寺田寅彦

柿の種

寺田寅彦 · 0/39

Snack Point

✦ 物理学者にして名随筆家、寺田寅彦が日常の小さな発見を美しい言葉で綴る。科学者の目がとらえた世界は、こんなにも詩的だった。

✦ 大正9年〜昭和8年にかけて俳句雑誌「渋柿」に連載された短章集。ひとつひとつが独立した小エッセイで、科学・芸術・日常・動物…と話題は縦横無尽。

✦ 寺田自身が「一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」と書いており、まさにスナック読みにぴったりの一冊。

目次

登場人物

寺田寅彦 — 語り手。物理学者であり随筆家。日常のささやかな出来事を鋭い観察眼で見つめる

底本情報

公開: 青空文庫
底本: 「柿の種」岩波文庫、岩波書店
初出: 1920年
章構成: 章分けはSnackReadが独自に付与
#01 詩と科学のあいだ
#01 詩と科学のあいだ1/10

日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。このガラスは、初めから曇っていることもある。生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。

1/39
#01 詩と科学のあいだ2/10

しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。穴を見つけても通れない人もある。それは、あまりからだが肥り過ぎているために……。

2/39
#01 詩と科学のあいだ3/10

宇宙の秘密が知りたくなった、と思うと、いつのまにか自分の手は一塊の土くれをつかんでいた。そうして、ふたつの眼がじいっとそれを見つめていた。すると、土くれの分子の中から星雲が生まれ、その中から星と太陽とが生まれ、アミーバと三葉虫とアダムとイヴとが生まれ、それからこの自分が生まれて来るのをまざまざと見た。

3/39
#01 詩と科学のあいだ4/10

……そうして自分は科学者になった。しばらくすると、今度は、なんだか急に唄いたくなって来た。と思うと、知らぬ間に自分の咽喉から、ひとりでに大きな声が出て来た。声が声を呼び、句が句を誘うた。そうして、行く雲は軒ばに止まり、山と水とは音をひそめた。……そうして自分は詩人になった。

4/39
#01 詩と科学のあいだ5/10

根津権現の境内のある旗亭で大学生が数人会していた。夜がふけて、あたりが静かになったころに、どこかでふくろうの鳴くのが聞こえた。「ふくろうが鳴くね」と一人が言った。するともう一人が「なに、ありゃあふくろうじゃない、すっぽんだろう」と言った。彼の顔のどこにも戯れの影は見えなかった。

5/39
#01 詩と科学のあいだ6/10

夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。その夕刊の紙面に、犬のあくびをしている写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一つ大きなあくびをした。

6/39
#01 詩と科学のあいだ7/10

ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新聞を見ていたが、犬の写真のあるページへ来ると、口のまわりに微笑が浮かんで、そうして、……一つ大きなあくびをした。やがて、二人は顔を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびをした。あらゆる「同情」の中の至純なものである。

7/39
#01 詩と科学のあいだ8/10

生来の盲人は眼の用を知らない。始めから眼がないのだから。眼明きは眼の用を知らない。生まれた時から眼をもっているのだから。

8/39
#01 詩と科学のあいだ9/10

眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう。

9/39
#01 詩と科学のあいだ10/10

虱をはわせると北へ向く、ということが言い伝えられている。まだ実験したことはない。もし、多くの場合にこれが事実であるとすれば、それはこの動物の背光性によって説明されるであろう。この説明が仮に正しいとしても、この事実の不思議さは少しも減りはしない。不思議さが少しばかり根元へ喰い込むだけである。

10/39
🔒

#01 詩と科学のあいだ

10スナック

#02 小さな観察
#02 小さな観察1/10

油画をかいてみる。正直に実物のとおりの各部分の色を、それらの各部分に相当する「各部分」に塗ったのでは、できあがった結果の「全体」はさっぱり実物らしくない。全体が実物らしく見えるように描くには、「部分」を実物とはちがうように描かなければいけないということになる。

11/39
#02 小さな観察2/10

印象派の起こったわけが、やっと少しわかって来たような気がする。思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない。

12/39
#02 小さな観察3/10

「三から五ひくといくつになる」と聞いてみると、小学一年生は「零になる」と答える。中学生がそばで笑っている。3−5=−2という「規約」の上に組み立てられた数学がすなわち代数学である。しかし3−5=0という約束から出発した数学も可能かもしれない。しかしそれは代数ではない。

