函館なる郁雨宮崎大四郎君同国の友文学士花明金田一京助君この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。著者
🍿 Snack Point
東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて蟹とたはむる。啄木の魂が詰まった歌集。
明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。集中五章、感興の来由するところ相邇きをたづねて仮にわかてるのみ。 「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり。我を愛する歌東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず大海にむかひて一人七八日泣きなむとすと家を出でにきいたく錆びしピストル出でぬ砂山の
砂を指もて掘りてありしにひと夜さに嵐来りて築きたるこの砂山は何の墓ぞも砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日砂山の裾によこたはる流木にあたり見まはし物言ひてみるいのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つしっとりとなみだを吸へる砂の玉なみだは重きものにしあるかな大という字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰り来れり目さまして猶起き出でぬ児の癖はかなしき癖ぞ母よ咎むな
ひと塊の土に涎し泣く母の肖顔つくりぬかなしくもあるか燈影なき室に我あり父と母壁のなかより杖つきて出づたはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず飄然と家を出でては飄然と帰りし癖よ友はわらへどふるさとの父の咳する度に斯く咳の出づるや病めばはかなしわが泣くを少女等きかば病犬の月に吠ゆるに似たりといふらむ何処やらむかすかに虫のなくごときこころ細さを今日もおぼゆるいと暗き
穴に心を吸はれゆくごとく思ひてつかれて眠るこころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふこみ合へる電車の隅にちぢこまるゆふべゆふべの我のいとしさ浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心愛犬の耳斬りてみぬあはれこれも物に倦みたる心にかあらむ鏡とり能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ泣き飽きし時なみだなみだ不思議なるかなそれをもて洗へば心戯けたくなれり呆れたる母の言葉に気がつけば
茶碗を箸もて敲きてありき草に臥ておもふことなしわが額に糞して鳥は空に遊べりわが髭の下向く癖がいきどほろしこのごろ憎き男に似たれば森の奥より銃声聞ゆあはれあはれ自ら死ぬる音のよろしさ大木の幹に耳あて小半日堅き皮をばむしりてありき 「さばかりの事に死ぬるや」 「さばかりの事に生くるや」止せ止せ問答まれにあるこの平なる心には時計の鳴るもおもしろく聴くふと深き怖れを覚えぢっとしてやがて静かに臍をまさぐる
高山のいただきに登りなにがなしに帽子をふりて下り来しかな何処やらに沢山の人があらそひて鬮引くごとしわれも引きたし怒る時かならずひとつ鉢を割り九百九十九割りて死なましいつも逢ふ電車の中の小男の稜ある眼このごろ気になる鏡屋の前に来てふと驚きぬ見すぼらしげに歩むものかも何となく汽車に乗りたく思ひしのみ汽車を下りしにゆくところなし空家に入り煙草のみたることありきあはれただ一人居たきばかりに何がなしに
さびしくなれば出てあるく男となりて三月にもなれりやはらかに積れる雪に熱てる頬を埋むるごとき恋してみたしかなしきは飽くなき利己の一念を持てあましたる男にありけり手も足も室いっぱいに投げ出してやがて静かに起きかへるかな百年の長き眠りの覚めしごと※呻してまし思ふことなしに腕拱みてこのごろ思ふ大いなる敵目の前に躍り出でよと手が白く且つ大なりき非凡なる人といはるる男に会ひしにこころよく
人を讃めてみたくなりにけり利己の心に倦めるさびしさ雨降ればわが家の人誰も誰も沈める顔す雨霽れよかし高きより飛びおりるごとき心もてこの一生を終るすべなきかこの日頃ひそかに胸にやどりたる悔ありわれを笑はしめざりへつらひを聞けば腹立つわがこころあまりに我を知るがかなしき知らぬ家たたき起して遁げ来るがおもしろかりし昔の恋しさ非凡なる人のごとくにふるまへる後のさびしさは何にかたぐへむ大いなる彼の身体が
