえば若い生徒が酒色に溺れず、謹慎勉強していれば、父兄や年長者に咎められることもなく、得意な顔をするかもしれない。

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十二編(3/5)10/10

しかし、その得意は放蕩者と比べての得意にすぎない。

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十二編(3/5)

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十二編(4/5)
十二編(4/5)1/10

謹慎勉強は人間として当たり前のことで、褒めるほどのことではない。人生にはもっと高い目標があるはずだ。広く古今の人物を数えて、誰と比べ、誰の功績に等しいものを成し遂げれば満足できるのか。必ず上流の人物を目標にしなければならない。自分に一つの長所があっても、相手に二つの長所があれば、自分のその一つに安住する道理はない。

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十二編(4/5)2/10

まして後進は先輩を超えるべきものだから、古人にも比較すべき人物がいないほどの高みを目指すべきだ。

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十二編(4/5)3/10

今の人の責任は大きく重いと言うべきだ。それなのに、わずかに謹慎勉強の一事だけで人生の全てとするべきだろうか。考えの浅いこと甚だしい。人として酒色に溺れる者は非常識な化け物と言うべきだ。この化け物に比べて満足するのは、たとえるなら両目が見えることを得意にして盲人に向かって威張るようなものだ。

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十二編(4/5)4/10

ただ愚かさをさらけ出すだけである。

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十二編(4/5)5/10

だから酒色云々の話をしたり、これを論じたり是非を言っているうちは、結局のところ議論のレベルが低いと言わざるを得ない。人の品行が少し進めば、こうした恥ずかしい話はとっくに通り過ぎていて、口に出すだけで嫌がられるはずだ。

603/901
十二編(4/5)6/10

今の日本で学校を評する時に「この学校の風紀はこうだ」「あの塾の取り締まりはどうだ」と、世の父兄はもっぱら風紀や取り締まりのことばかり心配している。

604/901
十二編(4/5)7/10

そもそも風紀の取り締まりとは何のことか。塾の規則が厳しくて生徒の放蕩を防いでいることを指すのだろう。これを学校の美点と称すべきだろうか。私はむしろ恥ずかしいと思う。

605/901
十二編(4/5)8/10

西洋諸国の風俗も決して美しいとは言えず、見るに堪えない醜さも多いが、その国の学校を評するのに、風紀が正しいとか取り締まりが行き届いているとかだけで名誉を得る学校があるとは聞かない。

606/901
十二編(4/5)9/10

学校の名誉は、学問のレベルが高いこと、教え方が巧みなこと、そこにいる人物の品行が高く議論のレベルが低くないことによるのだ。だから今の学校を運営し、そこで学ぶ者は、他のレベルの低い学校と比べるのではなく、世界中の一流の学校を見て良し悪しを判断しなければならない。

607/901
十二編(4/5)10/10

風紀が良く取り締まりが行き届いているのも学校の長所と言えるが、それは学校としてもっとも低い部分の長所であり、少しも誇るに値しない。

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十二編(4/5)

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十二編(5/5)
十二編(5/5)1/12

一流の学校と比較するには、別のところで努力しなければならない。だから学校の急務として風紀の取り締まりを論じているうちは、たとえそれがうまくいっても、決してその状態に満足すべきではない。国全体の有り様も同じことだ。たとえばここに一つの政府があるとしよう。

609/901
十二編(5/5)2/12

賢く正しい人材を登用して政治を任せ、民の苦楽を察して適切な措置を施し、信賞必罰を貫き、恩威が行き届かないところはなく、万民が腹鼓を打って太平を謡うようなことは、たしかに誇らしく見える。しかし、その賞罰も恩威も万民も太平も、すべて一国内のことであり、一人または数人の考えで成り立ったものにすぎない。

610/901
十二編(5/5)3/12

その良し悪しは、自国の過去と比べるか、あるいは他の悪い政府と比べて誇れるだけのことで、自国の全体像を詳しく把握して他国と並べ、一から十まで比較したものではない。

611/901
十二編(5/5)4/12

もし一国を丸ごと一つのものとみなして他の文明国と比較し、数十年間の双方の良し悪しを差し引きして、その実際に現れた損益を論じたなら、誇っていたものはとても誇るに足りないものだろう。

612/901
十二編(5/5)5/12

たとえばインドの歴史は古く、その文化が開けたのは西暦の数千年前で、理論の精密さや奥深さは、おそらく今の西洋諸国の学問に比べても恥じるところは多くないだろう。また昔のトルコ政府も、権力はきわめて強大で、法制度は整い、君主は賢明、廷臣は方正であった。

613/901
十二編(5/5)6/12

人口の多さ、兵士の武勇は近隣に比類なく、一時はその名声を四方に輝かせたこともあった。だからインドとトルコを評すれば、一方は名高い文化国、他方は武勇の大国と言わざるを得ない。しかし今この二大国の有り様を見ると、インドはすでに英国の領土となり人民は英国政府の奴隷と変わらない。

614/901
十二編(5/5)7/12

今のインド人がしていることは阿片を作って中国人を毒殺し、英国商人にその毒薬売買の利益を得させているだけだ。

615/901
十二編(5/5)8/12

トルコの政府も名目上は独立と言うが、商売の実権は英仏の人に握られ、自由貿易の結果、国の物産は日に日に衰え、機を織る者もなく、機械を作る者もなく、汗を流して土地を耕すか、手をこまねいていたずらに日々を過ごすだけだ。

616/901
十二編(5/5)9/12

あらゆる製品は英仏からの輸入に頼り、国の経済を立て直す手立てもなく、さすがに武勇な兵士も貧乏に抑えられて役に立たないという。

617/901
十二編(5/5)10/12

このように、インドの学問もトルコの武力も、まったくその国の文明の役に立たなかったのはなぜか。

618/901
十二編(5/5)11/12

その国の人々の視野がわずかに国内にとどまり、自国の有り様に満足し、その一部分だけを他国と比べ、優劣がないと見てそれに騙され、議論もそこで止まり、結束もそこで止まり、

619/901
十二編(5/5)12/12

勝敗も栄辱も相手国全体を見据えることを知らないまま、万民が太平を謡うか、あるいは内輪もめしているうちに、商業の力に押しつぶされて国を失ったのだ。

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十二編(5/5)

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十三編(1/5)
十三編(1/5)1/10

西洋の商人が向かうところ、アジアに敵なしだ。恐れなければならない。もしこの強敵を恐れ、またその国の文明に憧れるなら、よく内外の有り様を比較して努力しなければならない。

621/901
十三編(1/5)2/10

【十三編】恨みや妬みが人間に害を与えることについておよそ人間の不徳にはさまざまなものがあるが、人付き合いに害を与えるものとしては、恨み・妬みほど大きなものはない。

622/901
十三編(1/5)3/10

貪欲、浪費、悪口の類はいずれも目立つ不徳だが、よく吟味すれば、その働きの本質において悪いわけではない。それを発揮する場所や、強弱の度合い、向かう方向によっては、不徳の名を免れることもある。たとえば金を好んで飽きることを知らないのを「貪欲」と言う。

623/901
十三編(1/5)4/10

しかし金を好むのは人間の天性だから、その天性に従って十分に満たそうとすることは決して責められるべきではない。

624/901
十三編(1/5)5/10

ただ道理に外れた金を得ようとして場所を誤り、金を好む心に限度がなくなって道理の外に出て、金を求める方向を間違えて道理に反する時、これを貪欲の不徳と呼ぶのだ。だから金を好む心の働きを見て、すぐに不徳の名を下してはいけない。

625/901
十三編(1/5)6/10

徳と不徳の境界には一つの道理があって、この境界の内にあるものは「節約」「経済」と呼ばれ、人間が努めるべき美徳の一つだ。浪費もまた同様だ。

626/901
十三編(1/5)7/10

ただ身の分限を超えるかどうかによって、徳か不徳かを判断すべきだ。軽くて暖かい服を着て快適な家に住みたいのは人の自然な感情だ。天の理に従ってこの欲求を満たすことを、なぜ不徳と言えるだろうか。稼いでよく使い、使いすぎない者は、人間の美点と称すべきだ。また、悪口と反論の違いは紙一重だ。

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十三編(1/5)8/10

他人に無実の罪をなすりつけるのが悪口で、他人の誤りを解いて自分の正しいと信じるところを述べるのが反論だ。

628/901
十三編(1/5)9/10

だから、世の中にまだ絶対的な真理が見つかっていないうちは、人の議論もどちらが正しくどちらが間違いとは決められない。正否が定まらないうちは、仮に世論をもって公の道理とするしかないが、その世論がどこにあるかを正確に知ることは非常に難しい。だから他人を悪く言う者を見て、直ちに不徳者と決めつけてはいけない。

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十三編(1/5)10/10

それが本当に悪口なのか、正当な反論なのかを区別するには、まず世の中の公の道理を見極めなければならない。このほか、傲慢と勇敢、粗野と率直、頑固と堅実、軽薄と機敏が対になるように、いずれもみな発揮する場所と強弱の度合いと方向によって、不徳にも徳にもなり得る。

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十三編(1/5)

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十三編(2/5)
十三編(2/5)1/10

ただ一つ、その働きの本質においてまったく不徳の側に偏り、場所にも方向にも関係なく悪いものは「怨望」――つまり恨み・妬みである。怨望は心の陰の働きであり、自ら進んで何かを得ようとはせず、他人の境遇を見て自分に不満を抱き、自分を省みずに他人に多くを求める。

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十三編(2/5)2/10

その不満を解消する方法は、自分を良くすることではなく、他人を傷つけることにある。

632/901
十三編(2/5)3/10

たとえば、他人の幸せと自分の不幸を比べて自分に足りないところがあれば、自分の状況を改善する方法を探さず、かえって他人を不幸に引きずり下ろし、相手の状況を下げることでバランスを取ろうとするようなものだ。「憎んでその死を願う」とはまさにこのことだ。

633/901
十三編(2/5)4/10

だからこういう人の不満を満たしても、世の中全体の幸福を損なうだけで、少しもプラスにはならない。

634/901
十三編(2/5)5/10

ある人が言った。「詐欺や嘘も本質的に悪であるなら、怨望と比べてどちらが重いとも言えないのではないか」と。答えて言う。「たしかにそう見えるが、原因と結果を区別すれば自ずと軽重の差がある。

