舞姫

✦ スナック翻訳版

森鷗外 · 0/156

Snack Point

✦ ベルリンでの恋と日本への義理。二つの世界に引き裂かれた青年の悲恋物語。

✦ 1890年発表。森鷗外のデビュー作で、自伝的要素が強い。文語体の格調高い文章が特徴。

✦ エリスとの恋と立身出世の間で揺れる太田豊太郎の苦悩。

目次

登場人物

太田豊太郎 — 語り手。ドイツ留学中の日本人エリート官僚
エリス — ベルリンの踊り子。豊太郎と恋に落ちる

底本情報

公開: 青空文庫
底本: 「日本現代文學全集 7 森鴎外集」講談社
初出: 1890年
章構成: 章分けはSnackReadが独自に付与

✦ スナック翻訳版について

原文に忠実なAI翻訳・現代語訳版です。原文/翻訳の切り替えができます。学術的な正確さを保証するものではありません。

※AIによる翻訳・現代語訳版
#01 船上の回想
#01 船上の回想1/10

石炭の積み込みはもう終わった。中等室のテーブルのあたりはひっそりと静まりかえり、白熱灯の明るい光もむなしく照らしている。今夜は毎晩ここに集まるトランプ仲間もホテルに泊まっていて、船に残っているのは私一人だけだ。

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#01 船上の回想2/10

五年前のことだった。かねてからの望みが叶い、海外渡航の官命を受けて、このサイゴンの港まで来た頃は、目に映るもの、耳に聞くもの、すべてが新鮮で、筆にまかせて書き綴った紀行文は日ごとに何千字になっただろうか。

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#01 船上の回想3/10

当時の新聞に掲載されて世間にもてはやされたものだが、今になって思えば、未熟な考え、身の程知らずの大言壮語、そうでなくてもありふれた動植物や鉱物、あるいは風俗までを珍しそうに書き記したものを、見識ある人はどう思って見ていたことだろう。

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#01 船上の回想4/10

今回は旅に出る際、日記を書こうと買った冊子がまだ白紙のままなのは、ドイツで学問をしている間に「ニル・アドミラリイ(何事にも驚かない)」という気質を身につけたからだろうか。いや、そうではない。これには別の理由がある。

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#01 船上の回想5/10

まったく、東へ帰る今の私は、西へ渡った昔の私ではない。学問にはまだ心に満たされないところも多いが、世の中の浮き沈みも知った。人の心が頼りにならないのは言うまでもなく、

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#01 船上の回想6/10

自分自身の心さえ変わりやすいものだと悟ったのだ。

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#01 船上の回想7/10

昨日の正しさが今日の誤りとなるような、その場かぎりの感想を書き留めて誰に見せようか。これが日記を書けない理由だ――いや、そうではない。これには別の理由がある。

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#01 船上の回想8/10

ああ、ブリンディジの港を出てから、もう二十日あまりが過ぎた。

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#01 船上の回想9/10

普通なら見知らぬ客とさえ交わりを結んで、旅の憂さを慰め合うのが航海の常であるのに、ちょっとした病気を口実に船室にばかり閉じこもり、同行の人々とも言葉を交わすことの少ないのは、人知れぬ恨みに頭ばかりを悩ませているからだ。

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#01 船上の回想10/10

この恨みは、はじめは一片の雲のように私の心をかすめて、スイスの山の景色も目に入らず、イタリアの古跡にも心を留めさせなかった。やがては世を厭い、わが身をはかなんで、腸が日ごとに九たびよじれるほどの苦痛を私に負わせた。

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#01 船上の回想

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#02 官長の信任
#02 官長の信任1/10

今では心の奥に凝り固まって一点の翳となっただけだが、文を読むたびに、物を見るたびに、鏡に映る影のように、声に応じる響きのように、果てしない懐旧の情を呼び起こして、何度も何度も私の心を苦しめる。

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#02 官長の信任2/10

ああ、どうしたらこの恨みを消すことができるだろうか。

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#02 官長の信任3/10

もしほかの恨みであれば、詩に詠み歌に詠んだ後は気持ちもすっきりするだろう。これだけはあまりに深く私の心に刻みつけられているからそうはいくまいと思うが、今夜はあたりに人もいない。ボーイが来て電灯のスイッチを切るにはまだ間があるだろうから、さあ、そのあらましを文章に綴ってみよう。

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#02 官長の信任4/10

私は幼い頃から厳しい家庭の教育を受けた甲斐あって、父を早くに亡くしたけれど、学問が衰えることはなく、旧藩の学校にいた頃も、東京に出て予備校に通った時も、大学法学部に入った後も、太田豊太郎という名はいつも首席に記されていたので、一人息子の私を頼りに暮らす母の心も慰められたことだろう。

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#02 官長の信任5/10

十九歳で学士の称号を受けて、大学ができてからそれまでにない名誉だと人にも言われ、某省に出仕して故郷の母を東京に呼び迎え、楽しい年月を三年ほど送った。上司の覚えが格別だったので、洋行してある課の事務を調査せよとの命を受けた。名を成すのも、家を興すのも今だと思う心が勇み立って、五十を越えた母との別れもさほど悲しいとは思わず、はるばる家を離れてベルリンの都に来たのだった。