憎かりきその前にゆきて物を言ふ時実務には役に立たざるうた人と我を見る人に金借りにけり遠くより笛の音きこゆうなだれてある故やらむなみだ流るるそれもよしこれもよしとてある人のその気がるさを欲しくなりたり死ぬことを持薬をのむがごとくにも我はおもへり心いためば路傍に犬ながながと※呻しぬわれも真似しぬうらやましさに真剣になりて竹もて犬を撃つ小児の顔をよしと思へりダイナモの重き唸りのここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし剽軽の性なりし友の死顔の青き疲れがいまも目にあり気の変る人に仕へてつくづくとわが世がいやになりにけるかな龍のごとくむなしき空に躍り出でて消えゆく煙見れば飽かなくこころよき疲れなるかな息もつかず仕事をしたる後のこの疲れ空寝入生※呻などなぜするや思ふこと人にさとらせぬため箸止めてふっと思ひぬやうやくに世のならはしに慣れにけるかな朝はやく婚期を過ぎし妹の
恋文めける文を読めりけりしっとりと水を吸ひたる海綿の重さに似たる心地おぼゆる死ね死ねと己を怒りもだしたる心の底の暗きむなしさけものめく顔あり口をあけたてすとのみ見てゐぬ人の語るを親と子とはなればなれの心もて静かに対ふ気まづきや何ぞかの船のかの航海の船客の一人にてありき死にかねたるは目の前の菓子皿などをかりかりと噛みてみたくなりぬもどかしきかなよく笑ふ若き男の死にたらばすこしはこの世さびしくもなれ
何がなしに息きれるまで駆け出してみたくなりたり草原などをあたらしき背広など着て旅をせむしかく今年も思ひ過ぎたることさらに燈火を消してまぢまぢと思ひてゐしはわけもなきこと浅草の凌雲閣のいただきに腕組みし日の長き日記かな尋常のおどけならむやナイフ持ち死ぬまねをするその顔その顔こそこその話がやがて高くなりピストル鳴りて人生終る時ありて子供のやうにたはむれす恋ある人のなさぬ業かなとかくして家を出づれば
日光のあたたかさあり息ふかく吸ふつかれたる牛のよだれはたらたらと千万年も尽きざるごとし路傍の切石の上に腕拱みて空を見上ぐる男ありたり何やらむ穏かならぬ目付して鶴嘴を打つ群を見てゐる心より今日は逃げ去れり病ある獣のごとき不平逃げ去れりおほどかの心来れりあるくにも腹に力のたまるがごとしただひとり泣かまほしさに来て寝たる宿屋の夜具のこころよさかな友よさは乞食の卑しさ厭ふなかれ餓ゑたる時は我も爾りき
新しきインクのにほひ栓抜けば餓ゑたる腹に沁むがかなしもかなしきは喉のかわきをこらへつつ夜寒の夜具にちぢこまる時一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと我に似し友の二人よ一人は死に一人は牢を出でて今病むあまりある才を抱きて妻のためおもひわづらふ友をかなしむ打明けて語りて何か損をせしごとく思ひて友とわかれぬどんよりとくもれる空を見てゐしに人を殺したくなりにけるかな人並の才に過ぎざるわが友の
深き不平もあはれなるかな誰が見てもとりどころなき男来て威張りて帰りぬかなしくもあるかはたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る何もかも行末の事みゆるごときこのかなしみは拭ひあへずもとある日に酒をのみたくてならぬごとく今日われ切に金を欲りせり水晶の玉をよろこびもてあそぶわがこの心何の心ぞ事もなく且つこころよく肥えてゆくわがこのごろの物足らぬかな大いなる水晶の玉をひとつ欲し
それにむかひて物を思はむうぬ惚るる友に合槌うちてゐぬ施与をするごとき心にある朝のかなしき夢のさめぎはに鼻に入り来し味噌を煮る香よこつこつと空地に石をきざむ音耳につき来ぬ家に入るまで何がなしに頭のなかに崖ありて日毎に土のくづるるごとし遠方に電話の鈴の鳴るごとく今日も耳鳴るかなしき日かな垢じみし袷の襟よかなしくもふるさとの胡桃焼くるにほひす死にたくてならぬ時ありはばかりに人目を避けて怖き顔する
一隊の兵を見送りてかなしかり何ぞ彼等のうれひ無げなる邦人の顔たへがたく卑しげに目にうつる日なり家にこもらむこの次の休日に一日寝てみむと思ひすごしぬ三年このかた或る時のわれのこころを焼きたての麺麭に似たりと思ひけるかなたんたらたらたんたらたらと雨滴が痛むあたまにひびくかなしさある日のこと室の障子をはりかへぬその日はそれにて心なごみきかうしては居られずと思ひ立ちにしが戸外に馬の嘶きしまで
気ぬけして廊下に立ちぬあららかに扉を推せしにすぐ開きしかばぢっとして黒はた赤のインク吸ひ堅くかわける海綿を見る誰が見てもわれをなつかしくなるごとき長き手紙を書きたき夕うすみどり飲めば身体が水のごと透きとほるてふ薬はなきかいつも睨むラムプに飽きて三日ばかり蝋燭の火にしたしめるかな人間のつかはぬ言葉ひょっとしてわれのみ知れるごとく思ふ日あたらしき心もとめて名も知らぬ街など今日もさまよひて来ぬ