635/901
十三編(2/5)6/10

詐欺や嘘はもちろん大きな悪事だが、必ずしも怨望を生む原因ではなく、多くの場合は怨望から生じた結果なのだ。」

636/901
十三編(2/5)7/10

「怨望はいわば諸悪の母のようなもので、人間の悪事はこれから生じないものはない。疑い、嫉妬、恐怖、卑怯の類はみな怨望から生まれる。その内側に現れる形はひそひそ話、密談、裏工作。外に爆発する形は徒党、暗殺、一揆、内乱。少しも国の益にならず、その禍が全国に広がれば、当事者も巻き添えの者も免れることはできない。

637/901
十三編(2/5)8/10

公の利益を犠牲にして私的な恨みを晴らすものと言うべきだ。」

638/901
十三編(2/5)9/10

怨望が人間関係に害を与えることはこのとおりだ。その原因を探ると、ただ「行き詰まり」の一事にある。ただし、ここで言う「行き詰まり」とは、お金がない、暮らしに困るという意味ではない。人が意見を言う道をふさぎ、人の仕事を妨げるなど、人間が生まれながらに持つ働きを封じ込めることだ。

639/901
十三編(2/5)10/10

もし貧困を怨望の原因とするなら、世の中の貧しい人はみな不平を訴え、金持ちは恨みの的となって、人間社会は一日も持たないはずだ。しかし実際にはそうならない。どんなに貧しい者でも、その貧しさの原因を知り、それが自分自身から来たものだと理解すれば、むやみに他人を恨むことはない。

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十三編(2/5)

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十三編(3/5)
十三編(3/5)1/10

その証拠はわざわざ挙げるまでもない。今日、世界中に貧富・貴賤の差がありながらうまく社会が成り立っていることを見れば明らかだ。だから言う。金持ちは恨みの的ではなく、貧しさは不平の源ではない。

641/901
十三編(3/5)2/10

こう考えると、怨望は貧しさから生じるのではなく、ただ人間の自然な働きを封じ込めて、幸不幸がすべて偶然に左右されるような状況において激しく流行するのだ。

642/901
十三編(3/5)3/10

昔、孔子が「女性と身分の低い者は扱いにくい。まったく困ったものだ」と嘆いたことがある。今から考えれば、これは孔子自身が原因を作っておいて自分でその弊害を嘆いたものだと言うべきだ。人の心の本質は男女で違うはずがない。また「小人」とは身分の低い者ということだろうが、低い身分に生まれたからといって必ずそのままとは限らない。

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十三編(3/5)4/10

身分の高い低いに関係なく、生まれた時の本性に違いがないのは言うまでもない。

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十三編(3/5)5/10

それなのに女性と下の者だけが扱いにくいのはなぜか。日頃から卑屈を教え込み、力の弱い女性や身分の低い者を縛りつけて、その働きに少しも自由を与えなかったために、ついに恨みと妬みの気風が醸成された。その極みに達して、さすがの孔子様も嘆いたというわけだ。そもそも人の本性として、自由に働けなければ必ず他人を恨まずにはいられない。

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十三編(3/5)6/10

因果応報は明らかで、麦を蒔けば麦が生えるようなものだ。

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十三編(3/5)7/10

聖人と呼ばれる孔子がこの道理を知らず、別に工夫もなくただ愚痴をこぼすとは、あまり頼もしくない話だ。そもそも孔子の時代は明治から二千年以上前の野蛮な世の中だったから、教えの内容もその時代の風俗に合わせ、人心を維持するために、わかっていてあえて束縛するという便宜的な手段を使う必要もあっただろう。

647/901
十三編(3/5)8/10

もし孔子が本当の聖人で、遠い将来を見通す見識があったなら、当時の便宜策を心から満足だとは思わなかっただろう。だから後世、孔子を学ぶ者は、時代の違いを勘定に入れて取捨選択しなければならない。

648/901
十三編(3/5)9/10

二千年前の教えをそのまま丸写しにして明治の時代に実行しようとする者は、一緒に物事の話などできない人だ。

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十三編(3/5)10/10

また身近な例を挙げると、怨望がはびこって人間関係を害した最たるものは、わが封建時代における大名家の奥女中だ。

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十三編(3/5)

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十三編(4/5)
十三編(4/5)1/10

そもそも大名の奥の大まかな様子を言えば、無学な女性たちが集まって無知無徳の一人の主人に仕え、勉強したから褒められるわけでもなく、怠けたから罰せられるわけでもない。諫めても叱られ、諫めなくても叱られ、言っても良し言わなくても良し、嘘をついても悪し嘘をつかなくても悪し。ただ朝夕の臨機応変で主人の寵愛を運任せに待つだけだ。

651/901
十三編(4/5)2/10

その状況はまるで的のない射撃のようなもので、当たっても上手いわけではなく、外れても下手なわけではない。まさに人間界の外の別世界と言ってもよい。こんな中で暮らしていれば、喜怒哀楽の感情は必ず性質を変えて、普通の人間社会とは異質なものになる。

652/901
十三編(4/5)3/10

たまたま仲間に出世する者がいても、その出世の方法を学びようがないから、ただ羨むだけ。羨むあまりに、ただ妬むだけになる。

653/901
十三編(4/5)4/10

仲間を妬み、主人を恨むのに忙しければ、お家のためを思う余裕などあるはずがない。忠義節操は表向きの挨拶だけで、実際は畳に油をこぼしても人が見ていなければ拭きもせず放っておく。ひどい場合は主人が命にかかわる病気の時でも、日頃の仲間同士のいがみ合いに巻き込まれて思うように看病もできない者が多い。

654/901
十三編(4/5)5/10

さらに怨望嫉妬が極まると、毒殺沙汰もまれにはあった。

655/901
十三編(4/5)6/10

もし昔からこの大悪事について統計の表があり、大奥で行われた毒殺の件数と世間で行われた件数を比較できたなら、大奥に悪事が多いことは確実にわかるはずだ。怨望の禍は恐るべきではないか。この大奥の女中の一例を見ても、だいたい世の中の有り様は推して知るべきだ。

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十三編(4/5)7/10

人間最大の禍は怨望にあり、怨望の源は「行き詰まり」から生じるのだから、人の意見を言う道は開かなければならず、人の仕事を妨げてはならない。

657/901
十三編(4/5)8/10

試みに英米諸国の有り様とわが日本の有り様を比べて、人間の付き合いにおいて、どちらがあの大奥の雰囲気を脱しているかと問う者がいれば、私は今の日本がまったく大奥と同じだとまでは言わないが、その境界からの遠近を論じれば、日本はまだそれに近く、英米諸国はそこから遠いと言わざるを得ない。

658/901
十三編(4/5)9/10

英米の人民だって貪欲でないわけではなく、傲慢でないわけでもなく、騙す者も欺く者もいて、その風俗は決して美しくはない。しかし、ただ怨望が陰にこもるという一点に関しては、必ずわが国と異なるところがあるだろう。今、世の識者の間に民選議院の説があり、また出版の自由の議論もある。

659/901
十三編(4/5)10/10

その良し悪しはさておき、そもそもこの議論が起こる理由を探れば、識者の意図はおそらく、今の日本を昔の大奥のようにさせず、今の人民を昔の奥女中のようにさせず、恨みの代わりに活動をもって、妬みの念を断って競争の勇気を奮い立たせ、幸も不幸も名誉も恥辱もすべて自分の力で手に入れ、

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十三編(4/5)

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十三編(5/5)
十三編(5/5)1/12

天下の人みなを自業自得にしようという趣旨なのだろう。

661/901
十三編(5/5)2/12

人民の発言の道をふさぎ、その仕事を妨げることは、もっぱら政府に関わることで、急に聞けば政治だけの病気のように思える。しかしこの病は政府だけに流行するものではなく、人民の間にも広がって毒を流すことがもっとも甚だしい。

662/901
十三編(5/5)3/12

だから政治だけを改革しても根本は取り除けない。ここでさらに数言を加えて、政府以外のことについても論じよう。

663/901
十三編(5/5)4/12

もともと人は付き合いを好む性質があるが、習慣次第でかえってこれを嫌うようにもなる。世に変人・奇人と呼ばれ、わざわざ山奥の僻地に住んで世間との付き合いを避ける者がいる。これを隠者と呼ぶ。あるいは本当の隠者ではなくても、世間の付き合いを好まず家に閉じこもり、「俗世間を避けている」と得意顔する者もいる。

664/901
十三編(5/5)5/12

こういう人たちの心の中を察するに、必ずしも政府のやり方が嫌で引きこもっているのではない。心が弱くて物事に立ち向かう勇気がなく、器が小さくて人を受け入れることができない。人を受け入れられなければ、人もまたこちらを受け入れない。

665/901
十三編(5/5)6/12

お互いに一歩ずつ退き、どんどん離れていって、ついに別の種類の人間のようになり、やがて敵同士のようになって互いに恨み合うこともある。世の中の大きな禍と言うべきだ。

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十三編(5/5)7/12

また人間の付き合いにおいて、相手の顔を見ずにその行動だけを見たり、あるいはその人の言葉を遠くから伝え聞いて、少しでも自分の気に入らないことがあると、同情や思いやりの心は生まれず、かえって忌み嫌う気持ちが起こり、実際以上に悪く思ってしまうことが多い。これも人の天性と習慣によるものだ。

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十三編(5/5)8/12

物事の相談も、伝言や手紙ではまとまらなかったものが、直接会って話せば丸く収まることがある。

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十三編(5/5)9/12

また世間でよく「実はこういう事情だけれど、面と向かってはさすがにそうも言えない」ということがある。これこそ人間の真情であり、堪忍の心が生まれるところだ。いったん堪忍の心が生まれれば、お互いの気持ちが通じ合い、恨みや妬みの念はたちまち消え失せるものだ。

669/901
十三編(5/5)10/12

古今に暗殺の例は少なくないが、私は常々こう言っている。「もし良い機会があって、殺す者と殺される者を数日間同じ場所に置き、互いに隠し事なく本心を語らせることができたなら、どんな仇敵でも必ず和解するだけでなく、あるいは無二の親友になることさえあるだろう」と。

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十三編(5/5)11/12

以上の事情を考えれば、発言の道をふさぎ仕事を妨げることは、ひとり政府だけの病ではなく、国中の人民の間に流行するもので、学者といえどもこれを免れ難い。人間の活発な気力は物事に接しなければ生まれにくい。

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十三編(5/5)12/12

自由に言わせ、自由に働かせ、富も貧も本人が自ら手に入れるに任せて、他からこれを妨げてはならないのだ。

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十三編(5/5)

