方丈記

✦ スナック翻訳版

鴨長明 · 0/85

Snack Point

✦ 地震、火事、飢饉。すべてを失った男が辿り着いた、方丈の小さな庵での暮らし。

✦ 1212年成立。鴨長明による日本三大随筆の一つ。大火・竜巻・飢饉・地震…災害ルポとしても読める。

✦ 「ゆく河の流れは絶えずして」の冒頭は日本文学屈指の名文。

目次

底本情報

公開: 青空文庫
底本: 「現代語訳 方丈記」岩波現代文庫、岩波書店
初出: 1212年
章構成: 章分けはSnackReadが独自に付与

✦ スナック翻訳版について

原文に忠実なAI翻訳・現代語訳版です。原文/翻訳の切り替えができます。学術的な正確さを保証するものではありません。

※AIによる翻訳・現代語訳版
#01 行く川の流れ
#01 行く川の流れ1/10

流れゆく川の水は絶えることがなく、しかもその水はもとの水ではない。よどみに浮かぶ泡は、消えたかと思えばまたできて、長くとどまっていることがない。

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#01 行く川の流れ2/10

世の中に生きる人とその住まいも、また同じようなものだ。

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#01 行く川の流れ3/10

美しい都の中に棟を並べ甍を争っている、身分の高い人も低い人も住まいは、代々を経てもなくならないもののようだが、本当かと調べてみると、昔からある家はめったにない。

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#01 行く川の流れ4/10

住む人もまた同じことだ。場所も変わらず、人も多いけれど、昔会った人は、二、三十人の中に、わずか一人二人しかいない。

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#01 行く川の流れ5/10

朝に死に、夕べに生まれるのがこの世の習いで、まるで水の泡のようなものだ。生まれ死ぬ人は、どこから来てどこへ去るのか、私にはわからない。

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#01 行く川の流れ6/10

また、この仮の住まいを、誰のために心を悩ませ、何のために目を楽しませるのかもわからない。

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#01 行く川の流れ7/10

あるいは露が落ちて花が残る。残るといっても朝日に枯れてしまう。あるいは花がしぼんで、露がまだ消えない。消えないといっても、夕暮れまでもたない。物事の道理がわかるようになってから、四十年あまりの年月を過ごす間に、世の中の不思議を見ることがだんだん多くなった。昔、安元三年四月二十八日だったか、風が激しく吹いて静かでなかった夜、午後八時ごろ、都の東南から火が出て西北に燃え広がった。

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#01 行く川の流れ8/10

しまいには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで火が移り、一夜のうちに灰塵と化してしまった。火元は樋口富小路あたりとかで、病人を泊めていた仮小屋から出火したという。吹き迷う風にあちこちと燃え広がるうちに、扇を広げたように末広がりに延焼した。遠くの家は煙にむせび、近くのあたりはひたすら炎を地面に吹きつけた。

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#01 行く川の流れ9/10

空には灰を吹き上げていたので、火の光に照らされてあたり一面が紅色に染まる中、風に耐えきれず吹きちぎられた炎が、飛ぶように一、二町を越えて次々と燃え移っていく。

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#01 行く川の流れ10/10

その中にいた人はまともな気持ちでいられただろうか。ある者は煙にむせて倒れ伏し、ある者は炎に巻かれてたちまち死んだ。またある者はかろうじて身一つで逃れたものの、財産を持ち出すことはできなかった。

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#01 行く川の流れ

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#02 辻風と遷都
#02 辻風と遷都1/10

あらゆる宝物がそっくり灰になってしまった。

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#02 辻風と遷都2/10

まして、そのほかは数えきれない。都全体のうち、三分の二が焼けたという。男女の死者は数千人、馬や牛の類は数えきれない。人間の営みはみな愚かなものだが、中でもこれほど危険な都の中に家を建てるために財産を費やし心を悩ますことは、とりわけむなしいことだ。また治承四年四月二十九日のころ、中御門京極あたりから大きなつむじ風が起こって、六条あたりまで激しく吹いたことがあった。