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ何すれば此処に我ありや時にかく打驚きて室を眺むる人ありて電車のなかに唾を吐くそれにも心いたまむとしき夜明けまであそびてくらす場所が欲し家をおもへばこころ冷たし人みなが家を持つてふかなしみよ墓に入るごとくかへりて眠る何かひとつ不思議を示し人みなのおどろくひまに消えむと思ふ人といふ人のこころに一人づつ囚人がゐてうめくかなしさ叱られて
わっと泣き出す子供心その心にもなりてみたきかな盗むてふことさへ悪しと思ひえぬ心はかなしかくれ家もなし放たれし女のごときかなしみをよわき男の感ずる日なり庭石にはたと時計をなげうてる昔のわれの怒りいとしも顔あかめ怒りしことがあくる日はさほどにもなきをさびしがるかないらだてる心よ汝はかなしかりいざいざすこし※呻などせむ女ありわがいひつけに背かじと心を砕く見ればかなしもふがひなきわが日の本の女等を
秋雨の夜にののしりしかな男とうまれ男と交り負けてをりかるがゆゑにや秋が身に沁むわが抱く思想はすべて金なきに因するごとし秋の風吹くくだらない小説を書きてよろこべる男憐れなり初秋の風秋の風今日よりは彼のふやけたる男に口を利かじと思ふはても見えぬ真直の街をあゆむごときこころを今日は持ちえたるかな何事も思ふことなくいそがしく暮らせし一日を忘れじと思ふ何事も金金とわらひすこし経てまたも俄かに不平つのり来
誰そ我にピストルにても撃てよかし伊藤のごとく死にて見せなむやとばかり桂首相に手とられし夢みて覚めぬ秋の夜の二時煙一病のごと思郷のこころ湧く日なり目にあをぞらの煙かなしも己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし青空に消えゆく煙さびしくも消えゆく煙われにし似るかかの旅の汽車の車掌がゆくりなくも我が中学の友なりしかなほとばしる喞筒の水の心地よさよしばしは若きこころもて見る師も友も知らで責めにき
謎に似るわが学業のおこたりの因教室の窓より遁げてただ一人かの城址に寝に行きしかな不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心かなしみといはばいふべき物の味我の嘗めしはあまりに早かり晴れし空仰げばいつも口笛を吹きたくなりて吹きてあそびき夜寝ても口笛吹きぬ口笛は十五の我の歌にしありけりよく叱る師ありき髯の似たるより山羊と名づけて口真似もしきわれと共に小鳥に石を投げて遊ぶ後備大尉の子もありしかな
城址の石に腰掛け禁制の木の実をひとり味ひしことその後に我を捨てし友もあの頃は共に書読みともに遊びき学校の図書庫の裏の秋の草黄なる花咲きし今も名知らず花散れば先づ人さきに白の服着て家出づる我にてありしか今は亡き姉の恋人のおとうととなかよくせしをかなしと思ふ夏休み果ててそのままかへり来ぬ若き英語の教師もありきストライキ思ひ出でても今は早や吾が血躍らずひそかに淋し盛岡の中学校の露台の
欄干に最一度我を倚らしめ神有りと言ひ張る友を説きふせしかの路傍の栗の樹の下西風に内丸大路の桜の葉かさこそ散るを踏みてあそびきそのかみの愛読の書よ大方は今は流行らずなりにけるかな石ひとつ坂をくだるがごとくにも我けふの日に到り着きたる愁ひある少年の眼に羨みき小鳥の飛ぶを飛びてうたふを解剖せし蚯蚓のいのちもかなしかりかの校庭の木柵の下かぎりなき知識の慾に燃ゆる眼を姉は傷みき人恋ふるかと
蘇峯の書を我に薦めし友早く校を退きぬまづしさのためおどけたる手つきをかしと我のみはいつも笑ひき博学の師を自が才に身をあやまちし人のことかたりきかせし師もありしかなそのかみの学校一のなまけ者今は真面目にはたらきて居り田舎めく旅の姿を三日ばかり都に曝しかへる友かな茨島の松の並木の街道をわれと行きし少女才をたのみき眼を病みて黒き眼鏡をかけし頃その頃よ一人泣くをおぼえしわがこころけふもひそかに泣かむとす
友みな己が道をあゆめり先んじて恋のあまさとかなしさを知りし我なり先んじて老ゆ興来れば友なみだ垂れ手を揮りて酔漢のごとくなりて語りき人ごみの中をわけ来るわが友のむかしながらの太き杖かな見よげなる年賀の文を書く人とおもひ過ぎにき三年ばかりは夢さめてふっと悲しむわが眠り昔のごとく安からぬかなそのむかし秀才の名の高かりし友牢にあり秋のかぜ吹く近眼にておどけし歌をよみ出でし茂雄の恋もかなしかりしか