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#02 官長の信任6/10

私はぼんやりとした功名心と、束縛に慣れた勉強の力とを持って、たちまちこのヨーロッパの新しい大都会の中央に立った。なんという輝きだろう、私の目を射ようとするのは。なんという色彩だろう、私の心を惑わそうとするのは。「菩提樹の下」と訳せばひっそりとした場所のように思われるが、この大通り――ウンテル・デン・リンデンに来て、両側の石畳の歩道を行き交う男女の群れを見てほしい。

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#02 官長の信任7/10

胸を張り肩をそびやかした士官たちの――まだヴィルヘルム一世が街路に面した窓に寄りかかっておられた頃だったので、さまざまな色に飾り立てた礼装をまとった姿、美しい少女たちがパリ風の装いをした姿、あれもこれも目を驚かさないものはないのに、

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#02 官長の信任8/10

車道のアスファルトの上を音もなく走るさまざまな馬車、雲に届くような高い建物が途切れたところには、晴れた空に夕立の音を聞かせて溢れ落ちる噴水の水、遠く望めばブランデンブルク門の向こうに緑の木々が枝を交わした中から、空に浮かび出た凱旋塔の女神の像――これほど多くの眺めが目の前に集まっているのだから、初めてここに来た者が目を奪われるのも当然のことだ。

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#02 官長の信任9/10

けれど私の胸には、たとえどんな場所に遊んでも、はかない美観に心を動かすまいという誓いがあって、つねに私に押し寄せる外界の刺激を遮り止めていた。

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#02 官長の信任10/10

私が呼び鈴を引いて面会を求め、公の紹介状を出して東方から来た目的を告げたプロイセンの官員たちは、みな快く私を迎え、公使館を通じての手続きさえ無事に済めば、

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#02 官長の信任

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#03 自由の目覚め
#03 自由の目覚め1/10

何事であれ教えもし伝えもしようと約束してくれた。嬉しかったのは、故郷でドイツ語とフランス語を学んでいたことだった。

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#03 自由の目覚め2/10

彼らは初めて私に会った時、どこでいつの間にこれほど学んだのかと、尋ねないことはなかった。さて公務の合間ごとに、かねて上からの許可は得ていたので、この地の大学に入って政治学を修めようと、名前を学生名簿に登録させた。ひと月ふた月と過ごすうちに、公の打ち合わせも済み、調査も次第にはかどっていったので、急ぐものは報告書にまとめて送り、そうでないものは書き写して留め、ついには何巻になったことだろう。

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#03 自由の目覚め3/10

大学のほうでは、若い心に思い描いていたような、政治家になるための特別な課程があるはずもなく、あれかこれかと迷いながらも、二、三人の法学者の講義に出ることに決めて、授業料を納め、通って聴講した。

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#03 自由の目覚め4/10

こうして三年ほどは夢のように過ぎたが、時が来れば隠そうとしても隠しきれないのが人の本当の好みというものだろう。私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人が神童だなどと褒めてくれるのが嬉しくて怠らず学んだ時から、上司がよい働き手を得たと励ましてくれるのが嬉しくて絶えず勤めた時まで、

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#03 自由の目覚め5/10

ただ受け身の、機械のような人間になっていたことに自分では気づかなかった。しかし今二十五歳になり、長らくこの自由な大学の空気に触れていたためか、心の中がなんとなく落ち着かず、奥深く潜んでいた本当の自分が、ようやく表に現れて、昨日までの自分ではない自分を責め立てるようだった。

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#03 自由の目覚め6/10

私は自分がこの時代に羽ばたくべき政治家になるのにも向いておらず、また法典をそらんじて裁きを下す法律家になるのにもふさわしくないと悟ったように思った。私はひそかに思った――母は私を生きた辞書にしようとし、上司は私を生きた法律にしようとしたのではないか。辞書であるならまだ耐えられるが、法律であるのは我慢できない。

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#03 自由の目覚め7/10

今まではどんな些細な問題にも極めて丁寧に答えていた私が、この頃から上司に送る書面にはしきりに法制の細かい規定にこだわるべきではないと論じて、ひとたび法の精神さえ掴めば、あらゆる問題は竹を割るように解決できるはずだなどと大きなことを言い出した。また大学では法科の講義をよそにして、歴史文学に心を寄せ、次第にその面白さがわかってきた。上司はもともと思い通りに使える機械を作ろうとしていたのだろう。

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#03 自由の目覚め8/10

独立した考えを抱いて、人並みでない顔つきをした男を、どうして喜ぶだろうか。危ういのは当時の私の立場だった。しかしこれだけでは、まだ私の地位を覆すには足りなかっただろうが、日頃ベルリンの留学生の中で、ある勢力のある一派と私との間に面白くない関係があり、彼らは私を疑い、ついには私を中傷するに至った。しかしこれもまた、理由がなかったわけではない。

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#03 自由の目覚め9/10

彼らは私が一緒にビールの杯を挙げず、ビリヤードの棒も取らないのを、頑固な心と欲を抑える力によるものだと考えて、半ばあざけり半ばねたんでいたのだろう。しかしそれは私を知らないからだ。ああ、この本当の理由は、自分自身でさえ知らなかったのに、どうして他人に知られようか。私の心はあの合歓(ねむ)という木の葉に似て、何かが触れれば縮んで避けようとする。私の心は処女に似ていたのだ。