12スナック

十四編(1/6)
十四編(1/6)1/10

人の世渡りを見ると、心で思っている以上に悪いことをし、心で思っている以上に愚かなことをし、心で企てる以上に成果を上げられないものだ。

673/901
十四編(1/6)2/10

どんな悪人でも、一生悪事ばかりしようと思っている者はいないが、事に当たり物に接するうちにふと悪い考えが浮かび、自分でも悪いとわかっていながら、あれこれ都合のいい理屈をつけて無理に自分を慰める者がいる。

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十四編(1/6)3/10

あるいは物事に取り組んでいる時はまったく悪事だとは思わず、少しも恥じるところがないどころか、一心に良いことだと信じて、他人が意見すればかえって怒ったり恨んだりしていたのに、年月が経ってから振り返ると、大いに自分の至らなさに恥じ入ることもある。

675/901
十四編(1/6)4/10

また人の知恵に賢い愚かの差はあるが、自分は動物の知恵にも及ばないと思う者はいないだろう。

676/901
十四編(1/6)5/10

世の中のさまざまな仕事を見て、「これなら自分にもできる」と思い、自分なりにこれを引き受ける。しかし実行してみると思いのほか失敗が多く、最初の目的から外れ、世間にも笑われ、自分でも後悔することが多い。

677/901
十四編(1/6)6/10

世間で事業を企てて失敗した人を外から見ると、呆れるほどの愚を犯したように見えるが、その人自身は必ずしもそこまで愚かではない。よく事情を探れば、もっともな理由があるものだ。結局、世の中の出来事は生きもののようなもので、その変化を前もって知ることは容易ではない。だから知恵者でも思いがけず愚かなことをする。

678/901
十四編(1/6)7/10

また人の計画は常に大きくなりがちで、事の難しさと期間の長さを比較するのは非常に難しい。

679/901
十四編(1/6)8/10

フランクリンが言ったことがある。「十分だと思った準備も、いざ取りかかると必ず足りないと感じるものだ」と。まさにそのとおりだ。大工に建築を頼み、仕立屋に服を注文して、十中八九は必ず納期を守らない。

680/901
十四編(1/6)9/10

これは大工や仕立屋がわざと怠けたのではなく、最初に仕事の量と期間を正確に見積もらなかったために、思いがけず約束を破ることになったのだ。

681/901
十四編(1/6)10/10

世間の人は大工や仕立屋に向かって約束破りを責めるのは珍しくないし、責めるのにも理屈はある。大工や仕立屋はいつも恐れ入って、旦那はさも道理のわかった人物に見える。しかしその旦那自身が請け合った仕事を、はたして期限どおりに成し遂げたことがあるか。

682/901
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十四編(1/6)

10スナック

十四編(2/6)
十四編(2/6)1/10

田舎の書生が故郷を出る時、苦労を覚悟して三年で成業すると自分に誓ったが、その心の約束を果たせたか。

683/901
十四編(2/6)2/10

無理をして手に入れた原書を三ヶ月で読み終えると約束した者は、はたしてその約束どおりにできたか。

684/901
十四編(2/6)3/10

志ある人物が「自分が政府に出れば、この事務はこう処理し、あの改革もこうして、半年で政府の面目を一新してみせる」と何度も建白して、ようやく望みを果たして出仕した後、はたしてその前日の決意に背かなかったか。

685/901
十四編(2/6)4/10

貧乏書生が「自分に大金があれば、明日から日本中の家々に学校を作って無学の者をなくしてみせる」と言う。この者を今日、三井や鴻池の養子にしたとしたら、はたしてその言葉どおりになるだろうか。

686/901
十四編(2/6)5/10

この手の夢想を数えれば切りがない。みな事の難しさと時間の長さを比べず、時間を甘く見積もり、物事を簡単に考えすぎた罪だ。

687/901
十四編(2/6)6/10

また世間で事を企てる人の言葉を聞くと、「一生のうちに」「十年のうちに成し遂げる」と言う者がもっとも多く、「三年のうちに」「一年のうちに」と言う者はやや少なく、「一ヶ月のうちに」

688/901
十四編(2/6)7/10

あるいは「今日企てて今まさに実行する」と言う者はほとんどまれで、「十年前に企てたことを今すでに成し遂げた」と言う人は、私はまだ見たことがない。

689/901
十四編(2/6)8/10

このように、期限が遠い将来の話をする時には大層なことを企てるようだが、その期限がだんだん近づいて今月・今日と迫るにつれて、計画の中身をはっきり述べることができない。これは結局、事を企てる時に期間の長短を計算に入れなかった結果の不都合だ。

690/901
十四編(2/6)9/10

以上のように、人生とは、道徳の面では思った以上に悪事をし、知恵の面では思った以上に愚を犯し、思った以上に事業を成し遂げられないものなのだ。

691/901
十四編(2/6)10/10

この不都合を防ぐ方法はさまざまだが、ここに人があまり気づいていない一つの項目がある。それは何か。事業の成否や損得について、時々自分の心の中で差し引きの計算をすることだ。商売で言えば棚卸しの総決算のようなものだ。そもそも商売で、最初から損をするつもりの者はいないだろう。

692/901
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十四編(2/6)

10スナック

十四編(3/6)
十四編(3/6)1/10

まず自分の実力と元手を見直し、世の中の景気を読んで商売を始める。さまざまな変化に対応しながら、当たることもあれば外れることもある。この仕入れで損をし、あの販売で利益を得て、一年や一ヵ月の終わりに総決算をすると、見込みどおりにいったこともあれば、大きく外れたこともある。

693/901
十四編(3/6)2/10

また売買が忙しい最中に、この商品は絶対に儲かると思っていたものでも、

694/901
十四編(3/6)3/10

棚卸しで作った損益の一覧表を見ると、予想に反して損失になっていることがある。

695/901
十四編(3/6)4/10

あるいは仕入れのときは品物が足りないと思ったのに、棚卸しのときに残った在庫を見ると、売るのに思いのほか時間がかかって、仕入れがかえって多すぎたということもある。だから商売で一番大事なのは、日ごろの帳簿をきちんとつけて、棚卸しの時期を逃さないことだ。人の生き方も同じことである。

696/901
十四編(3/6)5/10

人が生きていく上での商売は、十歳前後に心ができあがった頃から始まっているのだから、日ごろから知恵・徳・仕事の帳簿をきちんとつけて、なるべく損をしないように心がけなければならない。 「この十年で何を失い何を得たか。今はどんな商売をしていて、その繁盛ぶりはどうか。今は何を仕入れていて、いつ、どこで売りさばくつもりか。」

697/901
十四編(3/6)6/10

「長年にわたる心の店の管理は行き届いていて、遊びや怠けといった使用人のせいで穴を開けられたことはないか。来年も同じ商売で確かな見込みはあるのか。もう他に知恵や徳を増やす工夫はないのか」と、帳簿を点検して棚卸しの総決算をしてみれば、過去から現在の自分の行いに、必ず不都合なことも多いだろう。

698/901
十四編(3/6)7/10

その一つ二つを挙げると――「貧乏は武士の常、忠義を尽くすのだ」などと言って、むやみに百姓の米を食いつぶして得意になり、今になって困っている者は、輸入の銃があるのを知らずに刀を仕入れ、一時は儲かったが在庫を抱えて後悔するようなものだ。

699/901
十四編(3/6)8/10

日本や中国の古い本ばかり研究して西洋の新しい学問に目を向けず、古いものを信じて疑わなかった者は、過ぎた夏の暑さが忘れられず、冬の入り口に蚊帳を買い込むようなものだ。

700/901
十四編(3/6)9/10

若い書生がまだ学問も未熟なのに急いで下級の役職を求め、一生の間、末端をうろうろしているのは、半分しか仕立てていない服を質に入れて流してしまうようなものだ。

701/901
十四編(3/6)10/10

地理や歴史の基礎も知らず、日常の手紙を書くのも難しいのに、やたらと高度な本を読もうとして、五、六ページ開いてはまた別の本に手を出す者は、元手もなく商売を始めて毎日仕事を変えるようなものだ。和漢洋の本を読んでも天下国家の情勢を知らず、自分の家計にも苦しむ者は、算盤を持たずに何でも屋の商売をするようなものだ。

702/901
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十四編(3/6)

10スナック

十四編(4/6)
十四編(4/6)1/10

天下を治めることは知っていても自分を修めることを知らない者は、隣の家の帳簿に口を出して、自分の家に泥棒が入ったのに気づかないようなものだ。口では流行りの新しいことを唱えながら心には中身がなく、自分が何者かも考えない者は、商品の名前は知っているのに値段を知らないようなものだ。こうした不都合は今の世に珍しくない。

703/901
十四編(4/6)2/10

その原因は、ただ流されるままに世を渡り、一度も自分の状態に注意せず、生まれてから今日まで自分は何をしてきたのか、

704/901
十四編(4/6)3/10

今は何をしているのか、今後は何をすべきか」と、自分で自分を点検しなかった罪である。だから言う。商売の状態を明らかにして今後の見通しを立てるのが帳簿の総決算であるように、自分の状態を明らかにして今後の方針を立てるのが知恵・徳・仕事の棚卸しである。「世話」という言葉には二つの意味がある。

705/901
十四編(4/6)4/10

一つは「保護」、もう一つは「命令(指図)」である。

706/901
十四編(4/6)5/10

保護とは、人のことについて傍から見守って守り、あるいはお金や物を与え、あるいはそのために時間を使い、その人に利益も面目も失わせないようにすることである。

707/901
十四編(4/6)6/10

命令(指図)とは、人のために考えて、本人にとって便利だと思うことを教え、不便だと思うことには意見を述べ、心の限りを尽くして忠告することで、これもまた「世話」の意味である。

708/901
十四編(4/6)7/10

このように「世話」という言葉に保護と指図の両方の意味を込めて人の面倒を見れば、本当によい世話であり、世の中はうまく治まるだろう。たとえば親が子供に衣食を与えて保護の世話をすれば、子供は親の言うことを聞いて指図を受け入れ、親子の間に問題は起きない。

709/901
十四編(4/6)8/10

また政府は法律を定めて、国民の生命・名誉・財産を大切に扱い、全体の安全を図って保護の世話をする。人民は政府の命令に従って指図の世話に背かなければ、公私の間はうまく治まるだろう。だから保護と指図は、両方とも同じところまで届かなければならず、少しも境界を間違えてはいけない。