わが妻のむかしの願ひ音楽のことにかかりき今はうたはず友はみな或日四方に散り行きぬその後八年名挙げしもなしわが恋をはじめて友にうち明けし夜のことなど思ひ出づる日糸切れし紙鳶のごとくに若き日の心かろくもとびさりしかな二ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆくやまひある獣のごときわがこころふるさとのこと聞けばおとなしふと思ふふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを三年聴かざり亡くなれる師がその昔
たまひたる地理の本など取りいでて見るその昔小学校の柾屋根に我が投げし鞠いかにかなりけむふるさとのかの路傍のすて石よ今年も草に埋もれしらむわかれをれば妹いとしも赤き緒の下駄など欲しとわめく子なりし二日前に山の絵見しが今朝になりてにはかに恋しふるさとの山飴売のチャルメラ聴けばうしなひしをさなき心ひろへるごとしこのごろは母も時時ふるさとのことを言ひ出づ秋に入れるなりそれとなく郷里のことなど語り出でて
秋の夜に焼く餅のにほひかなかにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川田も畑も売りて酒のみほろびゆくふるさと人に心寄する日あはれかの我の教へし子等もまたやがてふるさとを棄てて出づるらむふるさとを出で来し子等の相会ひてよろこぶにまさるかなしみはなし石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なしやはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくにふるさとの
村医の妻のつつましき櫛巻などもなつかしきかなかの村の登記所に来て肺病みて間もなく死にし男もありき小学の首席を我と争ひし友のいとなむ木賃宿かな千代治等も長じて恋し子を挙げぬわが旅にしてなせしごとくにある年の盆の祭に衣貸さむ踊れと言ひし女を思ふうすのろの兄と不具の父もてる三太はかなし夜も書読む我と共に栗毛の仔馬走らせし母の無き子の盗癖かな大形の被布の模様の赤き花今も目に見ゆ六歳の日の恋
その名さへ忘られし頃飄然とふるさとに来て咳せし男意地悪の大工の子などもかなしかり戦に出でしが生きてかへらず肺を病む極道地主の総領のよめとりの日の春の雷かな宗次郎におかねが泣きて口説き居り大根の花白きゆふぐれ小心の役場の書記の気の狂れし噂に立てるふるさとの秋わが従兄野山の猟に飽きし後酒のみ家売り病みて死にしかな我ゆきて手をとれば泣きてしづまりき酔ひて荒れしそのかみの友酒のめば
刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき村を遂はれき年ごとに肺病やみの殖えてゆく村に迎へし若き医者かなほたる狩川にゆかむといふ我を山路にさそふ人にてありき馬鈴薯のうす紫の花に降る雨を思へり都の雨にあはれ我がノスタルジヤは金のごと心に照れり清くしみらに友として遊ぶものなき性悪の巡査の子等もあはれなりけり閑古鳥鳴く日となれば起るてふ友のやまひのいかになりけむわが思ふことおほかたは正しかり
ふるさとのたより着ける朝は今日聞けばかの幸うすきやもめ人きたなき恋に身を入るるてふわがためになやめる魂をしづめよと讃美歌うたふ人ありしかなあはれかの男のごときたましひよ今は何処に何を思ふやわが庭の白き躑躅を薄月の夜に折りゆきしことな忘れそわが村に初めてイエス・クリストの道を説きたる若き女かな霧ふかき好摩の原の停車場の朝の虫こそすずろなりけれ汽車の窓はるかに北にふるさとの山見え来れば襟を正すも
ふるさとの土をわが踏めば何がなしに足軽くなり心重れりふるさとに入りて先づ心傷むかな道広くなり橋もあたらし見もしらぬ女教師がそのかみのわが学舎の窓に立てるかなかの家のかの窓にこそ春の夜を秀子とともに蛙聴きけれそのかみの神童の名のかなしさよふるさとに来て泣くはそのことふるさとの停車場路の川ばたの胡桃の下に小石拾へりふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな秋風のこころよさに
ふるさとの空遠みかも高き屋にひとりのぼりて愁ひて下る皎として玉をあざむく小人も秋来といふに物を思へりかなしきは秋風ぞかし稀にのみ湧きし涙の繁に流るる青に透くかなしみの玉に枕して松のひびきを夜もすがら聴く神寂びし七山の杉火のごとく染めて日入りぬ静かなるかなそを読めば愁ひ知るといふ書焚けるいにしへ人の心よろしもものなべてうらはかなげに暮れゆきぬとりあつめたる悲しみの日は水潦
暮れゆく空とくれなゐの紐を浮べぬ秋雨の後秋立つは水にかも似る洗はれて思ひことごと新しくなる愁ひ来て丘にのぼれば名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の実秋の辻四すぢの路の三すぢへと吹きゆく風のあと見えずかも秋の声まづいち早く耳に入るかかる性持つかなしむべかり目になれし山にはあれど秋来れば神や住まむとかしこみて見るわが為さむこと世に尽きて長き日をかくしもあはれ物を思ふかさらさらと雨落ち来り庭の面の濡れゆくを見て