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#03 自由の目覚め10/10

私が幼い頃から年長者の教えを守って、学問の道をたどったのも、仕事の道を歩んだのも、すべて勇気があってできたことではない。忍耐と勉強の力に見えたものも、すべて自分を欺き、人をさえ欺いていたのであって、人が敷いてくれた道をただ一筋にたどっただけだ。ほかに心が乱れなかったのは、外界を捨てて顧みないほどの勇気があったからではなく、ただ外界を恐れて自ら手足を縛っていただけなのだ。

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#03 自由の目覚め

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#04 屋根裏の出会い
#04 屋根裏の出会い1/10

故郷を出発する前にも、自分が有能な人物であることを疑わず、また自分の心がよく耐えられることも深く信じていた。ああ、あれも一時のこと。

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#04 屋根裏の出会い2/10

船が横浜を離れるまでは、さすがは豪傑と思っていたこの身も、こらえきれない涙にハンカチを濡らしたのを自分ながら不思議に思ったが、これこそがかえって私の本性だったのだ。

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#04 屋根裏の出会い3/10

この性質は生まれつきのものだろうか、それとも早くに父を失って母の手で育てられたために生じたものだろうか。

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#04 屋根裏の出会い4/10

この弱く気の毒な心よ。赤や白に顔を塗り、派手な色の衣装をまとって、カフェに座り客を引く女たちを見ても、近づく勇気がなく、高い帽子をかぶり、眼鏡を鼻にかけ、プロイセンでは貴族ぶった鼻声で話す「遊び人」たちを見ても、一緒に遊ぶ勇気もない。こうした勇気がないから、あの活発な同郷の人々と付き合うすべもなかった。

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#04 屋根裏の出会い5/10

付き合いが薄いために、彼らはただ私を嘲り、妬むだけでなく、さらには疑いの目を向けるようになった。これこそが、私が冤罪を背負い、短い間に計り知れない苦難を味わい尽くす原因となったのだ。ある日の夕暮れのこと、私は動物園を散歩し、ウンテル・デン・リンデンを通り過ぎ、モンビジュー街の下宿に帰ろうと、クロスター通りの古い寺院の前に来た。

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#04 屋根裏の出会い6/10

私はあの灯火の海を渡ってきて、この狭く薄暗い通りに入った。二階の手すりに干したシーツや肌着をまだ取り込んでいない家、頬髯の長いユダヤ教徒の老人が戸口に立つ居酒屋、一方の階段はまっすぐ上階へ、もう一方は地下住まいの鍛冶屋へ通じる貸家などに囲まれ、凹の字のように奥まって建つこの三百年前の遺跡を眺めるたび、心がうっとりとして何度立ち止まったかわからない。

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#04 屋根裏の出会い7/10

今ここを通り過ぎようとしたとき、閉ざされた寺院の門扉に寄りかかって、声を殺しながら泣いている一人の少女がいるのを見つけた。年は十六、七であろう。被った布から漏れる髪の色は薄い金色で、着ている服は垢づいて汚れているようには見えなかった。私の足音に驚いて振り返ったその顔――私には詩人の筆がないから、これを描き出すことはできない。

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#04 屋根裏の出会い8/10

この青く澄んで、何か問いかけたげに憂いを含んだ目が、半ば露を宿した長いまつ毛に覆われているのは、なぜ一目見ただけで、用心深い私の心の底にまで突き刺さったのか。

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#04 屋根裏の出会い9/10

彼女は思いがけない深い嘆きに遭って、前後を顧みる余裕もなく、ここに立って泣いているのだろう。私の臆病な心は憐れみの情に打ち負かされ、思わず傍に寄って、「なぜ泣いているのですか。」

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#04 屋根裏の出会い10/10

「この土地に縁のない余所者は、かえって力をお貸しできることもあるでしょう」と声をかけたのだが、自分ながら自分の大胆さに呆れてしまった。

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#04 屋根裏の出会い

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#05 エリスの身の上
#05 エリスの身の上1/10

彼女は驚いて私の黄色い顔をじっと見つめたが、私の誠実な心が顔に表れていたのだろうか。「あなたは善い方のようです。あの人のようにひどくはないでしょう。それに私の母のようにも」。

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#05 エリスの身の上2/10

しばらく涸れていた涙の泉がまたあふれて、愛らしい頬を流れ落ちた。「私を救ってください。恥知らずな人間になりたくないのです。母は、私があの人の言葉に従わないからといって、私を打ちました。父は死にました。」