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#02 辻風と遷都3/10

三、四町にわたって吹き荒れ、その中に含まれた家々は、大きいものも小さいものも一つとして壊れないものはなかった。そのまま平らに倒れたものもある。桁や柱だけが残ったものもある。

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#02 辻風と遷都4/10

また門の上を吹き飛ばして四、五町ほど先に落とし、垣根を吹き払って隣の家と一つにしてしまった。

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#02 辻風と遷都5/10

ましてや家の中の財産は、数えきれないほど空に舞い上がり、檜皮葺きの板の類は、冬の木の葉が風に乱れるように散った。

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#02 辻風と遷都6/10

おびただしく鳴り響く音で、話し声も聞こえない。あの地獄の業風でも、これほどだろうかと思われた。家が壊れただけでなく、これを修繕する間に怪我をして体が不自由になった者も数えきれない。この風は南西の方角に移っていって、多くの人を嘆かせた。つむじ風は常に吹くものだが、こんなことがあるだろうか。ただごとではない。何かの前兆だろうかと疑ったものだ。また同じ年の六月ごろ、突然、都が遷されることになった。

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#02 辻風と遷都7/10

まったく思いがけないことだった。だいたいこの京の始まりを聞けば、嵯峨天皇の御代に都と定まってから、すでに数百年が経っている。

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#02 辻風と遷都8/10

特別な理由もなく簡単に変えるべきものでもないから、世の人々がこれを容易ならぬことと憂い合ったのは、もっともなことだった。

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#02 辻風と遷都9/10

しかし、あれこれ言っても甲斐なく、天皇をはじめとして、大臣公卿がことごとく摂津国難波の京に移られた。

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#02 辻風と遷都10/10

官位に望みをかけ、主君の庇護を頼みとするほどの人は、一日でも早く移ろうと競い合った。時機を失い世間から見捨てられて、行くあてのない者は、嘆きながら元の場所にとどまっていた。

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#02 辻風と遷都

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#03 荒廃する都
#03 荒廃する都1/10

軒を争っていた人の住まいは、日が経つにつれて荒れていく。家は壊されて淀川に浮かび、土地は目の前で畑になる。人の心はすっかり変わって、ただ馬と鞍ばかりを重んじる。

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#03 荒廃する都2/10

牛車を使う人はいない。

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#03 荒廃する都3/10

その時、たまたま用事があって、摂津国の新しい都に行った。土地のありさまを見ると、その地は狭くて、条里を区切るにも足りない。北は山に沿って高く、南は海に近くて低い。波の音は常にやかましく、潮風がことのほか激しい。内裏は山の中にあるので、あの木の丸殿もこうだったかと、かえって風変わりで趣のある面もあった。日々に壊して川にも堰き止められないほど運び下す家は、いったいどこに建てるのだろう。

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#03 荒廃する都4/10

なお空き地は多く、建てた家は少ない。旧都はすでに荒れ果て、新都はまだ整わない。あらゆる人が、みな浮き雲のような不安な思いをしていた。もとからここに住んでいた者は、土地を失って嘆き、今移り住む人は、土木工事の面倒なことを嘆く。道端を見れば、車に乗るべき身分の人が馬に乗り、衣冠や布衣を着るべき人が直垂を着ている。都の風俗はたちまち一変して、まるで田舎の武士と変わらない。

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#03 荒廃する都5/10

これは世の乱れる前兆だと聞き及んでいたが、まさにその通りで、日が経つにつれて世の中は不穏になり、人の心も落ち着かず、民の嘆きがついにむなしくならなかったので、同じ年の冬、

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#03 荒廃する都6/10

やはりこの京に都が戻された。しかし壊して運んだ家々はどうなったのか、すべてが元のように建て直されはしなかった。

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#03 荒廃する都7/10

ほのかに伝え聞くところでは、昔の賢い御代には、慈しみの心をもって国を治められた。

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#03 荒廃する都8/10

炊煙が少ないのをご覧になった時は、限りある貢ぎ物さえお許しになった。これは民を慈しみ、世を救おうとされたからである。今の世のありさまを、昔に照らし合わせればよくわかる。また養和のころだったか、久しくなって確かには覚えていないが、二年の間、世の中に飢饉が起こって、ひどいことがあった。あるいは春夏に日照り、あるいは秋冬に大風や洪水など、よくないことが続いて、五穀がことごとく実らなかった。