涙わすれぬふるさとの寺の御廊に踏みにける小櫛の蝶を夢にみしかなこころみにいとけなき日の我となり物言ひてみむ人あれと思ふはたはたと黍の葉鳴れるふるさとの軒端なつかし秋風吹けば摩れあへる肩のひまよりはつかにも見きといふさへ日記に残れり風流男は今も昔も泡雪の玉手さし捲く夜にし老ゆらしかりそめに忘れても見まし石だたみ春生ふる草に埋るるがごとその昔揺籃に寝てあまたたび夢にみし人か切になつかし神無月岩手の山の
初雪の眉にせまりし朝を思ひぬひでり雨さらさら落ちて前栽の萩のすこしく乱れたるかな秋の空廓寥として影もなしあまりにさびし烏など飛べ雨後の月ほどよく濡れし屋根瓦のそのところどころ光るかなしさわれ饑ゑてある日に細き尾を掉りて饑ゑて我を見る犬の面よしいつしかに泣くといふこと忘れたる我泣かしむる人のあらじか汪然としてああ酒のかなしみぞ我に来れる立ちて舞ひなむ※鳴くそのかたはらの石に踞し
泣き笑ひしてひとり物言ふ力なく病みし頃より口すこし開きて眠るが癖となりにき人ひとり得るに過ぎざる事をもて大願とせし若きあやまち物怨ずるそのやはらかき上目をば愛づとことさらつれなくせむやかくばかり熱き涙は初恋の日にもありきと泣く日またなし長く長く忘れし友に会ふごときよろこびをもて水の音聴く秋の夜の鋼鉄の色の大空に火を噴く山もあれなど思ふ岩手山秋はふもとの三方の野に満つる虫を何と聴くらむ
父のごと秋はいかめし母のごと秋はなつかし家持たぬ児に秋来れば恋ふる心のいとまなさよ夜もい寝がてに雁多く聴く長月も半ばになりぬいつまでかかくも幼く打出でずあらむ思ふてふこと言はぬ人のおくり来し忘れな草もいちじろかりし秋の雨に逆反りやすき弓のごとこのごろ君のしたしまぬかな松の風夜昼ひびきぬ人訪はぬ山の祠の石馬の耳にほのかなる朽木の香りそがなかの蕈の香りに秋やや深し時雨降るごとき音して木伝ひぬ
人によく似し森の猿ども森の奥遠きひびきす木のうろに臼ひく侏儒の国にかも来し世のはじめまづ森ありて半神の人そが中に火や守りけむはてもなく砂うちつづく戈壁の野に住みたまふ神は秋の神かもあめつちにわが悲しみと月光とあまねき秋の夜となれりけりうらがなしき夜の物の音洩れ来るを拾ふがごとくさまよひ行きぬ旅の子のふるさとに来て眠るがにげに静かにも冬の来しかな忘れがたき人人一潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ
今年も咲けるやたのみつる年の若さを数へみて指を見つめて旅がいやになりき三度ほど汽車の窓よりながめたる町の名などもしたしかりけり函館の床屋の弟子をおもひ出でぬ耳剃らせるがこころよかりしわがあとを追ひ来て知れる人もなき辺土に住みし母と妻かな船に酔ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば目を閉ぢて傷心の句を誦してゐし友の手紙のおどけ悲しもをさなき時橋の欄干に糞塗りし話も友はかなしみてしき
おそらくは生涯妻をむかへじとわらひし友よ今もめとらずあはれかの眼鏡の縁をさびしげに光らせてゐし女教師よ友われに飯を与へきその友に背きし我の性のかなしさ函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花ふるさとの麦のかをりを懐かしむ女の眉にこころひかれきあたらしき洋書の紙の香をかぎて一途に金を欲しと思ひしがしらなみの寄せて騒げる函館の大森浜に思ひしことども朝な朝な支那の俗歌をうたひ出づる
まくら時計を愛でしかなしみ漂泊の愁ひを叙して成らざりし草稿の字の読みがたさかないくたびか死なむとしては死なざりしわが来しかたのをかしく悲し函館の臥牛の山の半腹の碑の漢詩もなかば忘れぬむやむやと口の中にてたふとげの事を呟く乞食もありきとるに足らぬ男と思へと言ふごとく山に入りにき神のごとき友巻煙草口にくはへて浪あらき磯の夜霧に立ちし女よ演習のひまにわざわざ汽車に乗りて訪ひ来し友とのめる酒かな
大川の水の面を見るごとに郁雨よ君のなやみを思ふ智慧とその深き慈悲とをもちあぐみ為すこともなく友は遊べりこころざし得ぬ人人のあつまりて酒のむ場所が我が家なりしかなかなしめば高く笑ひき酒をもて悶を解すといふ年上の友若くして数人の父となりし友子なきがごとく酔へばうたひきさりげなき高き笑ひが酒とともに我が腸に沁みにけらしな※呻噛み夜汽車の窓に別れたる別れが今は物足らぬかな雨に濡れし夜汽車の窓に映りたる