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#05 エリスの身の上3/10

「明日は葬らねばならないのに、家には一銭の蓄えすらありません。」あとはすすり泣きの声ばかりだった。

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#05 エリスの身の上4/10

私の目は、このうつむいた少女の震えるうなじにだけ注がれていた。「お宅まで送っていくから、まず気を鎮めてください。声を人に聞かせないで。ここは往来ですから。」

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#05 エリスの身の上5/10

彼女は物語るうちに、覚えず私の肩に寄りかかっていたが、この時ふと頭を上げ、まるで初めて私を見たかのように恥じらい、私のそばから飛びのいた。

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#05 エリスの身の上6/10

人に見られるのが嫌で、早足に歩く少女の後をついて、寺の筋向かいの大きな戸口に入ると、欠け損じた石の階段があった。

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#05 エリスの身の上7/10

これを上って、四階に腰をかがめてくぐるほどの小さな戸があった。少女は錆びた針金の先を曲げたものに手をかけて強く引くと、中から咳枯れた老婆の声で「誰だ」と問う。エリスが帰ったと答える間もなく、戸を荒々しく開けたのは、半ば白髪になった髪の、悪い人相ではないが、貧苦の痕を額に刻んだ顔の老婆で、古い毛皮綿入りの服を着て、汚れた上靴を履いていた。

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#05 エリスの身の上8/10

エリスが私に会釈して中に入ると、老婆は待ちかねたように戸を激しく閉め切った。私はしばらく呆然と立っていたが、ふとランプの光に透かして戸を見れば、エルンスト・ワイゲルトと漆で書かれ、その下に仕立物師と記してあった。これが先ほどの少女の亡き父の名であろう。中から言い争うような声が聞こえたが、やがて静かになって戸が再び開いた。先ほどの老婆が丁寧に自分の無礼な振る舞いを詫びて、私を招き入れた。

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#05 エリスの身の上9/10

戸の中は台所で、右手の低い棚に、真白に洗った麻布が掛けてあった。左手には粗末に積み上げた煉瓦のかまどがある。正面の一室の戸は半ば開いていて、中には白い布を掛けた寝台があった。横たわっているのは亡くなった人であろう。

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#05 エリスの身の上10/10

かまどの傍の戸を開けて私を導き入れた。ここはいわゆる「マンサルド」の、通りに面した一間であるから、天井もない。隅の屋根裏から窓に向かって斜めに下がる梁を紙で張った下の、立てば頭がつかえるほどの場所に寝台があった。

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#05 エリスの身の上

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#06 美しき日々
#06 美しき日々1/10

中央の机には美しい敷物が掛けられ、上には書物が一、二冊と写真帖が並べてあり、陶器の花瓶にはここに似つかわしくない高価な花束が生けてあった。その傍に少女は恥じらいを帯びて立っていた。彼女は際立って美しかった。

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#06 美しき日々2/10

乳のように白い顔はランプの光に映えてほのかに紅を差していた。手足のほっそりと華奢なのは、貧しい家の娘には見えない。老婆が部屋を出た後で、少女はやや訛りのある言葉で言った。「お許しください。あなたをここまで連れてきた厚かましさを。」

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#06 美しき日々3/10

「あなたは善い方でしょう。まさか私を憎みはしないでしょう。」

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#06 美しき日々4/10

明日に迫っているのは父の葬儀。頼みに思っていたシャウムベルヒ――あなたは彼を知らないでしょうか。彼はヴィクトリア座の座長です。彼の抱えとなってからもう二年になるので、当然私たちを助けてくれると思っていたのに、人の不幸につけ込んで、身勝手な申し出をしようとは。私を救ってください。」

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#06 美しき日々5/10

その見上げた目には、人に否とは言わせない媚態があった。この目の働きは知ってやっているのか、それとも自分では気づかないのか。私の懐には二、三マルクの銀貨があったが、それでは足りるはずもないので、私は時計を外して机の上に置いた。「これで一時の急場をしのいでください。質屋の使いがモンビジュー街三番地で太田と尋ねて来たときに、代金を渡しますから。」

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#06 美しき日々6/10

少女は驚き感じ入った様子で、私が別れの挨拶に差し出した手を唇に当てたが、はらはらと落ちる熱い涙を私の手の甲に注いだ。ああ、何という因縁だろう。この恩を返そうとして、自ら私の下宿を訪ねてきた少女は、ショーペンハウエルを右に、シラーを左にして、終日じっと座り続ける私の読書の机の下に、一輪の名花を咲かせたのであった。

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#06 美しき日々7/10

この時を始めとして、私と少女との交際はしだいに頻繁になっていき、同郷の人々にまで知られてしまうと、彼らは早合点して、私を舞姫たちの中で色を漁る者と決めつけた。私たち二人の間にはまだ無邪気な楽しみしかなかったのに。名前を挙げるのは憚られるが、同郷人の中に事を好む者がいて、私がしばしば芝居に出入りして女優と交際しているということを、上官のもとに報告した。

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#06 美しき日々8/10

もともと私がかなり学問の寄り道をしているのを知って苦々しく思っていた上官は、ついに公使館を通じて、私の官を免じ、職を解いた。公使がこの命令を伝える際に私に言ったのは、もしすぐに帰国するなら旅費を支給するが、もしなお当地にいるつもりなら、公的な援助は受けられないということだった。私は一週間の猶予を願い出て、あれこれと思い悩むうちに、生涯でもっとも悲痛を覚えた二通の手紙を受け取った。

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#06 美しき日々9/10

この二通はほとんど同時に出されたものだが、一通は母の自筆、もう一通は親戚の某が、母の死を――私がこの上なく慕う母の死を知らせた手紙であった。私は母の手紙の中の言葉をここに繰り返すに堪えない。涙が押し寄せて筆の運びを妨げるからだ。私とエリスとの交際は、この時まではそばで見るよりも清らかなものであった。