710/901
十四編(4/6)9/10

保護が届くところは指図の及ぶところであり、指図の及ぶところは必ず保護が届いていなければならない。

711/901
十四編(4/6)10/10

もしこの二つの届く範囲を間違えて、わずかでも食い違いが生じれば、たちまち不都合が起きて禍の原因になる。世間にその例は少なくない。

712/901
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十四編(4/6)

10スナック

十四編(5/6)
十四編(5/6)1/10

その理由は、世の人々がいつも「世話」という言葉の意味を間違えて、ある時は保護の意味に取り、ある時は指図の意味に取り、片方にだけ偏って言葉の本当の意味を尽くさないために、大きな間違いに至ったのである。

713/901
十四編(5/6)2/10

たとえば親の言うことを聞かない道楽息子にむやみに金を与えて、遊び放題にさせるのは、保護の世話は行き届いているが指図の世話がなされていない。逆に子供が真面目に勉強して親の言いつけに従っているのに、衣食も十分に与えず無学文盲の苦しみに陥れるのは、指図の世話だけして保護の世話を怠っている。

714/901
十四編(5/6)3/10

前者は不孝であり後者は不慈悲であり、どちらも人の悪事というべきだ。

715/901
十四編(5/6)4/10

昔の教えに「友人にしつこくすると嫌われる」とある。

716/901
十四編(5/6)5/10

その意味は、「自分の忠告も聞かない友人に余計な親切を押しつけ、相手の気持ちも考えずに厚かましく意見すれば、結局は嫌われたり恨まれたり馬鹿にされたりして何の益もないから、ほどほどにしてこちらから近づかないようにすべし」ということだ。

717/901
十四編(5/6)6/10

この趣旨もつまり、指図の世話が届かないところには保護の世話もすべきでない、ということである。

718/901
十四編(5/6)7/10

また昔気質の田舎の老人が古い本家の系図を持ち出して分家の内情をかき回したり、金もない叔父が実家の姪を呼びつけてその家事を指図し、薄情だと責め、不行き届きだと咎め、ひどい場合には知りもしない祖父の遺言を持ち出して姪の財産を奪おうとしたりするのは、指図の世話が度を過ぎて保護の世話の形跡すらないものだ。

719/901
十四編(5/6)8/10

ことわざでいう「大きにお世話」とはまさにこのことだ。また世間に貧民救助といって、人柄の良し悪しも問わず、貧乏の原因も調べず、ただ貧しい様子を見て米や金を与えることがある。身寄りのない者への救助はもっともだが、五升の救い米をもらって三升を酒にして飲む者もいないわけではない。

720/901
十四編(5/6)9/10

禁酒の指図もできないのにむやみに米を与えるのは、指図が届かず保護だけが度を越えたものだ。ことわざでいう「大きに御苦労」とはこのことだ。

721/901
十四編(5/6)10/10

イギリスなどでも貧民救済の制度に困っているのはまさにこの点だという。この道理を広げて国の政治について論じれば、人民は税金を出して政府の費用をまかない、政府の運営を保護している。ところが専制政治で人民の意見を少しも聞かず、意見を述べる場所もないのは、保護の一方だけは果たされて指図の道は塞がれたものだ。

722/901
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十四編(5/6)

10スナック

十四編(6/6)
十四編(6/6)1/7

人民の状態は「大きに御苦労」というべきだろう。この類の例を挙げればきりがない。

723/901
十四編(6/6)2/7

この「世話」の字の意味は経済論でもっとも大切な項目なので、人が暮らしていく上で、職業の違いや物事の軽重にかかわらず、常にこれに注意しなければならない。

724/901
十四編(6/6)3/7

この議論はまったく算盤ずくで薄情に見えるかもしれないが、薄くすべきところを無理に厚くしようとしたり、実際は薄いのに名ばかり厚くしようとして、かえって人情を害し世の付き合いを苦々しくするのは、名を買おうとして実を失うものだ。

725/901
十四編(6/6)4/7

以上のように議論はしたけれども、世間の誤解を恐れて念のため一言付け加えておく。身を修める道徳の教えにおいては、経済の法則と相容れないように見えるものもある。個人の私的な徳は必ずしもすべて天下の経済に影響するわけではない。

726/901
十四編(6/6)5/7

見ず知らずの乞食に銭を投げ与えたり、憐れな貧しい人を見れば、その人の来歴も聞かずにいくらかの金品を与えることがある。

727/901
十四編(6/6)6/7

こうして金品を与えるのは保護の世話であるが、この保護は指図と一緒に行われるものではない。考え方の範囲を狭くして、ただ経済上の公の観点だけで論じれば不都合に見えるかもしれないが、個人の私的な徳として恵み与える心はもっとも尊ぶべきものだ。

728/901
十四編(6/6)7/7

たとえば天下に乞食を禁じる法律はもちろん正しいものだが、個人として乞食に物を与えたいという心は咎めるべきではない。

729/901
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十四編(6/6)

7スナック

十五編(1/7)
十五編(1/7)1/10

人生のすべてを算盤で決めるべきではない。ただ算盤を使うべき場面と使うべきでない場面を区別することが大事なのだ。学者たちよ、経済の公の議論に酔って、思いやりの私的な徳を忘れてはいけない。十五編 物事を疑って取捨を判断すること信じる世界には嘘が多く、疑いの世界には真理が多い。

730/901
十五編(1/7)2/10

試しに見てみよ。世間の愚かな人々は、人の言葉を信じ、人の本を信じ、小説を信じ、噂を信じ、神仏を信じ、占いを信じ、親が重い病気のときに按摩師の言葉を信じて草や木の皮を使い、娘の縁談に家相見の指図を信じてよい夫を逃し、熱病に医者を呼ばず念仏を唱えるのは阿弥陀如来を信じるからであり、

731/901
十五編(1/7)3/10

二十一日の断食で命を落とすのは不動明王を信じるからだ。この人々の間に行われている真理がどれだけあるか問えば、多いとは言えない。

732/901
十五編(1/7)4/10

真理が少なければ嘘が多くなるのは当然だ。これらの人々は物事を信じていると言っても、その信じているものは嘘なのだ。だから言う、「信じる世界には嘘が多い」と。文明の進歩とは、この世にある目に見えるものも、目に見えない人の営みも、その仕組みを探求して真実を発見することにある。

733/901
十五編(1/7)5/10

西洋諸国の人々が今日の文明に達した源をたどれば、すべて「疑い」の一点から出ていないものはない。

734/901
十五編(1/7)6/10

ガリレオが天文学の旧説を疑って地動説を発見し、ガルバーニがカエルの脚のけいれんを疑って動物の電気を発見し、ニュートンがリンゴの落ちるのを見て重力の法則に疑問を持ち、ワットが鉄瓶の湯気をいじって蒸気の力に疑いを起こしたように、いずれも疑いの道を通って真理の奥に達したものだ。

735/901
十五編(1/7)7/10

自然科学の分野を離れて、人の世の進歩の様子を見ても同じことである。

736/901
十五編(1/7)8/10

奴隷売買の是非を疑い、後の世から残虐の根源を断った者はトーマス・クラークソンである。ローマ・カトリックの誤りを疑い、キリスト教に新しい姿をもたらしたのはマルティン・ルターである。フランスの人民は貴族の横暴に疑いを起こして革命の端を開き、アメリカの州民はイギリスの法律に疑いを持って独立を成し遂げた。

737/901
十五編(1/7)9/10

今日でも、西洋の大学者が新しい説を唱えて人を文明に導いているのを見ると、その目的はただ、昔の人が確定して反論できないとされてきた学説に反論し、世間で当たり前で疑う余地がないとされてきた習慣に疑いを差し挟むことにあるのだ。

738/901
十五編(1/7)10/10

今の世で男は外で働き女は家を守るというのはほとんど自然の摂理のように思われているが、ジョン・スチュアート・ミルは『女性論』を著して、大昔から動かせないとされたこの習慣を破ろうと試みた。

739/901
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十五編(1/7)

10スナック

十五編(2/7)
十五編(2/7)1/10

イギリスの経済学者には自由貿易を喜ぶ者が多く、信じる人々はそれを世界共通の定法のように思っているが、アメリカの学者は保護貿易を唱えて自国独自の経済論を主張する者もいる。一つの説が出れば一つの反論が続き、異論や争いは果てしなく続く。

740/901
十五編(2/7)2/10

これをアジア諸国の人々が、でたらめな説を軽々しく信じて迷信や神仏に溺れ、あるいはいわゆる聖人の言葉を聞いて一斉にそれに従うだけでなく、何千年後になってもなおその言葉の枠から抜け出せないのと比べれば、その品格の優劣、心の勇気と臆病さは、到底比べものにならない。

741/901
十五編(2/7)3/10

異論や争いの中で真理を求めるのは、逆風に向かって船を進めるようなものだ。

742/901
十五編(2/7)4/10

船の進路を右にし、また左にし、波にぶつかり風に逆らって何百里もの海を渡っても、直線距離で計れば進んだのはわずか三、五里に過ぎない。 航海にはときどき追い風があるが、人の世にはそんなものはない。人の世が進歩して真理に達する道は、ただ異論を戦わせながらジグザグに進む方法があるのみだ。

743/901
十五編(2/7)5/10

そしてその議論が生まれる源は、疑いの一点にある。 「疑いの世界に真理が多い」とはこういうことだ。

744/901
十五編(2/7)6/10

しかし、物事を軽々しく信じるべきでないのが正しいならば、また軽々しく疑うべきでもない。この信じることと疑うことの間において、必ず取捨選択の判断力がなければならない。学問の要点は、この判断力を磨くことにあるのだろう。

745/901
十五編(2/7)7/10

日本でも開国以来、急速に人心が変わり、政府を改革し、貴族を倒し、学校を建て、新聞社を開き、鉄道・電信・兵制・工業など、あらゆるものを一度に古いやり方から改めたのは、いずれも何千年来の習慣に疑いを入れ、変革しようとして成功したものだと言えるだろう。

746/901
十五編(2/7)8/10

しかし、日本の人々がこの何千年もの習慣に疑いを持った原因をたどれば、初めて国を開いて西洋諸国と交わり、あちらの文明の様子を見てその素晴らしさを信じ、これに倣おうとして自国の旧習に疑いを持ったのだから、本当の意味で自発的な疑いとは言えない。

747/901
十五編(2/7)9/10

ただ古いものを信じていた信じ方で新しいものを信じ、以前は人の心の信仰が東にあったものが、今はそれを西に移しただけであって、何を信じ何を疑うかの取捨選択に、本当に適切な判断があるとは保証できない。