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#03 荒廃する都9/10

むなしく春に耕し、夏に苗を植える労苦はあっても、秋に刈り冬に収穫するにぎわいはない。このため、諸国の民は、あるいは土地を捨てて国境を越え出で、あるいは家を忘れて山に住んだ。さまざまな祈祷が始まり、並々ならぬ修法が行われたが、まったくその効き目はなかった。京の暮らしは何事につけても、もとは田舎を頼みとしているのに、田舎からの物資がまったく上ってこないので、どうして体裁を取り繕っていられようか。

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#03 荒廃する都10/10

堪えかねて、さまざまな宝物を端から捨てるように売るが、まったく見向きもする人がいない。たまたま交換する者があっても、金を安く、粟を高くする。

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#03 荒廃する都

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#04 飢饉と疫病
#04 飢饉と疫病1/10

乞食が道端に多くなり、嘆き悲しむ声が耳に満ちた。前の年はこのように辛うじて暮れた。

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#04 飢饉と疫病2/10

翌年は持ち直すだろうかと思ったが、その上に疫病まで加わって、ますますひどくなって手がつけられない。

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#04 飢饉と疫病3/10

しまいには笠をかぶり、足を包み、それなりの身なりをした者が、ひたすら家ごとに物乞いして歩く。こうして疲れ果てた者たちが歩いているかと思えば、そのまま倒れて死んでしまう。築地の際や路上で飢え死にする者は数えきれない。死体を片づけるすべもないので、腐臭が世界中に満ち満ちて、変わりゆく姿やありさまは、目も当てられないことが多かった。ましてや河原などには、馬車がすれ違う道さえもなかった。

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#04 飢饉と疫病4/10

身分の低い者や木こりも、力が尽きて薪にさえ事欠くようになったので、頼るあてのない人は、自ら家を壊して市に出てこれを売るが、一人が持ち出した分の値段では、

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#04 飢饉と疫病5/10

一日の命をつなぐにさえ足りなかったという。不思議なことに、こうした薪の中に、赤い塗料や金銀の箔などがところどころについて見える木の割れ端が混じっていた。

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#04 飢饉と疫病6/10

これを調べてみると、どうしようもなくなった者が古寺に行って仏像を盗み、お堂の道具を壊して取って、割り砕いたものだった。

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#04 飢饉と疫病7/10

濁り汚れた末世に生まれ合わせて、このような心の痛む光景を見たのだった。またあわれなこともあった。離れがたい妻や夫を持っている者は、その相手への思いが深い方が必ず先に死んだ。なぜかといえば、自分の身を後回しにして、男であれ女であれ、いとしく思う相手に、たまたま手に入れた食べ物をまず譲るからだ。だから親子の場合は、決まって親が先に死んだ。

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#04 飢饉と疫病8/10

また母親が命尽きて横たわっているのも知らずに、幼い子がその乳房に吸いつきながら寝ているのもあった。仁和寺の慈尊院の大蔵卿隆暁法印という人が、このようにして数えきれないほど死んでいくことを悲しんで、多くの聖を語らい、死者の額が見えるたびに梵字の「阿」の字を書いて、仏縁を結ばせる供養をされた。

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#04 飢饉と疫病9/10

その死者の数を知ろうとして、四、五か月の間数えたところ、京の中の、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東の、道端にある頭が、全部で四万二千三百余りもあったという。ましてやその前後に死んだ者は多く、河原、白河、西の京、その他もろもろの辺地を加えれば、際限もなかっただろう。まして諸国七道については言うまでもない。