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#06 美しき日々10/10

彼女は父が貧しかったために十分な教育を受けられず、十五の時に舞踊の師の募集に応じて、この恥ずかしい芸を教えられ、課程を終えた後、ヴィクトリア座に出て、今は劇場で第二の地位を占めていた。しかし、詩人ハックレンデルが「当世の奴隷」と言ったように、はかないのは舞姫の身の上である。

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#06 美しき日々

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#07 相沢の来訪
#07 相沢の来訪1/10

薄い給金で縛られ、昼の稽古、夜の舞台と厳しく使われ、芝居の化粧部屋に入ってこそ紅や白粉も施し、美しい衣装もまとうが、劇場の外では一人分の衣食さえままならないのだから、親きょうだいまで養う者のその辛苦はいかばかりか。だから彼女たちの仲間で、最も卑しい商売に堕ちない者は稀だという。エリスがこれを免れたのは、おとなしい性格と、気骨ある父の守りによってであった。

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#07 相沢の来訪2/10

彼女は幼い頃から読書をすることはさすがに好んでいたが、手に入るのは「コルポルタージュ」と呼ばれる安い貸本屋の小説ばかりだった。私と知り合う頃から、私が貸した本を読み慣れて、しだいに趣味もわかるようになり、言葉の訛りも直り、いくらもしないうちに私に寄越す手紙にも誤字が少なくなった。こうして私たち二人の間には、まず師弟の交わりが生まれたのであった。私の突然の免官を聞いた時、彼女は顔色を失った。

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#07 相沢の来訪3/10

私はエリスの身の上に関わったことを隠し通したが、エリスは私に「母にはこのことを秘密にしてください」と言った。これは、母が私の学資を失ったことを知って私を嫌うのを恐れてのことだった。ああ、詳しくここに書き記す必要もないが、私が彼女を愛する心が急に強くなり、ついに離れがたい仲になったのは、まさにこの時だった。

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#07 相沢の来訪4/10

我が身の一大事が目の前に横たわり、まさに危急存亡の秋だというのに、このような振る舞いに及んだことを怪しみ、また非難する人もいるだろう。だが、私がエリスを愛する気持ちは初めて出会った時から浅くはなかったのに、今私の不運を憐み、

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#07 相沢の来訪5/10

また別れの悲しみに伏し沈んだその顔に、鬢の毛がほどけてかかっている――その美しく、いじらしい姿は、悲痛と感慨の刺激で常ならぬ状態になっていた私の頭を射抜き、恍惚のうちにこうなってしまったのを、どうしようもなかった。

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#07 相沢の来訪6/10

公使と約束した日も近づき、期限は迫った。

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#07 相沢の来訪7/10

このまま故郷に帰れば、学業も成し遂げられず汚名を負った身では浮かぶ瀬もないだろう。かといって留まるには、学資を得る手立てがない。この時私を助けてくれたのが、今回の同行者の一人である相沢謙吉だった。

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#07 相沢の来訪8/10

彼は東京にいて、すでに天方伯の秘書官であったが、私の免官が官報に出たのを見て、ある新聞社の編集長に話をつけ、私を社の通信員とし、

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#07 相沢の来訪9/10

ベルリンに留まって政治や学芸のことなどを報道させることにしてくれた。

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#07 相沢の来訪10/10

新聞社の報酬は取るに足らないほどだったが、住まいを移し、昼食に通う食堂も変えれば、細々とした暮らしは立てられるだろう。あれこれ思案しているうちに、真心を見せて助けの綱を投げてくれたのはエリスだった。彼女がどう母を説得したのか、私は彼女たち親子の家に同居することとなり、エリスと私はいつの間にか、あるかなきかの収入を合わせて、辛い中にも楽しい月日を送った。

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#07 相沢の来訪

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#08 友の忠告
#08 友の忠告1/10

朝の食事が済むと、エリスは稽古に出かけ、そうでない日は家にいる。私はケーニヒ街の間口が狭く奥行きばかりが長い休憩所に足を運び、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと記事の材料を集めた。

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#08 友の忠告2/10

この切り開いた引き窓から光を取り入れた部屋で、定まった職のない若者、わずかな金を人に貸して自分は遊んで暮らす老人、取引所の仕事の合間に足を休める商人などと肘を並べ、冷たい石のテーブルの上で忙しそうに筆を走らせ、女給が持ってくる一杯のコーヒーが冷めるのも構わず――

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#08 友の忠告3/10

開いた新聞を細長い板切れに挟んで何種類も掛け連ねた傍らの壁のそばを、幾度となく行き来するこの日本人を、知らない人はどう見ただろうか。

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#08 友の忠告4/10

また正午近くになると、稽古に行った日にはその帰り道に立ち寄り、私と一緒に店を出るこの並外れて軽い、掌の上で舞えそうな少女を、怪しんで見送る人もいただろう。我が学問は荒んでしまった。屋根裏部屋の一つの灯りがほのかに燃え、エリスが劇場から帰って椅子にもたれて縫い物などをするその傍らの机で、私は新聞の原稿を書いていた。