山間の町のともしびの色雨つよく降る夜の汽車のたえまなく雫流るる窓硝子かな真夜中の倶知安駅に下りゆきし女の鬢の古き痍あと札幌にかの秋われの持てゆきししかして今も持てるかなしみアカシヤの街※にポプラに秋の風吹くがかなしと日記に残れりしんとして幅広き街の秋の夜の玉蜀黍の焼くるにほひよわが宿の姉と妹のいさかひに初夜過ぎゆきし札幌の雨石狩の美国といへる停車場の柵に乾してありし赤き布片かなかなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の声の荒さよ泣くがごと首ふるはせて手の相を見せよといひし易者もありきいささかの銭借りてゆきしわが友の後姿の肩の雪かな世わたりの拙きことをひそかにも誇りとしたる我にやはあらぬ汝が痩せしからだはすべて謀叛気のかたまりなりといはれてしことかの年のかの新聞の初雪の記事を書きしは我なりしかな椅子をもて我を撃たむと身構へしかの友の酔ひも今は醒めつらむ負けたるも我にてありき
あらそひの因も我なりしと今は思へり殴らむといふに殴れとつめよせし昔の我のいとほしきかな汝三度この咽喉に剣を擬したりと彼告別の辞に言へりけりあらそひていたく憎みて別れたる友をなつかしく思ふ日も来ぬあはれかの眉の秀でし少年よ弟と呼べばはつかに笑みしがわが妻に着物縫はせし友ありし冬早く来る植民地かな平手もて吹雪にぬれし顔を拭く友共産を主義とせりけり酒のめば鬼のごとくに青かりし大いなる顔よかなしき顔よ
樺太に入りて新しき宗教を創めむといふ友なりしかな治まれる世の事無さに飽きたりといひし頃こそかなしかりけれ共同の薬屋開き儲けむといふ友なりき詐欺せしといふあをじろき頬に涙を光らせて死をば語りき若き商人子を負ひて雪の吹き入る停車場にわれ見送りし妻の眉かな敵として憎みし友とやや長く手をば握りきわかれといふにゆるぎ出づる汽車の窓より人先に顔を引きしも負けざらむためみぞれ降る石狩の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かなわが去れる後の噂をおもひやる旅出はかなし死ににゆくごとわかれ来てふと瞬けばゆくりなくつめたきものの頬をつたへり忘れ来し煙草を思ふゆけどゆけど山なほ遠き雪の野の汽車うす紅く雪に流れて入日影曠野の汽車の窓を照せり腹すこし痛み出でしをしのびつつ長路の汽車にのむ煙草かな乗合の砲兵士官の剣の鞘がちゃりと鳴るに思ひやぶれき名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の宿屋安けし我が家のごと
伴なりしかの代議士の口あける青き寐顔をかなしと思ひき今夜こそ思ふ存分泣いてみむと泊りし宿屋の茶のぬるさかな水蒸気列車の窓に花のごと凍てしを染むるあかつきの色ごおと鳴る凩のあと乾きたる雪舞ひ立ちて林を包めり空知川雪に埋れて鳥も見えず岸辺の林に人ひとりゐき寂莫を敵とし友とし雪のなかに長き一生を送る人もありいたく汽車に疲れて猶もきれぎれに思ふは我のいとしさなりきうたふごと駅の名呼びし柔和なる
若き駅夫の眼をも忘れず雪のなか処処に屋根見えて煙突の煙うすくも空にまよへり遠くより笛ながながとひびかせて汽車今とある森林に入る何事も思ふことなく日一日汽車のひびきに心まかせぬさいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにきしらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かなこほりたるインクの罎を火に翳し涙ながれぬともしびの下顔とこゑそれのみ昔に変らざる友にも会ひき国の果にて
あはれかの国のはてにて酒のみきかなしみの滓を啜るごとくに酒のめば悲しみ一時に湧き来るを寐て夢みぬをうれしとはせし出しぬけの女の笑ひ身に沁みき厨に酒の凍る真夜中わが酔ひに心いためてうたはざる女ありしがいかになれるや小奴といひし女のやはらかき耳朶なども忘れがたかりよりそひて深夜の雪の中に立つ女の右手のあたたかさかな死にたくはないかと言へばこれ見よと咽喉の痍を見せし女かな芸事も顔もかれより優れたる
女あしざまに我を言へりとか舞へといへば立ちて舞ひにきおのづから悪酒の酔ひにたふるるまでも死ぬばかり我が酔ふをまちていろいろのかなしきことを囁きし人いかにせしと言へばあをじろき酔ひざめの面に強ひて笑みをつくりきかなしきはかの白玉のごとくなる腕に残せしキスの痕かな酔ひてわがうつむく時も水ほしと眼ひらく時も呼びし名なりけり火をしたふ虫のごとくにともしびの明るき家にかよひ慣れにき