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#04 飢饉と疫病10/10

近くは崇徳院の御位の時、長承のころだったかと聞くが、このような例はあったと聞くけれど、その時代のありさまは知らない。目の当たりにして本当に珍しく、悲しいことであった。また元暦二年のころ、大地震があった。そのありさまは尋常ではなかった。山が崩れて川を埋め、海が傾いて陸地を浸した。地が裂けて水が湧き上がり、岩が割れて谷に転がり落ち、岸辺を漕ぐ船は波に漂い、道を行く馬は足の踏み場を失った。

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#04 飢饉と疫病

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#05 大地の怒り
#05 大地の怒り1/10

ましてや都の周辺では、あちこちの堂や社や塔が、一つとして無事なものはない。崩れたり倒れたりする間に、塵や灰が立ち上がって、盛んな煙のようだった。地が震え家が壊れる音は、雷と変わらない。家の中にいれば、たちまち押しつぶされそうになる。走り出れば地面が割れる。羽がないから空へも上がれない。龍でないから雲に乗ることもできない。恐ろしいものの中で最も恐るべきは、ただ地震であったと思い知らされた。

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#05 大地の怒り2/10

そんな中で、ある武士の一人息子で、六つか七つくらいの子が、築地の覆いの下に小さな家を作って、他愛もないままごと遊びをしていたのが、急に崩れて埋められ、跡形もなくぺしゃんこに押しつぶされて、両目が一寸ほど飛び出しているのを、父母が抱えて、声も惜しまず悲しみ合っていたのは、本当にあわれで悲しい光景だった。

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#05 大地の怒り3/10

子を失った悲しみには、勇ましい武士も恥を忘れるのだと思い、いたわしくも当然のことだと見えた。このように激しく揺れることはしばらくして止んだが、その余震はしばしば絶えなかった。普通なら驚くほどの地震が、二、三十回も揺れない日はなかった。十日二十日が過ぎると、だんだん間遠になって、四、五回、二、三回、あるいは一日おき、二、三日に一回などとなり、だいたいその余震は三か月ほど続いただろうか。

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#05 大地の怒り4/10

四大元素の中で、水・火・風は常に害をなすが、大地に至っては特別な変異を起こさない。昔、斉衡のころだったか、大地震があって東大寺の仏の御首が落ちるなど大変なことがあったというが、それでも今回には及ばなかったという。直後は人々みなこの世のはかなさを語り合い、いくらか心の濁りも薄らぐように見えたのに、月日が重なり年を越すと、後にはもう言葉にして口に出す人さえいなくなった。

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#05 大地の怒り5/10

およそこの世の暮らしにくいこと、わが身と住まいとの、はかなくあてにならないさまはこの通りだ。

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#05 大地の怒り6/10

ましてや場所によって、身分に従って心を悩ますことは、挙げて数えきれない。

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#05 大地の怒り7/10

もし自分の身分が低くて、権門の近くに住んでいる者は、深く喜ぶことがあっても大いに楽しむことはできない。嘆きがある時も声を上げて泣くことができない。

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#05 大地の怒り8/10

もし貧しくて裕福な家の隣に住んでいる者は、朝夕みすぼらしい姿を恥じてへつらいながら出入りし、妻子や召使いが羨ましそうにしているのを見るにつけても、

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#05 大地の怒り9/10

裕福な家の人がこちらを見下しているようすを聞くにつけても、心はそのたびに揺れ動いて、一時も安らかでない。

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#05 大地の怒り10/10

もし狭い土地に住んでいれば、近くで火事が起きた時、その災害を逃れることができない。

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#05 大地の怒り

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#06 日野山の庵
#06 日野山の庵1/10

財産があれば恐れが多く、貧しければ嘆きが切実だ。人を頼れば自分は他人の召使いのようになり、人を世話すれば心は恩愛に縛られる。世間に従えば身が苦しい。従わなければ狂人のように見られる。どこに住み、どんなことをすれば、しばしでもこの身を落ち着かせ、少しでも心を安らげることができるだろうか。私の身は、父方の祖母の家を受け継いで、長くあそこに住んでいた。