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#08 友の忠告5/10

かつて法令条文の枯れ葉を紙の上にかき集めていた頃とは違い、今は活発な政界の動き、文学や美術に関する新しい現象の批評など、あれこれと結び合わせて、力の及ぶ限り、ビョルネよりはむしろハイネに学んで文章を構想し、さまざまな記事を書いた。その中でも、立て続けにヴィルヘルム一世とフリードリヒ三世の崩御があり、新帝の即位やビスマルク侯の進退いかんなどについては、とりわけ詳しい報告を書き送った。

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#08 友の忠告6/10

そのためこの頃からは思った以上に忙しくなり、多くもない蔵書を繙いて以前の学問に立ち返ることも難しく、大学の籍はまだ消されていなかったが、授業料を納めることが困難なので、ただ一つに絞った講義にさえ聞きに行くことは稀だった。我が学問は荒んでしまった。だが私は別に一種の見識を身につけた。それは何かといえば、およそ民間の学問が広まっていることにかけては、ヨーロッパ諸国の中でドイツに及ぶものはないだろう。

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#08 友の忠告7/10

何百種もの新聞雑誌に散見する議論には、かなり高尚なものが多い。私は通信員となった日から、かつて大学に頻繁に通った頃に養い得た一つの眼力をもって、読んではまた読み、書き写してはまた書き写すうちに、今まで一筋の道だけを走っていた知識は自然と総合的になり、同郷の留学生などの大半が夢にも知らない境地に到達した。彼ら仲間にはドイツの新聞の社説すらろくに読めない者がいるのだから。明治二十一年の冬が来た。

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#08 友の忠告8/10

表通りの歩道には砂も撒き、除雪もするが、クロスター街のあたりは凸凹のところが見えるものの、表面だけは一面に凍っていて、朝に戸を開ければ飢え凍えた雀が落ちて死んでいるのも哀れだった。部屋を暖め、竈に火を焚きつけても、石の壁を貫き、衣の綿を突き通す北ヨーロッパの寒さは、とうてい堪えがたかった。

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#08 友の忠告9/10

エリスは二三日前の夜、舞台で卒倒したと人に助けられて帰ってきたが、それから気分が悪いと休み、ものを食べるたびに吐くのを、悪阻というものだろうと初めて気づいたのは母だった。ああ、そうでなくても覚束ないのは我が身の行く末であるのに、もし本当ならどうしたらよいのか。今朝は日曜なので家にいるが、心は楽しくない。エリスは床に伏すほどではないが、小さな鉄の暖炉のそばに椅子を寄せて言葉少なだった。

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#08 友の忠告10/10

その時、戸口に人の声がして、やがて台所にいたエリスの母が、郵便の手紙を持ってきて私に渡した。見れば見覚えのある相沢の筆跡で、郵便切手はプロイセンのもの、消印にはベルリンとある。

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#08 友の忠告

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#09 大臣の信用
#09 大臣の信用1/10

不思議に思いながら開いて読むと――急なことで前もって知らせることができなかったが、昨夜こちらに到着された天方大臣にお供してわれも来た。伯爵がお前に会いたいとおっしゃるから、早く来い。

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#09 大臣の信用2/10

心ばかりが急かされて、用件だけを伝えるとのことだった。

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#09 大臣の信用3/10

読み終えて茫然とした顔つきを見て、エリスが言う。「故郷からのお手紙ですか。悪い知らせではないでしょうね。」彼女はいつもの新聞社の報酬に関する手紙と思ったのだろう。「いや、心配しなくていい。おまえも名を知っている相沢が、大臣と一緒にここに来て私を呼んでいるのだ。急ぐというから今すぐ出かけよう。」かわいい一人っ子を送り出す母でも、これほど気を遣うまい。

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#09 大臣の信用4/10

大臣にお目にかかるかもしれないと思ったのだろう、エリスは病をおして起き上がり、下着も極めて白いのを選び、丁寧にしまってあった二列ボタンのフロックコートを出して着せ、襟飾りまで私のために自ら手で結んでくれた。「これで見苦しいとは誰にも言わせません。鏡に向かってご覧なさい。なぜそんな不機嫌そうな顔をなさるのですか。私もご一緒に行きたいのに。」少し表情を改めて。「

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#09 大臣の信用5/10

いいえ、こうして衣を改めたお姿を見ると、何だかいつもの私の豊太郎さまとは思えません。」また少し考えて。「たとえお金持ちになる日があっても、私を見捨てはなさらないでしょう。私の病は母が言うとおりでなくても。」「何が、金持ちだ。」私は微笑した。「政治や社会の世界に出ようという望みは断ってからもう何年も経つのに。大臣に会いたくもない。ただ長年別れていた友に会いに行くだけだ。」

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#09 大臣の信用6/10

エリスの母が呼んだ一等の辻馬車は、車輪の下にきしむ雪道を門の下まで来た。私は手袋をはめ、少し汚れた外套を背にかけて袖は通さず、帽子を取ってエリスに接吻し、階段を下りた。彼女は凍った窓を開け、乱れた髪を北風に吹かせて、私の乗った車を見送った。私が馬車を降りたのは「カイザーホーフ」の入口だった。