748/901
十五編(2/7)10/10

私はまだ学識が浅く、この取捨選択の問題について一つ一つ当否を論じて列挙することはできない。それは自ら反省するところだが、世の中の移り変わりの大きな流れを見れば、人々がこの勢いに流されて、信じるものは信じすぎ、疑うものは疑いすぎて、信じることも疑うことも適度を失っているのは明らかだ。

749/901
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十五編(2/7)

10スナック

十五編(3/7)
十五編(3/7)1/10

以下にその事情を述べよう。東洋と西洋の人々は風俗も考え方も異なり、何千年もの長い間それぞれの国で行われてきた習慣は、たとえ利害がはっきりしているものでも、急にあちらから取ってこちらに移すわけにはいかない。まして利害がまだよくわからないものについてはなおさらだ。

750/901
十五編(3/7)2/10

これを採り入れようとするなら、よくよく考え、年月をかけて、ようやくその性質を明らかにしてから取捨を判断しなければならない。

751/901
十五編(3/7)3/10

ところが最近の世の中を見ると、少しでも知識のある改革者や「開化先生」と称する人々は、口を開けば西洋文明の素晴らしさを褒め、一人が唱えれば万人がそれに同調し、知識・道徳の教えから政治・経済・衣食住の細かいことまで、すべて西洋の風に従おうとする。

752/901
十五編(3/7)4/10

中には西洋の事情の一端すら知らない者でも、ひたすら古いものを捨てて新しいものだけを求めている有様だ。

753/901
十五編(3/7)5/10

なんと軽々しく物事を信じ、また粗雑に疑うことだろう。西洋の文明が日本より何段階も上であることは間違いないが、文明として完全なわけでは決してない。欠点を数えればきりがない。あちらの風俗がすべて美しくて信じるべきものではなく、こちらの習慣がすべて醜くて疑うべきものでもない。たとえばここに一人の少年がいたとしよう。

754/901
十五編(3/7)6/10

学者の先生に出会って心酔し、その風に倣おうと急に心を入れ替え、本を買い、文房具を揃えて昼も夜も机に向かって勉強するのはもちろん咎めるべきことではない。素晴らしいことだ。

755/901
十五編(3/7)7/10

しかしこの少年が先生の真似をするあまり、先生が夜遅くまで話し込んで朝寝坊する癖まで学んでしまい、ついには体の健康を損なったとしたら、これを賢い人と言えるだろうか。

756/901
十五編(3/7)8/10

この少年は先生を完璧な学者と思い込み、行いの良し悪しを見極めずにすべて真似しようとしたために、この不幸に陥ったのだ。中国のことわざに「西施のしかめ面を真似る」という話がある。美人のしかめ面にはそれなりの趣があったから真似したのであって、そこまで責めるには当たらないが、学者の朝寝坊に何の趣があるだろうか。

757/901
十五編(3/7)9/10

朝寝坊はただの朝寝坊であり、怠惰で不健康な悪い習慣だ。

758/901
十五編(3/7)10/10

人を慕うあまりその悪い習慣まで真似するとは、笑うべきことのはなはだしいものではないか。しかし今の世間の開化主義者にはこの少年のような者が非常に多い。仮に今、東洋と西洋の風俗習慣を入れ替えて、開化先生の批評に付したとしよう。その批評の言葉を想像して書いてみる。

759/901
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十五編(3/7)

10スナック

十五編(4/7)
十五編(4/7)1/10

もし西洋人が毎日入浴して、日本人の入浴が月にわずか一、二回だったとしたら、開化先生はこう評するだろう。「文明開化の人々はよく入浴して皮膚の新陳代謝を促し、衛生の法を守っている。しかし未開の日本人はこの道理を知らない」と。

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十五編(4/7)2/10

日本人が寝室に尿瓶を置いて小便をため、トイレから出ても手を洗わず、西洋人は夜中でも起きてトイレに行き必ず手を洗う風習だとしたら、評者はこう言うだろう。「開化の人は清潔を尊ぶ風がある。

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十五編(4/7)3/10

しかし未開の人々は不潔が何かもわからない。まるで子供のように汚いと清いの区別がつかないのだ。この人々もやがて進歩して文明の域に入れば、」

762/901
十五編(4/7)4/10

「ついには西洋の素晴らしい風習に倣うようになるだろう」と。

763/901
十五編(4/7)5/10

西洋人が鼻をかむのに毎回紙を使ってすぐ捨て、日本人は紙の代わりに布を使い、洗濯してまた使う風習だとしたら、評者はたちまち頓知を働かせ、些細なことから経済論の大きな話に結びつけてこう言うだろう。「資本の乏しい国では、人々が知らず知らずのうちに節約の道に従うことがある。」

764/901
十五編(4/7)6/10

「日本全国の人々が西洋人のように鼻紙を使ったとしたら、国の財産のいくらかを浪費するはずだが、よくその不潔さに耐えて布を代用するのは、資本が乏しいことに迫られて自然と節約に向かうものだと言えよう」と。

765/901
十五編(4/7)7/10

もし日本の婦人が耳に金の輪をかけ、お腹を締めつけて衣装を飾っていたら、評者は人体の仕組みを持ち出して顔をしかめてこう言うだろう。

766/901
十五編(4/7)8/10

「ひどいものだ、未開の人々は道理をわきまえて自然に従うことを知らないだけでなく、わざわざ体を傷つけて耳に飾りをぶら下げ、女性の体で最も大事なお腹を締めて蜂の腰のようにし、妊娠の機会を妨げ、出産の危険を増し、小さければ一家の不幸を招き、」

767/901
十五編(4/7)9/10

「大きければ全国の人口の源を害するものだ」と。

768/901
十五編(4/7)10/10

西洋人は家の内外に鍵をあまり使わず、旅先で人を雇って荷物を持たせても、しっかりした鍵がなくても物を盗まれることがなく、大工や左官のような職人に工事を請け負わせるのに細かい契約書がなくても後から裁判になることはまれだが、

769/901
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十五編(4/7)

10スナック

十五編(5/7)
十五編(5/7)1/10

日本人は家の中の一部屋ごとに鍵をかけ、手元の小箱にまで錠を下ろし、

770/901
十五編(5/7)2/10

工事請負の契約書では一字一句を争って紙に記すのに、それでもなお物を盗まれたり、契約違反で裁判所に訴えることが多い風習だとしたら、評者はまた嘆息してこう言うだろう。

771/901
十五編(5/7)3/10

「ありがたいことだ、キリストの聖なる教え。気の毒なことだ、異教の人々。日本人はまるで泥棒と一緒に暮らしているようなもので、あの西洋諸国の自由で正直な風俗に比べれば到底同じ次元の話ではない。聖なる教えが行われる国こそ道に落ちた物を拾わないと言うべきだ」と。

772/901
十五編(5/7)4/10

日本人がタバコを噛み、巻きタバコを吹かして、西洋人がパイプを使っていたら、「日本人は器械の技術に乏しく、まだパイプの発明もない」と言うだろう。

773/901
十五編(5/7)5/10

日本人が靴を使い、西洋人が下駄を履いていたら、「日本人は足の指の使い方を知らない」と言うだろう。味噌も輸入品ならここまで馬鹿にされることはなかったろう。豆腐も西洋人の食卓に上れば評価が上がるだろう。うなぎの蒲焼きや茶碗蒸しなどは世界一の美味として評判になるに違いない。こうした項目を挙げればきりがない。

774/901
十五編(5/7)6/10

もう少し高い話題に進んで、宗教のことに触れよう。

775/901
十五編(5/7)7/10

仮に四百年前、西洋に親鸞上人が生まれ、日本にマルティン・ルターが生まれ、親鸞上人は西洋で行われていた仏教を改革して浄土真宗を広め、ルターは日本のローマ・カトリックに反対してプロテスタントの教えを開いたとしたら、評者は必ずこう言うだろう。「宗教の大きな目的は人々を救うことにあって、人を殺すことではない。

776/901
十五編(5/7)8/10

この目的を間違えれば、他はもう見るに値しない。」

777/901
十五編(5/7)9/10

「西洋の親鸞上人はよくこの精神を体現し、野に伏し石を枕にして、千辛万苦、生涯の力を尽くしてついにその国の宗教を改革した。今日では全国人民の大半を教化した。

778/901
十五編(5/7)10/10

その教化がこれほど広まったにもかかわらず、上人の死後、その門徒が宗教のことで他宗の人を殺したことも、殺されたこともないのは、もっぱら宗教の徳で人を感化したものだと言える。」

779/901
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十五編(5/7)

10スナック

十五編(6/7)
十五編(6/7)1/10

「振り返って日本の有様を見れば、ルターがいったん世に出てローマの旧教に対抗したものの、ローマの信徒は簡単には従わず、旧教は虎のように、新教は狼のように互いに争い、血を流し、ルターの死後、宗教のために日本の人民を殺し、日本の国の富を費やし、軍を起こし国を滅ぼした禍は、筆では記せず、口では語れない。

780/901
十五編(6/7)2/10

なんと残虐なことか、野蛮な日本人は人を救う教えで民を苦しめ、」

781/901
十五編(6/7)3/10

「敵を愛するという宗旨によって罪のない同胞を殺し、今日に至ってその結果はどうかと問えば、ルターの新教はまだ日本の人民の半分も教化できていないという。 東西の宗教がこれほど趣を異にするのはなぜか。私はずっと疑問に思ってきたが、まだはっきりした原因はわからない。」

782/901
十五編(6/7)4/10

「ひそかに考えるに、日本のキリスト教も西洋の仏教も、その本質は同じだが、野蛮な国で行われれば自然と殺伐とした気風を促し、文明国で行われれば自然と穏やかな風を保つためにそうなるのか。あるいは東方のキリスト教と西方の仏教とは、もともとその本質が違うためにそうなるのか。

783/901
十五編(6/7)5/10

あるいは改革の祖である日本のルターと西洋の親鸞上人の間に徳の優劣があるためにそうなるのか。軽率に浅い考えで断じるべきではない。」

784/901
十五編(6/7)6/10

「ただ後世の博識な学者の確かな説を待つのみだ」と。そうであるなら、今の改革者たちが日本の旧習を嫌って西洋のものを信じるのは、まったく軽々しく信じ軽々しく疑うという批判を免れない。いわば古いものを信じていた信じ方で新しいものを信じ、西洋文明を慕うあまり、学者の朝寝坊の癖まで学ぶようなものだ。