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#06 日野山の庵2/10

その後、縁が途絶え、身も衰えて、忍ぶことが多くなったので、ついに住み続けることができなくなって、三十余歳にして、改めて自分の意志で一つの庵を結んだ。

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#06 日野山の庵3/10

これを以前の住まいに比べると、十分の一にすぎない。ただ寝起きする建物だけを構えて、きちんとした家を建てるまでには至らなかった。

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#06 日野山の庵4/10

かろうじて築地を設けたけれど、門を建てるゆとりはない。竹を柱にして車寄せとした。

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#06 日野山の庵5/10

場所は河原に近いので、水害の恐れも大きく、白波の心配も絶えない。このように辛い世を我慢して過ごしながら、心を悩ませること三十余年。その間の折々の不運で、自然と短い運命を悟った。そこで五十の春を迎えて、家を出て世を背いた。もとより妻子がいないので、捨てがたい縁者もいない。身に官職も俸禄もなく、何に執着を残そうか。むなしく大原山の雲に伏して、また幾たびかの春秋を過ごした。

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#06 日野山の庵6/10

ここに六十の露が消えようとする頃に至って、さらに晩年の住まいを結ぶことがあった。たとえるなら旅人が一夜の宿を作り、老いた蚕が繭を営むようなものだ。

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#06 日野山の庵7/10

これを中年の住まいに比べると、百分の一にも満たない。あれこれ言ううちに、年齢は年々衰え、住まいは折々に狭くなった。

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#06 日野山の庵8/10

その家のありさまは世間並みでもなく、広さはわずかに一丈四方、高さは七尺以内である。

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#06 日野山の庵9/10

土台を組み、簡単な屋根を葺いて、継ぎ目ごとに掛け金をかけた。もし気に入らないことがあれば、簡単に別の場所に移せるようにするためだ。その建て直しの時、どれほどの手間がかかるだろう。荷物を積んでもわずか車二台分である。車を引く費用のほかは、まったく他の費用はかからない。

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#06 日野山の庵10/10

今、日野山の奥に隠れ住んでからは、南に簡単な庇を差し出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作った。内部には西の壁に沿って阿弥陀の画像を安置し、落日の光を受けて眉間の光とした。あの帳の扉に、普賢と不動の像を掛けた。北の障子の上に小さな棚を設けて、黒い皮の籠を三、四個置いた。すなわち和歌、管弦、往生要集のような抄物を入れてある。そばに琴と琵琶をそれぞれ一張立てかけてある。

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#06 日野山の庵

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#07 庵の四季
#07 庵の四季1/10

いわゆる折り琴と継ぎ琵琶がこれだ。東に沿って蕨のほどろを敷き、つかなみを敷いて夜の寝床とした。東の壁に窓を開けて、ここに文机を出した。枕元に火鉢がある。これは柴を折ってくべるためのものだ。庵の北に少しの地を占め、粗末な垣根を囲って庭園とした。そこにさまざまな薬草を植えた。仮の庵のありさまはこのようなものだ。その場所の様子を言えば、南に筧があり、岩を積んで水をためてある。

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#07 庵の四季2/10

林が軒に近いので、焚き木を拾うのに不自由しない。名を外山という。まさきのかずらが足跡を覆い隠している。谷は木が茂っているが、西は開けている。観想の助けとならないこともない。

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#07 庵の四季3/10

春は藤の花を見る。紫の雲のように西の方に香る。夏はほととぎすの声を聞く。鳴くたびに死出の山路の道案内を約束する。秋はひぐらしの声が耳に満ちる。この儚い世を悲しんでいるかのように聞こえる。

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#07 庵の四季4/10

冬は雪を愛でる。

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#07 庵の四季5/10

もし念仏が気乗りせず、読経に身が入らない時は、自ら休み、自ら怠けても、さまたげる人もなく、恥ずべき相手もいない。特に無言の行をしているわけではないが、一人でいれば口の過ちを犯すこともない。必ずしも戒律を守ろうとするのではないが、破戒の原因となるものがないのだから、何によって破ろうか。