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#09 大臣の信用7/10

門番に秘書官相沢の部屋番号を尋ねて、久しく踏み慣れない大理石の階段を上り、中央の柱にプリュッシュを被せたソファを据え付け、正面に鏡を立てた前室に入った。外套はここで脱ぎ、廊下を伝って部屋の前まで行ったが、私は少したじろいだ。同じく大学にいた頃に、私の品行方正ぶりを激賞していた相沢が、今日はどんな顔をして出迎えるだろうか。

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#09 大臣の信用8/10

部屋に入って向き合ってみると、体つきこそ以前に比べれば太って逞しくなっていたが、相変わらずの快活な気性で、私の過ちもさほど気に留めなかったと見える。

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#09 大臣の信用9/10

別後の思いを詳しく語る暇もなく、引き合わされて大臣に謁見し、委託されたのはドイツ語で書かれた文書の急を要するものを翻訳せよとの仕事だった。

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#09 大臣の信用10/10

私が文書を受け取って大臣の部屋を出た時、相沢が後から来て私と昼食を共にしようと言った。食卓では彼が多く問い、私が多く答えた。

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#09 大臣の信用

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#10 帰国の誘い
#10 帰国の誘い1/10

彼の人生は概ね順調であったのに対し、不運に見舞われてきたのは私の身の上だったからだ。私が胸の内を開いて語った不幸な経歴を聞いて、彼はしばしば驚いたが、決して私を責めようとはせず、かえって他の凡庸な留学生たちを罵った。しかし話が終わった時、彼は表情を正して諫めた。この一件はもともと生まれながらの弱い心から出たことだから、今さら言っても仕方がない。

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#10 帰国の誘い2/10

とはいえ、学識も才能もある者が、いつまで一人の少女の情に引きずられて、目的のない生活を続けるつもりか。今のところ天方伯爵もただドイツ語を利用しようという気持ちだけだ。

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#10 帰国の誘い3/10

自分もまた、伯爵が当時の免官の理由を知っているために、無理にその先入観を変えようとはしない。伯爵に、ひいき目で見ているなどと思われるのは、友に益なく自分に損があるからだ。

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#10 帰国の誘い4/10

人を推薦するにはまずその能力を示すに越したことはない。これを示して伯爵の信用を勝ち取れ。

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#10 帰国の誘い5/10

また、あの娘との関係は、たとえ彼女に誠意があろうと、たとえ情愛が深まっていようと、人物を見極めた上での恋ではなく、習慣という一種の惰性から生じた交際に過ぎない。決心して断ち切れ――これが相沢の言葉の大筋であった。

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#10 帰国の誘い6/10

大海原で舵を失った船乗りが、遥かな山を望むように、相沢が私に示したのは前途の方針であった。

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#10 帰国の誘い7/10

しかしこの山はまだ深い霧の中にあって、いつたどり着けるとも、いや、本当にたどり着いたとしても、私の心に満足を与えるかどうかも定かではない。

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#10 帰国の誘い8/10

貧しいながらも楽しいのは今の暮らし、捨てがたいのはエリスの愛。私の弱い心では決断のしようもなかったが、ひとまず友の言葉に従い、この恋を断ち切ろうと約束した。私は自分の信念を守ろうとして、敵対する者には抵抗するけれど、友に対して「否」とは言えない性分なのだ。別れて外に出ると、風が顔を打った。

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#10 帰国の誘い9/10

二重ガラスをしっかり閉め、大きな陶製の暖炉に火を焚いたホテルの食堂を出たばかりだったので、薄い外套を透す午後四時の寒さは格別に堪えがたく、肌が粟立つとともに、私は心の中にも一種の寒さを覚えた。翻訳は一晩で仕上げた。

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#10 帰国の誘い10/10

カイゼルホーフに通うことは次第に増えていき、初めは天方伯の言葉も用件ばかりだったが、後には最近故郷であったことなどを挙げて私の意見を求め、折に触れては旅の途中で人々が失敗したことを話しては笑われた。一月ほど過ぎて、ある日伯は突然私に向かい、「私は明朝、ロシアに向けて出発する。ついて来るか」と問うた。

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#10 帰国の誘い

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#11 苦悩の決断
#11 苦悩の決断1/10

私は数日間、あの公務に忙殺されている相沢に会っていなかったので、この問いは不意に私を驚かせた。「どうしてお供しないことがありましょう。」私は自分の恥を明かそう。この答えは素早く決断して言ったのではない。私は自分が信頼を寄せた人に、突然何かを問われると、咄嗟にその答えの範囲をよく考えもせず、すぐに承諾してしまうことがあるのだ。

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#11 苦悩の決断2/10

そうして承諾した上で、その実行の難しさに気づいても、あの時の心の空虚さを無理に覆い隠し、耐え忍んで実行することが度々あった。この日は翻訳の報酬に旅費まで添えていただいたのを持ち帰り、翻訳の報酬はエリスに預けた。

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#11 苦悩の決断3/10

これでロシアから帰るまでの費用は賄えるだろう。彼女は医者に診せたところ、身籠っているという。貧血の体質だったので、何ヶ月も気づかなかったのだろう。劇団からは休みがあまりに長いので除籍したと知らせが来た。まだひと月ほどなのに、こうも厳しいのは理由があるのだろう。