きしきしと寒さに踏めば板軋むかへりの廊下の不意のくちづけその膝に枕しつつも我がこころ思ひしはみな我のことなりさらさらと氷の屑が波に鳴る磯の月夜のゆきかへりかな死にしとかこのごろ聞きぬ恋がたき才あまりある男なりしが十年まへに作りしといふ漢詩を酔へば唱へき旅に老いし友吸ふごとに鼻がぴたりと凍りつく寒き空気を吸ひたくなりぬ波もなき二月の湾に白塗の外国船が低く浮かべり三味線の絃のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき大雪の夜に神のごと遠く姿をあらはせる阿寒の山の雪のあけぼの郷里にゐて身投げせしことありといふ女の三味にうたへるゆふべ葡萄色の古き手帳にのこりたるかの会合の時と処かなよごれたる足袋穿く時の気味わるき思ひに似たる思出もありわが室に女泣きしを小説のなかの事かとおもひ出づる日浪淘沙ながくも声をふるはせてうたふがごとき旅なりしかな二いつなりけむ夢にふと聴きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり頬の寒き流離の旅の人として路問ふほどのこと言ひしのみさりげなく言ひし言葉はさりげなく君も聴きつらむそれだけのことひややかに清き大理石に春の日の静かに照るはかかる思ひならむ世の中の明るさのみを吸ふごとき黒き瞳の今も目にありかの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸にのこれど真白なるラムプの笠の瑕のごと流離の記憶消しがたきかな函館のかの焼跡を去りし夜のこころ残りを今も残しつ
人がいふ鬢のほつれのめでたさを物書く時の君に見たりし馬鈴薯の花咲く頃となれりけり君もこの花を好きたまふらむ山の子の山を思ふがごとくにもかなしき時は君を思へり忘れをればひょっとした事が思ひ出の種にまたなる忘れかねつも病むと聞き癒えしと聞きて四百里のこなたに我はうつつなかりし君に似し姿を街に見る時のこころ躍りをあはれと思へかの声を最一度聴かばすっきりと胸や霽れむと今朝も思へるいそがしき生活のなかの
時折のこの物おもひ誰のためぞもしみじみと物うち語る友もあれ君のことなど語り出でなむ死ぬまでに一度会はむと言ひやらば君もかすかにうなづくらむか時として君を思へば安かりし心にはかに騒ぐかなしさわかれ来て年を重ねて年ごとに恋しくなれる君にしあるかな石狩の都の外の君が家林檎の花の散りてやあらむ長き文三年のうちに三度来ぬ我の書きしは四度にかあらむ手套を脱ぐ時手套を脱ぐ手ふと休む何やらむ
こころかすめし思ひ出のありいつしかに情をいつはること知りぬ髭を立てしもその頃なりけむ朝の湯の湯槽のふちにうなじ載せゆるく息する物思ひかな夏来ればうがひ薬の病ある歯に沁む朝のうれしかりけりつくづくと手をながめつつおもひ出でぬキスが上手の女なりしがさびしきは色にしたしまぬ目のゆゑと赤き花など買はせけるかな新しき本を買ひ来て読む夜半のそのたのしさも長くわすれぬ旅七日かへり来ぬれば
わが窓の赤きインクの染みもなつかし古文書のなかに見いでしよごれたる吸取紙をなつかしむかな手にためし雪の融くるがここちよくわが寐飽きたる心には沁む薄れゆく障子の日影そを見つつこころいつしか暗くなりゆくひやひやと夜は薬の香のにほふ医者が住みたるあとの家かな窓硝子塵と雨とに曇りたる窓硝子にもかなしみはあり六年ほど日毎日毎にかぶりたる古き帽子も棄てられぬかなこころよく春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき庭の草かな赤煉瓦遠くつづける高塀のむらさきに見えて春の日ながし春の雪銀座の裏の三階の煉瓦造にやはらかに降るよごれたる煉瓦の壁に降りて融け降りては融くる春の雪かな目を病める若き女の倚りかかる窓にしめやかに春の雨降るあたらしき木のかをりなどただよへる新開町の春の静けさ春の街見よげに書ける女名の門札などを読みありくかなそことなく蜜柑の皮の焼くるごときにほひ残りて夕となりぬ
にぎはしき若き女の集会のこゑ聴き倦みてさびしくなりたり何処やらに若き女の死ぬごとき悩ましさあり春の霙降るコニャックの酔ひのあとなるやはらかきこのかなしみのすずろなるかな白き皿拭きては棚に重ねゐる酒場の隅のかなしき女乾きたる冬の大路の何処やらむ石炭酸のにほひひそめり赤赤と入日うつれる河ばたの酒場の窓の白き顔かな新しきサラドの皿の酢のかをりこころに沁みてかなしき夕空色の罎より山羊の乳をつぐ
手のふるひなどいとしかりけりすがた見の息のくもりに消されたる酔ひうるみの眸のかなしさひとしきり静かになれるゆふぐれの厨にのこるハムのにほひかなひややかに罎のならべる棚の前歯せせる女をかなしとも見きやや長きキスを交して別れ来し深夜の街の遠き火事かな病院の窓のゆふべのほの白き顔にありたる淡き見覚え何時なりしかかの大川の遊船に舞ひし女をおもひ出にけり用もなき文など長く書きさしてふと人こひし街に出てゆく
しめらへる煙草を吸へばおほよそのわが思ふことも軽くしめれりするどくも夏の来るを感じつつ雨後の小庭の土の香を嗅ぐすずしげに飾り立てたる硝子屋の前にながめし夏の夜の月君来るといふに夙く起き白シャツの袖のよごれを気にする日かなおちつかぬ我が弟のこのごろの眼のうるみなどかなしかりけりどこやらに杭打つ音し大桶をころがす音し雪ふりいでぬ人気なき夜の事務室にけたたましく電話の鈴の鳴りて止みたり目さまして