785/901
十五編(6/7)7/10

さらにひどいのは、まだ新しく信じるべきものを見つけていないのに早くも古いものを捨ててしまい、心が空っぽのようになって安心できる拠り所を失い、ついには発狂する者まで出ている。哀れなことではないか〔医者の話によると、近頃は神経の病気や発狂する患者が多いという〕。西洋の文明はもちろん慕うべきだ。

786/901
十五編(6/7)8/10

慕い、倣おうとしても日々時間が足りないほどだが、軽々しくこれを信じるくらいなら信じないほうがましだ。

787/901
十五編(6/7)9/10

西洋の富強はまことにうらやましいが、その国民の貧富の格差という弊害まで真似すべきではない。日本の税が軽いとは言えないが、イギリスの庶民が地主に虐げられる苦痛を思えば、むしろ日本の農民の暮らしを祝うべきだ。

788/901
十五編(6/7)10/10

西洋諸国の婦人を尊重する風潮は人間社会の美しいことだが、ふしだらな妻がのさばって夫を苦しめ、不従順な娘が親を軽蔑して醜い行いをする風俗には心酔すべきでない。

789/901
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十五編(6/7)

10スナック

十五編(7/7)
十五編(7/7)1/4

それなら今の日本で行われていることは、本当にこのままでよいのだろうか。商売や会社の仕組みはこのままでよいのか。政府の体制はこのままでよいのか。教育の制度はこのままでよいのか。本を書く風潮はこのままでよいのか。それだけではない、現に私たちの学問の方法もこのままの道でよいのか。

790/901
十五編(7/7)2/4

こう考えると百の疑問が一度に湧いて、暗闇の中で物を探るようだ。

791/901
十五編(7/7)3/4

この混乱の只中にいて、東西の物事をよく比較し、信じるべきものを信じ、疑うべきものを疑い、取るべきものを取り、捨てるべきものを捨て、信じることと疑うこと、取ることと捨てることの適切なバランスを得ようとするのはまた難しいことではないか。しかしこの責任を担うのは、他ならぬ我々学者だけなのだ。学者は努力しなければならない。

792/901
十五編(7/7)4/4

思うだけでは学ぶことに及ばない。

793/901
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十五編(7/7)

4スナック

十六編(1/5)
十六編(1/5)1/10

多くの本を読み、多くの物事に触れ、心を空にして公平に、目を見開いて真実のありかを求めれば、信じるべきことと疑うべきことはたちまち変わり、昨日信じていたものが今日の疑問になり、今日疑っていたものが明日すっきり解けることもあるだろう。学者は努力しなければならない。

794/901
十六編(1/5)2/10

十六編 身近なところで独立を守ること「不羈独立」という言葉は最近よく聞くが、世間の話にはかなり間違いもあるので、各自でその意味をよく理解しなければならない。

795/901
十六編(1/5)3/10

独立には二種類ある。一つは有形、一つは無形。もっと身近に言えば、物質的な独立と、精神的な独立の二種類だ。物質的な独立とは、世間の人がそれぞれ財産を持ち、それぞれ仕事に励み、他人の世話にならないように、自分と家族のやりくりをすること。一言で言えば「人から物をもらわない」ということだ。

796/901
十六編(1/5)4/10

物質的な独立は目に見えてわかりやすいが、無形の精神的な独立となると、その意味は深く、関係する範囲も広く、一見独立とは無関係に思えることにもこの考え方があって、これを間違える人がとても多い。 些細なことだが一つの例を挙げて説明しよう。 「一杯目は人が酒を飲み、三杯目は酒が人を飲む」ということわざがある。

797/901
十六編(1/5)5/10

つまり「酒を好む欲が人の本心を支配して、本心の独立を奪う」という意味だ。

798/901
十六編(1/5)6/10

今の世の人々の行動を見ると、本心を支配するものは酒だけではなく、実にさまざまなものが本心の独立を妨げている。

799/901
十六編(1/5)7/10

この着物に合わないからあの羽織を作り、この服に釣り合わないからあの煙草入れを買い、服が揃えば家の狭さが不自由になり、家の新築が完成すれば宴会を開かないわけにもいかず、うなぎ飯は西洋料理への呼び水になり、西洋料理は金の時計への橋渡しになり、あれからこれへ、一から十へと進み、一歩また一歩、際限がない。

800/901
十六編(1/5)8/10

こうした様子を見ると、家の中には主人がいないようであり、体の中には精神がないようで、物が人に物を求めさせ、主人は品物に支配されてその奴隷にされていると言うべきだ。

801/901
十六編(1/5)9/10

さらにこれよりひどいものもある。前の例は自分の品物に支配される者だったが、ここにまた他人の物に振り回される例がある。

802/901
十六編(1/5)10/10

あの人がこの洋服を作ったから自分も作ると言い、隣が二階建てを建てたから自分は三階建てだと言い、友人の持ち物が自分の買い物の見本になり、同僚の噂話が自分の注文書の下書きになる。

803/901
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十六編(1/5)

10スナック

十六編(2/5)
十六編(2/5)1/10

色黒の大きな男がごつごつした指に金の指輪をはめるのはちょっと似合わないと自分でもわかりながら、西洋人の風だからと無理に気持ちを切り替えて金を奮発する。真夏の夕方、風呂上がりには浴衣に団扇と思いながら、

804/901
十六編(2/5)2/10

西洋人の真似だから我慢して筒袖の服を着て汗を流し、ひたすら他人の好みに合わせることばかり心配している。

805/901
十六編(2/5)3/10

他人の好みに合わせるのはまだ許せる。笑うべき極みは、他人の持ち物を見間違えて、隣の奥さんが高級ちりめんに純金のかんざしだと聞いて大いに悩み、急いで自分も注文した後によくよく調べたら、なんと隣の品は木綿のちりめんにメッキだったという話だ。

806/901
十六編(2/5)4/10

こうなると、自分の本心を支配しているのは自分の物でも他人の物でもなく、煙のような夢中の妄想に振り回されて、自分と家族の暮らしは妄想の行き来に任せているようなものだ。精神の独立とはかなりの距離がある。その距離がどれくらいかは各自で測るべきだ。

807/901
十六編(2/5)5/10

こんな夢うつつの暮らしに心を悩ませ、体を酷使して、年収千円も月給百円も使い果たして跡形もなくなる。不幸にして家の財産や収入の道を失ったり、月給の縁が切れたりすれば、気が抜けたように、間が抜けたように、家に残るのは無用ながらくた、身に残るのは贅沢の習慣だけだ。哀れと言うのもまだ言い足りない。

808/901
十六編(2/5)6/10

財産を築くのは独立の基盤だと言って心身を費やしながら、その財産を扱う際にかえって財産に支配されて独立の精神を失い尽くすとは、まさに求めるための手段で失うものだ。私は守銭奴の行いを褒めるわけではないが、ただ金の使い方を工夫して、金を支配する側になり金に支配されず、少しも精神の独立を害さないようにしたいだけだ。

809/901
十六編(2/5)7/10

心がけと行動は釣り合うべきだという話。

810/901
十六編(2/5)8/10

議論と実際の仕事の両方をうまくやらなければならないということは、誰もが言うことだが、その言っていること自体もまた議論にとどまるだけで、実際に行う者は非常に少ない。そもそも議論とは、心に思うことを言葉にし、文章に書くものだ。まだ言葉や文章にしていなければ、それはその人の心がけ、あるいは志と言う。

811/901
十六編(2/5)9/10

だから議論は外のものとは関係ないものとも言える。

812/901
十六編(2/5)10/10

結局それは心の中にあるもの、自由なもの、制限のないものだ。実際の仕事とは、心に思うことを外に表し、外の物事に触れて処理することだ。だから実際の仕事には必ず制限があり、外の条件に縛られて自由にはならない。

813/901
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十六編(2/5)

10スナック

十六編(3/5)
十六編(3/5)1/10

昔の人はこの二つを区別して、「言と行」、「志と功」と言った。今の世間で言う「説と働き」も同じことだ。

814/901
十六編(3/5)2/10

「言行が食い違う」とは、議論で言うことと実際にやることが一致しないということだ。 「功に報いるのであって志に報いるのではない」とは、「実際の仕事の出来ばえに応じて報酬を与えるべきで、心の中でどう思っていても、形のない心がけを褒めるべきではない」という意味だ。

815/901
十六編(3/5)3/10

また世間で「あの人の説はともかく、もともと働きのない人物だ」と軽蔑することがある。いずれも議論と仕事が釣り合わないことを咎めたものだろう。

816/901
十六編(3/5)4/10

だから議論と仕事は少しも食い違わないよう正しくバランスを取らなければならない。初学の人にわかりやすくするため、「心がけ」と「働き」という二つの言葉を使って、両者が助け合いバランスを保つことで人に役立つ理由と、このバランスを失ったときに生じる弊害を論じよう。第一 人の働きには大小軽重の区別がある。

817/901
十六編(3/5)5/10

芝居も人の働きであり、学問も人の働きだ。人力車を引くのも、蒸気船を動かすのも、鍬を持って農業するのも、筆を振るって著述するのも、みな等しく人の働きだが、役者ではなく学者の道を選び、車引きではなく航海術を学び、百姓の仕事に満足せず著述の仕事に従事するのは、働きの大小軽重を見分けて、

818/901
十六編(3/5)6/10

軽く小さいものを捨てて重く大きいものに従うことだ。人として素晴らしいことだ。

819/901
十六編(3/5)7/10

では、そのように見分けさせるものは何か。本人の心であり、志である。こうした心と志を持つ人を「心がけの高い人物」と言う。だから言う。人の心がけは高くなければならない。心がけが高くなければ働きもまた高くなれないのだ。第二 人の働きは、難しさに関係なく、役に立つ度合いが大きいものと小さいものがある。

820/901
十六編(3/5)8/10

囲碁や将棋などの技芸も簡単なことではなく、その研究に工夫を凝らす難しさは天文・地理・機械・数学などと変わらないが、役に立つ度合いとなれば比べものにならない。この有用か無用かを見極めて有用な方に向かわせるのが、心がけの明晰な人物だ。だから言う。

821/901
十六編(3/5)9/10

心がけが明晰でなければ、人の働きをただ無駄な骨折りに終わらせてしまうことがある。第三 人の働きには規則がなければならない。

822/901
十六編(3/5)10/10

働く際には場所と時節をわきまえなければならない。たとえば道徳の説法はありがたいものだが、宴会の最中に突然唱えればただ笑いものになるだけだ。書生の激論も時には面白いが、親戚の子供たちが集まっている席でやれば狂人としか言いようがない。