13/39
#02 小さな観察4/10

物事は約束から始まる。俳句の約束を無視した短詩形はいくらでも可能である。のみならず、それは立派な詩でもありうる。しかし、それは、もう決して俳句ではない。

14/39
#02 小さな観察5/10

猫が居眠りをするということを、つい近ごろ発見した。その様子が人間の居眠りのさまに実によく似ている。人間はいくら年を取っても、やはり時々は何かしら発見をする機会はあるものと見える。これだけは心強いことである。

15/39
#02 小さな観察6/10

新しい帽子を買ってうれしがっている人があるかと思うと、また一方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がある。

16/39
#02 小さな観察7/10

寝入りぎわの夢現の境に、眼の前に長い梯子のようなものが現われる。梯子の下に自分がいて、これから登ろうとして見上げているのか、それとも、梯子の上にいて、これから降りようとしているのか、どう考えてもわからない。

17/39
#02 小さな観察8/10

嵐の夜が明けかかった。雨戸を細目にあけて外をのぞいて見ると、塀は倒れ、軒ばの瓦ははがれ、あらゆる木も草もことごとく自然の姿を乱されていた。大きな銀杏のこずえが、巨人の手を振るようになびき、吹きちぎられた葉が礫のようにけし飛んでいた。

18/39
#02 小さな観察9/10

見ているうちに、奇妙な笑いが腹の底から込み上げて来た。そうして声をあげてげらげら笑った。その瞬間に私は、天と地とが大声をあげて、私といっしょに笑ったような気がした。

19/39
#02 小さな観察10/10

大道で手品をやっているところを、そのうしろの家の二階から見下ろしていると、あんまり品玉がよく見え過ぎて、ばからしくて見ていられないそうである。感心して見物している人たちのほうが不思議に見えるそうである。それもそのはずである。手品というものが、本来、背後から見下ろす人のためにできた芸当ではないのだから。

20/39
🔒

#02 小さな観察

10スナック

#03 いきものたち
#03 いきものたち1/10

子猫が勢いに乗じて高い樹のそらに上ったが、おりることができなくなって困っている。親猫が樹の根元へすわってこずえを見上げては鳴いている。人がそばへ行くと、親猫は人の顔を見ては訴えるように鳴く。あたかも助けを求めるもののようである。

21/39
#03 いきものたち2/10

子猫はとうとう降り始めたが、脚をすべらせて、山吹の茂みの中へおち込んだ。それを抱き上げて連れて来ると、親猫はいそいそとあとからついて来る。そうして、縁側におろされた子猫をいきなり嘗め始める。子猫は、すぐに乳房にしゃぶりついて、音高くのどを鳴らしはじめる。

22/39
#03 いきものたち3/10

シヤトルの勧工場でいろいろのみやげ物を買ったついでに、草花の種を少しばかり求めた。そのときに、そこの売り子が「これはあなたにあげましょう。私この花がすきですから」と言って、おまけに添えてくれたのが、珍しくもない鳳仙花の種であった。

23/39
#03 いきものたち4/10

帰って来てまいたこれらのいろいろの種のうちの多くのものは、てんで発芽もしなかったし、また生えたのでもたいていろくな花はつけず、一年きりで影も形もなく消えてしまった。しかし、かの売り子がおまけにくれた鳳仙花だけは、実にみごとに生長して、そうして鳳仙花とは思われないほどに大きく美しく花を着けた。

24/39
#03 いきものたち5/10

数年前の早春に、神田の花屋で、ヒアシンスの球根を一つと、チューリップのを五つ六つと買って来て、中庭の小さな花壇に植え付けた。いずれもみごとな花が咲いた。ことにチューリップは勢いよく生長して、色さまざまの大きな花を着けた。ヒアシンスは、そのそばにむしろさびしくひとり咲いていた。

25/39
#03 いきものたち6/10

始めに勢いのよかったチューリップは、年々に萎縮してしまって、今年はもうほんの申し訳のような葉を出している。これに反して、始めにただ一本であったヒアシンスは、次第に数を増し、それがみんな元気よく生い立って、サファヤで造ったような花を鈴なりに咲かせている。この二つの花の盛衰はわれわれにいろいろな事を考えさせる。

26/39
#03 いきものたち7/10

糸瓜をつくってみた。延びる盛りには一日に一尺ぐらいは延びる。ひげのようなつるを出してつかまり所を捜している。つるが何かに触れるとすぐに曲がり始め、五分とたたないうちに百八十度ぐらい回転する。確かに捲きついたと思うと、あとから全体が螺旋形に縮れて、適当な弾性をもって緊張するのである。