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#07 庵の四季6/10

もし白波に身を寄せる朝には、岡の屋に行き交う船を眺めて、満沙弥の風情を真似る。もし桂の風が葉を鳴らす夕べには、潯陽の江を思いやって、源経信の流れを慕う。もし興が乗れば、しばしば松の響きに秋風の楽を重ね、水の音に流泉の曲を奏でる。技は拙いけれども、人の耳を楽しませようというのではない。一人で弾き、一人で詠じて、自ら心を養うだけのことだ。

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#07 庵の四季7/10

また麓に、一つの柴の庵がある。すなわちこの山の番人が住んでいるところだ。そこに小さな子供がいて、時々来て訪ねてくれる。もし退屈な時は、この子を友として遊び歩く。あの子は十六歳、私は六十で、その年齢の差は大きいが、心を慰めることは同じだ。あるいは茅花を抜き、岩梨を採る。またぬかごを摘み、芹を摘む。あるいは麓の田んぼに行って、落ち穂を拾って穂組みを作る。

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#07 庵の四季8/10

もし天気がうららかなら、峰によじ登って、はるかに故郷の空を望む。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。名勝地には持ち主がいないので、心を慰めるのに差し支えない。歩くのが苦にならず、志が遠くまで届く時は、ここから峰伝いに炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間寺に参り、あるいは石山寺を拝む。もしくは粟津の原を分けて、蝉丸の翁の跡を訪ね、田上川を渡って猿丸大夫の墓を尋ねる。

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#07 庵の四季9/10

帰りがけには、折々に応じて桜を手折り、紅葉を求め、蕨を折り、木の実を拾って、仏に供えたり家の土産にしたりする。もし夜が静かなら、窓の月に亡き人を偲び、猿の声に袖を濡らす。草むらの蛍は、遠くの真木の島の篝火と見まがい、明け方の雨は、おのずと木の葉を吹く嵐に似ている。山鳥がほろほろと鳴くのを聞いても、父か母かと疑い、峰の鹿が近くに馴れてきたことにつけても、世間から遠ざかっていることを知る。

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#07 庵の四季10/10

あるいは埋み火をかき起こして、老いの目覚めの友とする。恐ろしい山ではないが、ふくろうの声をしみじみと聞くにつけても、山中の風情は折々に尽きることがない。ましてや深く考え、深く知る人にとっては、これだけに限るものではないだろう。おおよそこの場所に住み始めた時は、ほんの一時のつもりだったが、今やすでに五年を経た。仮の庵もだんだん古びて、軒には朽ち葉が深く積もり、土台には苔がむしている。

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#07 庵の四季

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#08 閑居の心
#08 閑居の心1/10

ふとした折に都の様子を聞くと、この山に籠もって以来、高貴な方がお亡くなりになったことも多く聞く。まして名もない人々については、すべてを知ることなどできない。たびたびの火事で焼失した家も、また数えきれないだろう。ただこの仮の庵だけが、のどかで恐れがない。狭いといっても、夜に寝る床があり、昼に座る場所がある。一身を置くのに不足はない。ヤドカリは小さな貝を好む。これはよく身の程を知っているからだ。

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#08 閑居の心2/10

ミサゴは荒磯にいる。つまり人を恐れるからだ。私もまた同じだ。身を知り世を知っていれば、何も望まず人と交わらず、ただ静かなることを望みとし、憂いのないことを楽しみとする。

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#08 閑居の心3/10

そもそも世の人が住まいを作る習わしとして、必ずしも自分のためにするのではない。あるいは妻子眷属のために建て、あるいは親しい友人のために建てる。

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#08 閑居の心4/10

あるいは主君や師匠、さらには財宝、馬や牛のためにさえ建てる。

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#08 閑居の心5/10

なぜかといえば、今の世の習い、この身のありさまでは、連れ添う人もなく、頼りにする召使いもいない。たとえ広く建てたとしても、誰を泊め、誰を住まわせよう。そもそも人の友というものは、裕福な者を尊び、親しい者を優先する。必ずしも情のある者や正直な者を愛するわけではない。ただ琴や笛、花や月を友とするのが一番だ。人の召使いというものは、賞罰の厳しさを気にし、恩の厚いことを重んじる。