823/901
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十六編(3/5)

10スナック

十六編(4/5)
十六編(4/5)1/10

この場所柄と時節柄を見分けて規則正しくするのが、心がけの明晰なものだ。

824/901
十六編(4/5)2/10

人の働きだけが活発で判断力がないのは、蒸気に機関がないようなもの、船に舵がないようなものだ。益がないばかりかかえって害になることが多い。第四 前の項目は働きはあるのに心がけが不十分な弊害だったが、今度は逆に、心がけだけが高く遠大で実際の働きがないのも、大変に困ったことだ。

825/901
十六編(4/5)3/10

心がけは大きいのに働きの乏しい者は、常に不満を抱かざるを得ない。

826/901
十六編(4/5)4/10

世の中を見渡して仕事を探すとき、自分の手に合うことはすべて自分の心がけより下のことだから従事する気になれず、かといって自分の心がけを活かそうとしても実際の働きが足りなくて取りかかれない。

827/901
十六編(4/5)5/10

そこで自分を責めずに他人のせいにし、「時代に恵まれない」とか「天命がまだだ」とか言い、まるで世の中にやるべき仕事がないかのように思い込んで、ただ引きこもって一人で悩むだけだ。

828/901
十六編(4/5)6/10

口には愚痴を言い、顔には不満を表し、周りはすべて敵のようで、世の中はみな不親切のように思える。その心の中を例えれば、人に金を貸したこともないのに返済が遅いと恨むようなものだ。

829/901
十六編(4/5)7/10

儒者は自分を認めてくれる人がいないと嘆き、書生は自分を助けてくれる人がいないと嘆き、役人は出世の手がかりがないと嘆き、商人は商売が繁盛しないと嘆き、藩がなくなった士族は生計の道がないと嘆き、役職のない華族は自分を敬う人がいないと嘆き、朝から晩まで嘆いてばかりで楽しいことがない。

830/901
十六編(4/5)8/10

今の世間にこうした不満はとても多いと感じる。その証拠を得たければ、日ごろの付き合いの中で人の顔色をよく観察してみればいい。言葉や表情が生き生きとして、心の中の楽しさが外にあふれ出ているような人は、世の中にとても少ないだろう。私の経験では、いつも人が憂えているのを見て喜んでいるのを見たことがない。

831/901
十六編(4/5)9/10

その顔を借りられたら不幸のお見舞いにぴったりだろうと思える人ばかりだ。気の毒な有様ではないか。

832/901
十六編(4/5)10/10

もしこうした人たちがそれぞれ自分の働きの分に応じて勤めていたなら、おのずと生き生きと仕事をする楽しい境地を得て、しだいに仕事が進歩し、ついには心がけと働きが釣り合うようにもなるはずなのに、そこに気づかない。

833/901
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十六編(4/5)

10スナック

十六編(5/5)
十六編(5/5)1/8

働きのレベルは一なのに心がけのレベルは十にとどまり、一にいて十を望み、十にいて百を求め、求めて得られずにただ憂いを買う者だと言うべきだ。

834/901
十六編(5/5)2/8

これはたとえば石の地蔵に飛脚の魂を入れたようなもの、中風の患者に神経の鋭さを増したようなものだ。その不満や不如意は察して余りある。また心がけは高いのに働きの乏しい者は、人に嫌われて孤立することがある。

835/901
十六編(5/5)3/8

自分の働きと他人の働きを比べればもちろんかなわないが、自分の心がけで他人の働きを見ると満足できず、自然と心の中で見下す気持ちが生まれてしまう。

836/901
十六編(5/5)4/8

みだりに人を見下す者は、必ず人からも見下されることになる。互いに不満を抱き、互いに軽蔑して、ついには「変人」「奇人」と嘲られ、世間から相手にされなくなる。

837/901
十六編(5/5)5/8

今の世の中を見ると、傲慢で人に嫌われる者がいて、人に勝とうとして嫌われる者がいて、人に多くを求めて嫌われる者がいて、人を悪く言って嫌われる者がいる。

838/901
十六編(5/5)6/8

いずれも人と比較する基準を見失い、自分の高い心がけを物差しにして、そこに他人の働きを当てはめて、勝手な空想を膨らませ、それが原因で人に嫌われ、ついには自分から人を避けて孤立の苦しみに陥る者だ。後進の若者に告ぐ。人の仕事を見て不満だと思ったら、自分でその仕事をやってみるがいい。

839/901
十六編(5/5)7/8

人の商売を見て下手だと思ったら、自分でその商売をやってみるがいい。

840/901
十六編(5/5)8/8

隣の家の家計がだらしないと思ったら、自分の家でやってみるがいい。人の著書を批評したければ、自分で筆を取って本を書くがいい。学者を評したければ学者になるがいい。医者を評したければ医者になるがいい。大きなことから小さなことまで、他人の働きに口を出したければ、自分をその立場に置いてみて、まず自分自身を省みなければならない。

841/901
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十六編(5/5)

8スナック

十七編(1/6)
十七編(1/6)1/10

あるいは職業がまったく違うものについても、よくその働きの難しさや重さを量り、異なる種類の仕事であっても働きと働きで自分と他人を比較すれば、大きな間違いはないだろう。

842/901
十七編(1/6)2/10

十七編 人望論十人が見て百人が指さすところで、「あの人は確かな人だ、頼もしい人物だ、この仕事を任せても間違いないだろう、この事業を託しても必ず成し遂げるだろう」と、あらかじめその人柄を当てにして世間一般から期待される人のことを「人望のある人物」と言う。

843/901
十七編(1/6)3/10

世の中に人望の大小はあるが、少しでも人に当てにされる人でなければ何の役にも立たない。小さいほうで言えば、十銭を持たせてお使いに出す者でも、十銭分の人望があって、十銭分は人に当てにされる人物だ。

844/901
十七編(1/6)4/10

十銭から一円、一円から千円、万円、ついには何百万円もの資金を集めた銀行の支配人になったり、あるいは一つの府や省の長官になって、金を預かるだけでなく、人々の便不便を預かり、貧富を預かり、名誉まで預かることもある。こうした大任に当たる者は、日ごろから人望があり、人に当てにされる人でなければ、とても務まらない。

845/901
十七編(1/6)5/10

人を当てにしないのはその人を疑うからであり、疑い出せばきりがない。

846/901
十七編(1/6)6/10

監視役を監視するために別の監視役を置き、監察を監察するために別の監察を命じ、結局何の取り締まりにもならずにただ人の気分を害しただけという笑い話は、古今にその例がとても多い。また三井や大丸の品物は正札で間違いないと、品質も確かめずに買い、馬琴の作品なら必ず面白いと、題名を聞いただけで注文する者が多い。

847/901
十七編(1/6)7/10

だから三井や大丸の店はますます繁盛し、馬琴の著書はますます流行して、商売にも著述にも大変都合がいい。人望を得ることの大切さはこれでわかるだろう。

848/901
十七編(1/6)8/10

「十六貫の力がある者に十六貫の荷物を背負わせ、千円の財産がある者に千円を貸せ」と言えば、人望も名声も不要になり、ただ実物を当てにして事を進めればよさそうだが、世の中の物事はそんなに単純で淡泊ではない。

849/901
十七編(1/6)9/10

十貫の力もない者でも座ったまま何百万貫もの物を動かすことができるし、千円の財産がない者でも何十万もの金を運用できるのだ。

850/901
十七編(1/6)10/10

試しに今、大富豪で有名な商人の帳場に飛び込んで一度にすべての帳簿を精算したら、出入りの差し引きで何百何千円も足りない者がいるだろう。この不足は財産ゼロより下の不足だから、一文なしの乞食より何百何千も劣ることになるが、世間がこの人を乞食のように見ないのはなぜか。他でもない、この商人に人望があるからだ。

851/901
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十七編(1/6)

10スナック

十七編(2/6)
十七編(2/6)1/10

だから人望はもともと腕力で得られるものではなく、また財産が多いだけで得られるものでもなく、ただその人の活発な知恵の働きと正直な本心の徳を積み重ねて、しだいに得られるものだ。人望が知恵と徳に属するのは当然の道理で、必ずそうあるべきだが、古今の実際にはその反対を見ることも少なくない。

852/901
十七編(2/6)2/10

藪医者が玄関を立派にして大いに流行し、売薬屋が看板を金にして大いに売り広め、山師の帳場に空っぽの金庫を置き、学者の書斎に読めない洋書を飾り、人力車の中で新聞を読んで家に帰ると昼寝する者がいて、日曜の午後に教会で泣いて月曜の朝に夫婦喧嘩する者がいる。世の中は真偽入り混じり、善悪が区別できない。

853/901
十七編(2/6)3/10

どちらを正しいとし、どちらを間違いとすべきか。

854/901
十七編(2/6)4/10

ひどい場合には、人望がどこに集まっているかを見れば、本人に知恵も徳もないことがわかる者さえいる。そこで、少し見識の高い立派な人は世間の名声を求めず、浮世の虚名だとしてわざと避ける者もいるが、それも無理のないことだ。そういう心がけは褒めるべき一つの点と言えよう。

855/901
十七編(2/6)5/10

しかし、物事の極端な一面だけを論じれば、弊害のないものはない。

856/901
十七編(2/6)6/10

その立派な人が世間の名声を求めないのは大いに褒めるべきように見えるが、求めるか求めないかを決める前に、まず名声の性質をよく調べなければならない。

857/901
十七編(2/6)7/10

その名声が本当に虚名の極みで、藪医者の玄関や売薬屋の看板のようなものなら、もちろん遠ざけ避けるべきだが、一方から見れば世間の物事がすべて見せかけでできているわけではない。

858/901
十七編(2/6)8/10

人の知恵や徳は花の咲く木のようなもので、その名声や人望は花のようなものだ。花の木を育てて花を咲かせるのに、なぜわざわざそれを避けるのか。名声の性質をよく調べもせずに一概に捨てようとするのは、花を払って木の存在を隠すようなものだ。

859/901
十七編(2/6)9/10

隠したからといって効用が増すわけではなく、まさに生きたものを死んだように使うのと同じで、世のためにならない大きな不便だ。では名声や人望は求めるべきものだろうか。

860/901
十七編(2/6)10/10

答えは「そうだ。努めて求めなければならない」。ただし求めるにあたって分相応であることが大事なのだ。心身の働きで世間の人望を得るのは、米を量って人に渡すようなものだ。量り方の上手な人は一斗の米を一斗三合に量り出し、下手な人は九升七合に量り込んでしまう。