27/39
#03 いきものたち8/10

子猫がふざけているときに、子供や妻などが、そいつの口さきに指をもって行くと、きっと噛みつく、ひっかく。自分が指を持って行くと舌で嘗め回す。すぐ入れちがいに他の者が指をやると、やはり噛みつく。どうも、親しみの深いものには噛みついて、親しみの薄い相手には舐めるだけにしておくらしい。

28/39
#03 いきものたち9/10

コスモスという草は、一度植えると、それから後数年間は、毎年ひとりで生えて来る。今年も三、四本出た。延び延びて、私の脊丈けほどに延びたが、いっこうにまだ花が出そうにも見えない。今朝行って見ると、枝の尖端に蟻が二、三疋ずつついていて、何かしら仕事をしている。

29/39
#03 いきものたち10/10

向日葵の苗を、試みにいろんな所に植えてみた。日当たりのいい塵塚のそばに植えたのは、六尺以上に伸びて、みごとな盆大の花をたくさんに着けた。しかし、やせ地に植えて、水もやらずに打ち捨てておいたのは、丈が一尺にも届かず、枝が一本も出なかった。それでも、申し訳のように、茎の頂上に、一銭銅貨大の花をただ一輪だけ咲かせた。

30/39
🔒

#03 いきものたち

10スナック

#04 街と記憶
#04 街と記憶1/9

田端の停車場から出て、線路を横ぎる陸橋のほうへと下りて行く坂道がある。そこの道ばたに、小さなふろしきを一枚しいて、その上にがま口を五つ六つ並べ、そのそばにしゃがんで、何かしきりにしゃべっている男があった。往来人はおりからまれで、たまに通りかかる人も、だれ一人、この商人を見向いて見ようとはしなかった。

31/39
#04 街と記憶2/9

晩春の曇り日に、永代橋を東へ渡った。橋のたもとに、電車の監督と思われる服装の、四十恰好の男が立っていた。左の手を見ると、一疋の生きた蟹の甲らの両脇を指先でつまんでいる。その手の先を一尺ほどもからだから離して、さもだいじそうにつまんでいる。そうして、なんとなくにこやかにうれしそうな顔をしているのであった。

32/39
#04 街と記憶3/9

「二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分のからだが、二階といっしょに、だんだん空中へ上がって行くような気がする」と、今年十二になる女の子がいう。こういう子供の頭の中には、きっとおとなの知らない詩の世界があるだろうと思う。

33/39
#04 街と記憶4/9

一日忙しく東京じゅうを駆け回って夜ふけて帰って来る。寝静まった細長い小路を通って、右へ曲がって、わが家の板塀にたどりつき、闇夜の空に朧な多角形を劃するわが家の屋根を見上げる時に、ふと妙な事を考えることがある。

34/39
#04 街と記憶5/9

この広い日本の、この広い東京の、この片すみの、きまった位置に、自分の家という、ちゃんときまった住み家があり、そこには、自分と特別な関係にある人々が住んでいて、そこへ、今自分は、さも当然のことらしく帰って来るのである。しかし、これはなんという偶然なことであろう。この家、この家族が、はたしていつまでここに在るのだろう。

35/39
#04 街と記憶6/9

あたりが静かになると妙な音が聞こえる。非常に調子の高い、ニイニイ蝉の声のような連続的な音が一つ、それから、油蝉の声のような断続する音と、もう一つ、チッチッと一秒に二回ぐらいずつ繰り返される鋭い音と、この三つの音が重なり合って絶え間なく聞こえる。

36/39
#04 街と記憶7/9

頸を左右にねじ向けても同じように聞こえ、耳をふさいでも同じように聞こえる。これは「耳の中の声」である。この声は、何を私に物語っているのか、考えてもそれは永久にわかりそうもない。しかし、この声は私を不幸にする。同じようなことが私の「心の中の声」についても言われるようである。

37/39
#04 街と記憶8/9

上野松坂屋七階食堂の食卓に空席を捜しあてて腰を下ろした。向こう側に五、六歳の女の子、その右側には三十過ぎた母親、左側には六十近いおばあさんが陣取っている。純下町式の三つのジェネレーションを代表したような連中である。老人は「幕の内」、母子はカツレツである。

38/39
#04 街と記憶9/9

「ヤーイ、オバアちゃんのほうがよく知ってら。」私が刹那に感じたと全く同じ事を、子供が元気よく言い放って、ちょこなんと澄ましている。こんな平凡な光景でも、時として私の心に張りつめた堅い厚い氷の上に、一掬の温湯を注ぐような効果があるように思われる。

39/39