ややありて耳に入り来る真夜中すぎの話声かな見てをれば時計とまれり吸はるるごと心はまたもさびしさに行く朝朝のうがひの料の水薬の罎がつめたき秋となりにけり夷かに麦の青める丘の根の小径に赤き小櫛ひろへり裏山の杉生のなかに斑なる日影這ひ入る秋のひるすぎ港町とろろと鳴きて輪を描く鳶を圧せる潮ぐもりかな小春日の曇硝子にうつりたる鳥影を見てすずろに思ふひとならび泳げるごとき家家の高低の軒に冬の日の舞ふ
京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃のいそがしさかなよく怒る人にてありしわが父の日ごろ怒らず怒れと思ふあさ風が電車のなかに吹き入れし柳のひと葉手にとりて見るゆゑもなく海が見たくて海に来ぬこころ傷みてたへがたき日にたひらなる海につかれてそむけたる目をかきみだす赤き帯かな今日逢ひし町の女のどれもどれも恋にやぶれて帰るごとき日汽車の旅とある野中の停車場の夏草の香のなつかしかりき朝まだき
やっと間に合ひし初秋の旅出の汽車の堅き麺麭かなかの旅の夜汽車の窓におもひたる我がゆくすゑのかなしかりしかなふと見ればとある林の停車場の時計とまれり雨の夜の汽車わかれ来て燈火小暗き夜の汽車の窓に弄ぶ青き林檎よいつも来るこの酒肆のかなしさよゆふ日赤赤と酒に射し入る白き蓮沼に咲くごとくかなしみが酔ひのあひだにはっきりと浮く壁ごしに若き女の泣くをきく旅の宿屋の秋の蚊帳かな取りいでし去年の袷の
なつかしきにほひ身に沁む初秋の朝気にしたる左の膝の痛みなどいつか癒りて秋の風吹く売り売りて手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る夏の末かなゆゑもなく憎みし友といつしかに親しくなりて秋の暮れゆく赤紙の表紙手擦れし国禁の書を行李の底にさがす日売ることを差し止められし本の著者に路にて会へる秋の朝かな今日よりは我も酒など呷らむと思へる日より秋の風吹く大海のその片隅につらなれる島島の上に秋の風吹くうるみたる目と
目の下の黒子のみいつも目につく友の妻かないつ見ても毛糸の玉をころがして韈を編む女なりしが葡萄色の長椅子の上に眠りたる猫ほの白き秋のゆふぐれほそぼそと其処ら此処らに虫の鳴く昼の野に来て読む手紙かな夜おそく戸を繰りをれば白きもの庭を走れり犬にやあらむ夜の二時の窓の硝子をうす紅く染めて音なき火事の色かなあはれなる恋かなとひとり呟きて夜半の火桶に炭添へにけり真白なるラムプの笠に手をあてて
寒き夜にする物思ひかな水のごと身体をひたすかなしみに葱の香などのまじれる夕時ありて猫のまねなどして笑ふ三十路の友のひとり住みかな気弱なる斥候のごとくおそれつつ深夜の街を一人散歩す皮膚がみな耳にてありきしんとして眠れる街の重き靴音夜おそく停車場に入り立ち坐りやがて出でゆきぬ帽なき男気がつけばしっとりと夜霧下りて居りながくも街をさまよへるかな若しあらば煙草恵めと寄りて来るあとなし人と深夜に語る
曠野より帰るごとくに帰り来ぬ東京の夜をひとりあゆみて銀行の窓の下なる舗石の霜にこぼれし青インクかなちょんちょんととある小藪に頬白の遊ぶを眺む雪の野の路十月の朝の空気にあたらしく息吸ひそめし赤坊のあり十月の産病院のしめりたる長き廊下のゆきかへりかなむらさきの袖垂れて空を見上げゐる支那人ありき公園の午後孩児の手ざはりのごとき思ひあり公園に来てひとり歩めばひさしぶりに公園に来て友に会ひ
堅く手握り口疾に語る公園の木の間に小鳥あそべるをながめてしばし憩ひけるかな晴れし日の公園に来てあゆみつつわがこのごろの衰へを知る思出のかのキスかともおどろきぬプラタヌの葉の散りて触れしを公園の隅のベンチに二度ばかり見かけし男このごろ見えず公園のかなしみよ君の嫁ぎてよりすでに七月来しこともなし公園のとある木蔭の捨椅子に思ひあまりて身をば寄せたる忘られぬ顔なりしかな今日街に捕吏にひかれて笑める男は
マチ擦れば二尺ばかりの明るさの中をよぎれる白き蛾のあり目をとぢて口笛かすかに吹きてみぬ寐られぬ夜の窓にもたれてわが友は今日も母なき子を負ひてかの城址にさまよへるかな夜おそくつとめ先よりかへり来て今死にしてふ児を抱けるかな二三こゑいまはのきはに微かにも泣きしといふになみだ誘はる真白なる大根の根の肥ゆる頃うまれてやがて死にし児のありおそ秋の空気を三尺四方ばかり吸ひてわが児の死にゆきしかな死にし児の
胸に注射の針を刺す医者の手もとにあつまる心底知れぬ謎に対ひてあるごとし死児のひたひにまたも手をやるかなしみのつよくいたらぬさびしさよわが児のからだ冷えてゆけどもかなしくも夜明くるまでは残りゐぬ息きれし児の肌のぬくもり