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十七編(2/6)

10スナック

十七編(3/6)
十七編(3/6)1/10

私の言う「分相応」とは、量り出しもなく量り込みもなく、ちょうど一斗の米を一斗に量ることだ。

862/901
十七編(3/6)2/10

米の量り方には上手下手があっても、その差はわずか二、三分程度だが、才能と徳の働きを量り出す場合には、その差は決して三分にとどまらない。上手な人は正味の二倍三倍にも量り出し、下手な人は半分に量り込んでしまうこともある。

863/901
十七編(3/6)3/10

この量り出しが度を越えた者は世間に大きな迷惑をかけて当然憎むべきだが、しばらくそれは置いて、ここでは正味の働きを少なく見せてしまう人のために少し論じたい。

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十七編(3/6)4/10

孔子は言った、「君子は人が自分を知らないことを心配せず、自分が人を知らないことを心配する」と。

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十七編(3/6)5/10

この教えは当時の弊害を正すために述べたものだろうが、後世の無気力な儒学者がこの言葉を真に受けて引っ込み思案ばかりに凝り、その悪い癖がだんだんエスカレートして、ついには変人奇人、無言無感情、笑いも泣きもしない木の切れ端のような男を「奥ゆかしい先生」と称えるに至ったのは、人間世界の珍事だ。

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十七編(3/6)6/10

今こそこの狭い習慣を脱して活発な世界に入り、多くの物事に触れ、広く人と交わり、人を知り自分も知られ、自分が持つ正味の働きを十分に発揮して、自分のためにも世のためにもしようとするなら――第一、話し方を学ばなければならない。

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十七編(3/6)7/10

文章に書いて意思を伝えるのはもちろん有力なことであり、文通や著述の心がけも怠ってはならないが、直接人と接して自分の考えをすぐに相手に伝えるには、言葉ほど有力なものはない。だから言葉はなるべく流暢で生き生きとしていなければならない。最近は世の中に演説会が設けられている。

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十七編(3/6)8/10

この演説で有益な話を聞くのはもちろん役に立つが、それだけでなく言葉の流暢さと生き生きした話し方を身につけるという利益は、話す側も聞く側もともに得られるものだ。また今、話し下手な人の言葉を聞くと、使える言葉の数がとても少なくて、いかにも不自由そうだ。

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十七編(3/6)9/10

たとえば学校の先生が翻訳書の講義をする際に「丸い水晶の玉」とあると、わかりきったことと思うのか何の説明もせず、ただ難しい顔をして子供をにらみつけて「丸い水晶の玉」と言うだけだ。しかしもしこの先生が言葉が豊かで言い回しの上手な人だったら、「丸いとは角が取れて団子のような形のこと。

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十七編(3/6)10/10

水晶とは山から掘り出すガラスのようなもので、甲州などからたくさん産出されます。」

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十七編(3/6)

10スナック

十七編(4/6)
十七編(4/6)1/10

「この水晶でできたごろごろする団子のような玉」と説明したなら、女性にも子供にも腹の底からよくわかるはずなのに、使えるのに使わない言葉を使わずに不自由しているのは、結局、演説を学ばなかった罪だ。

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十七編(4/6)2/10

あるいは書生が「日本語は不便で文章も演説もできないから英語を使い英文を書く」などと、取るに足らない馬鹿なことを言う者がいる。

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十七編(4/6)3/10

思うにこの書生は日本に生まれていながらまだ十分に日本語を使いこなしたことのない者だろう。国の言葉はその国の物事が増えるのに応じてしだいに増えていくもので、不自由なはずはない。何はさておき、今の日本人はまず今の日本語を上手に使って話し方の上達を目指すべきだ。

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十七編(4/6)4/10

第二、顔色や表情を快くして、一目見ただけで人に嫌われないようにすること。

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十七編(4/6)5/10

肩をすくめてお世辞笑いをし、口先だけの愛想で太鼓持ちのように媚びるのはもちろん嫌うべきだが、苦虫を噛みつぶして熊の胆をすすったような顔、黙っていれば褒められるが笑えば損をしたような顔、年中胸の痛みに苦しんでいるような顔、一生喪に服しているような顔もまた大いに嫌うべきだ。

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十七編(4/6)6/10

顔色や表情が明るく楽しげであることは人の徳の一つであり、人付き合いにおいてもっとも大切なことだ。

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十七編(4/6)7/10

人の顔は家の玄関のようなものだ。広く人と交わって客を自由に迎えたければ、まず玄関を開けて入口を掃除し、とにかく入りやすくすることが大事だ。それなのに今、人と交わろうとして表情を和らげることに気を配らないどころか、かえって偽物の君子を気取ってわざと渋い顔をするのは、戸口に骸骨をぶら下げて門の前に棺桶を置くようなものだ。

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十七編(4/6)8/10

誰が近づくだろうか。

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十七編(4/6)9/10

世界中でフランスを文明の源、知識普及の中心と言うが、その理由をたどれば、国民の態度が常に活発で気軽で、言葉も表情も親しみやすく近づきやすい気風があることが、その原因の一つとされている。

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十七編(4/6)10/10

ある人はこう言うかもしれない。「言葉や表情は人それぞれの天性だから、努力してもどうしようもない。論じても結局は無駄だ」と。

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十七編(4/6)

10スナック

十七編(5/6)
十七編(5/6)1/10

この意見は一理あるように見えるが、人の知性が発達する仕組みを考えれば、正しくないことがわかる。人の心身の働きは、鍛えれば鍛えるほど上達するもので、それは手足を使って筋肉を強くするのと同じだ。言葉や表情も心身の働きなのだから、放っておいて上達するはずがない。

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十七編(5/6)2/10

それなのに昔から日本ではこの大切な働きを顧みる者がいなかったのは、大きな心得違いではないか。

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十七編(5/6)3/10

だから私が望むのは、改めて今日から「言葉と表情の学問」というつもりではないが、この働きを人の徳の一つとして軽んじることなく、常に心にとめて忘れないようにしたいということだけだ。ある人がまたこう言う。「表情を良くするのは外見を飾ることだ」と。

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十七編(5/6)4/10

「外見を飾ることが人付き合いの要だとすれば、顔色や表情だけでなく、服も飾り、食事も飾り、気に入らない客も招待して身分不相応のごちそうをするなど、まったく見栄だけで人と付き合う弊害が出るだろう」と。この意見にも一理あるようだが、見栄は交際の弊害であって本来の姿ではない。物事の弊害はしばしばその本来の姿と正反対のものだ。

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十七編(5/6)5/10

「やりすぎは足りないのと同じ」とは、まさに弊害と本来の姿が正反対であることを評した言葉だ。たとえば食事の本来の目的は体を養うことだが、食べすぎればかえって栄養を害する。栄養は食事の本来の姿であり、食べすぎはその弊害だ。弊害と本来の姿は正反対のものだ。だから人付き合いの要も和やかで飾らないことにあるのみ。

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見栄に流れるのは決して交際の本来の姿ではない。

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世の中で夫婦や親子ほど親しい関係はない。これを「天下の至親」と呼ぶ。そしてこの最も親しい関係を支えているものは何か。ただ和やかで飾らない真心があるだけだ。

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十七編(5/6)8/10

表面の見栄を取り除き、すっかり取り払ってはじめて、本当の親しさが見えてくる。つまり交際の親しさは飾らない真心の中にあって、見栄とは両立できないものだ。

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私はもちろん今の人々に対して、その付き合いが親子夫婦のようになれとは言わないが、ただ目指すべき方向を示しているだけだ。

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今の世間で人を評して、「あの人は気軽な人」「気を遣わない人」「遠慮のない人」「さっぱりした人」「男らしい人」と言い、あるいは「おしゃべりだが程よい人」「騒がしいが悪くない人」

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十七編(5/6)

10スナック

十七編(6/6)
十七編(6/6)1/10

「無口だが親切そうな人」「怖そうだがあっさりした人」と言うのは、まさに家族づきあいのような雰囲気を表していて、和やかで飾らないことを褒めたものだ。

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十七編(6/6)2/10

第三、「道が同じでなければ一緒に相談しない」と言うが、世間の人はこの教えを間違って理解して、学者は学者同士、医者は医者同士、少しでも職業が違えば近づこうとしない。同じ塾の仲間でも、卒業後に一人が商人になり一人が役人になれば、千里の隔たりのように疎遠になる者もいる。ひどい無分別だ。

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十七編(6/6)3/10

人と交わるには、旧友を忘れないだけでなく、新しい友人も積極的に求めなければならない。

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十七編(6/6)4/10

人は互いに接しなければ本当の気持ちを伝え合うことができず、気持ちを伝え合えなければその人物を知ることもできない。試しに考えてみよ。世間の立派な人々で、たまたま偶然に出会った人が生涯の親友になったことはないだろうか。十人に会って一人の偶然があるなら、二十人に接すれば二人の偶然が得られる。

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十七編(6/6)5/10

人を知り、人に知られる始まりは、多くこのあたりにある。人望や名声の話はひとまず置いて、知り合いや友人が多いことは、目の前の便利ではないか。

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以前、宮の渡し場で同じ船に乗った人を、今日銀座の通りで見かけて、思いがけず双方が便利を得ることがある。今年出入りの八百屋が、来年は奥州街道の旅籠屋で腹痛の介抱をしてくれることもあるだろう。人は多いけれど鬼でも蛇でもなく、わざとこちらを害そうとする悪敵はいないものだ。

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恐れることなく、心をさらけ出してさっさと付き合うべきだ。

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だから交際を広げるコツは、自分の関心や技能をなるべくたくさん持って、一つのことに偏らず、さまざまな方向から人と接することにある。学問で交わり、商売で付き合い、書画の友がいて、碁や将棋の相手がいて、遊び怠けの悪事でない限り、友を作る手段にならないものはない。

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十七編(6/6)9/10

特に芸のない者ならば一緒に食事をするのもよいし、お茶を飲むのもよい。

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さらに言えば、体が丈夫な者は腕相撲、枕引き、足相撲も一席の余興として交際の助けになるだろう。腕相撲と学問とは道が違って一緒に語り合えないように見えるが、世界は広く人の付き合いは多岐にわたるもので、三、五匹のフナが井戸の中で一生を過ごすのとは少し事情が違うのだ。人として人を毛嫌いしてはいけない。

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