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#08 閑居の心6/10

世話をしてくれるか慈しんでくれるかではなく、安楽で暇なことを願うのでもない。ただ自分自身を召使いにするのが一番だ。もしすべきことがあれば、自分で自分の体を使う。

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#08 閑居の心7/10

だるくないわけではないが、人を従え人に気を遣うよりは楽だ。もし歩くべきことがあれば、自分で歩く。苦しいけれども、馬の鞍や牛車のことに心を悩ますよりはましだ。

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#08 閑居の心8/10

今、一身を分けて二つの用をなしている。

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#08 閑居の心9/10

心はまた体の苦しみを知っているから、苦しい時は休ませ、元気な時は使う。使うといってもたびたび酷使せず、だるいからといって心を乱すこともない。まして常に歩き、常に体を動かすことは、これこそ養生というべきだ。どうしていたずらに休んでいようか。人を苦しめ人を悩ますのはまた罪業である。どうして他人の力を借りるべきか。衣食の類もまた同じだ。藤の衣、麻の布団を、手に入るままに身を覆い隠す。

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#08 閑居の心10/10

野辺の茅花、峰の木の実で、わずかに命をつなぐばかりだ。人と交わらないから、姿を恥じる後悔もない。食べ物が乏しいから粗末だけれども、なお味をおいしく感じる。こうしたことはすべて、裕福な人に向かって言うのではない。ただ自分一身について、昔と今とを比べるだけのことだ。おおよそ世を逃れ、身を捨ててからは、恨みもなく恐れもない。

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#08 閑居の心

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#09 心の問い
#09 心の問い1/5

命は天の運に任せて、惜しまず厭わない。身を浮雲にたとえて、頼みにせず未練も残さない。一生の楽しみは、うたた寝の枕の上に極まり、生涯の望みは、折々の美しい景色に尽きる。そもそもこの世は、ただ心一つによるものだ。心がもし安らかでないなら、牛馬や七つの宝もつまらなく、宮殿や楼閣も望みとはならない。今、寂しい住まい、一間の庵を、自ら愛している。

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#09 心の問い2/5

たまたま都に出た時は、乞食となった身を恥ずかしく思うけれども、帰ってここにいる時は、世俗の塵にまみれている他の人々をかわいそうに思う。もし人がこの言葉を疑うなら、魚と鳥の暮らしぶりを見よ。魚は水に飽きない。魚でなければその心はわかるまい。鳥は林を願う。鳥でなければその心はわからない。閑居の味わいもまた同じだ。住んでみなければ誰がわかろう。こうして一生の月影も傾いて、残りの命は山の端に近い。

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#09 心の問い3/5

まもなく三途の闇に向かおうとする時、何の業を嘆こうとするのか。仏が人を教え導く趣旨は、何事にも執着するなということだ。今、草庵を愛するのも罪であり、閑寂に執着するのもまた悟りの妨げだろう。どうして用のない楽しみを述べて、むなしく貴重な時を過ごそうか。静かな暁にこの道理を考え続けて、自ら心に問うて言った。世を逃れて山林に交わったのは、心を修めて仏道を行おうとするためだ。

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#09 心の問い4/5

それなのにお前の姿は聖に似て、心は濁りに染まっている。住まいは維摩居士の跡を汚したとはいえ、修行の成果は周利槃特の行にさえ及ばない。これは貧賤の報いが自らを苦しめているのか、それとも迷いの心が至って狂わせているのか。その時、心はまったく答えることがなかった。ただ口元に舌を借りて、不請の念仏を二、三遍唱えて終わった。時に建暦二年、弥生の晦日のころ、僧蓮胤が外山の庵でこれを記す。

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#09 心の問い5/5

「月の光は沈む山の端もつらいけれど、永遠に絶えない光を見る方法がほしいものだ」

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