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#11 苦悩の決断4/10

旅立ちのことにはさほど心を悩ませているようにも見えない。偽りのない私の心を深く信じているからだ。鉄道で遠くもない旅なので、用意といってもない。体に合わせて借りた黒い礼服、新たに買い求めたゴータ版のロシア貴族名簿、二三種の辞書などを、小さな鞄に入れただけである。

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#11 苦悩の決断5/10

さすがに心細いことばかり多いこの頃だから、出かけた後に残るのも辛かろうし、また停車場で涙をこぼしたりしては気がかりだろうと思い、翌朝早くエリスを母につけて知人のところへ出しやった。私は旅支度を整えて戸を閉め、鍵を入口に住む靴屋の主人に預けて出た。ロシア行きについては、何を記すべきだろうか。舌人としての任務はたちまち私を引き連れ、青雲の上に押し上げた。

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#11 苦悩の決断6/10

私が大臣一行に従ってペテルブルクにいた間に私を取り囲んだのは、パリ絶頂の贅沢を氷雪の中に移したような王城の装飾、わざわざ黄蝋の蝋燭を数え切れないほど灯した中に、幾つもの勲章、幾本もの肩章が映し出す光、彫刻の工を尽くした暖炉の火に寒さを忘れて使う宮廷婦人の扇のきらめきなどであった。この間、フランス語を最も流暢に使えるのが私だったので、主客の間を取り持って事を処理するのも多くは私であった。

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#11 苦悩の決断7/10

この間、私はエリスを忘れなかった。いや、彼女が毎日手紙を寄越したので忘れようがなかった。

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#11 苦悩の決断8/10

私が発った日には、いつになく一人で灯火に向かうのが心寂しくて、知人の許で夜更けまで話し込み、疲れるのを待って家に帰り、すぐに寝たという。

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#11 苦悩の決断9/10

翌朝目覚めた時には、一人後に残されたことを夢ではないかと思ったという。起き出した時の心細さ、こんな思いは、暮らしに苦しんで今日食べるものもなかった時にさえしなかった。

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#11 苦悩の決断10/10

また時を経ての手紙は、ひどく思い詰めて書いたようであった。文を「いいえ」という言葉で始めていた。いいえ、あなたを想う心の深い底を今こそ知りました。

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#11 苦悩の決断

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#12 エリスの嘆き
#12 エリスの嘆き1/10

あなたは故郷に頼れる親族はないとおっしゃるのだから、この地によい生計の手立てがあれば、留まってくださらないことがあるでしょうか。また私の愛で引き留めずにはおきません。

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#12 エリスの嘆き2/10

それもかなわず東へ帰るおつもりなら、親と一緒に行くのはたやすいけれど、これほど多い旅費をどこから得ればよいのでしょう。

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#12 エリスの嘆き3/10

どんな仕事をしてでもこの地に留まり、あなたが世に出られる日を待とうといつも思っていましたが、しばしの旅といってお発ちになってからのこの二十日ほど、別離の思いは日に日に募るばかりです。

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#12 エリスの嘆き4/10

袂を分かつのはただ一瞬の苦しみだと思っていたのは迷いでした。身に宿した子が次第にはっきりしてきた、それさえあるのに、たとえどんなことがあっても、どうか私をお捨てにならないでください。母とはひどく争いました。

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#12 エリスの嘆き5/10

けれど私の身が、以前とは違って覚悟を決めているのを見て、母も折れました。

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#12 エリスの嘆き6/10

私が東へ行く日には、シュテッティンあたりの農家に遠い縁者がいるので、身を寄せようと母は言っています。お手紙にあったように、大臣に重く用いられるようになれば、私の旅費のことはどうにかなりましょう。今はひたすらあなたがベルリンに帰られる日を待つばかりです。ああ、私はこの手紙を見て初めて自分の立場をはっきりと悟った。恥ずかしいのは私の鈍い心である。

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#12 エリスの嘆き7/10

私は自分一人の身の振り方についても、また自分に関わりのない他人の事についても、決断力があると自ら心に誇っていたが、その決断力は順境にのみあって、逆境にはなかった。

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#12 エリスの嘆き8/10

自分と他者との関係を照らし出そうとする時、頼みにしていた胸中の鏡は曇っていた。大臣はすでに私に厚くしてくださっている。しかし私の近眼は、ただ自分が果たした職分だけを見ていた。

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#12 エリスの嘆き9/10

私がこれに未来の望みを結びつけることなど、神もご存知だろう、まったく思い至らなかった。だが今ここに気づいて、私の心はなおも冷静でいられただろうか。

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#12 エリスの嘆き10/10

先に友が勧めた時には、大臣の信用は屋根の上の鳥のように捕まえがたかったが、今はやや得られたかと思われるところに、相沢がこの頃の言葉の端に「本国に帰った後も共にこうしていられれば云々」と言っていたのは、大臣がそうおっしゃったのを、友であっても公の事だから明かさなかったのか。今さら思えば、私が軽率にも相沢に向かってエリスとの関係を断つと言ったのを、早々と大臣に告げたのではあるまいか。

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#12 エリスの嘆き

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#13 心の葛藤
#13 心の葛藤1/10

ああ、ドイツに来た初めに、自ら本来の自分を悟ったと思い、もう機械的な人物にはなるまいと誓ったが、あれは足を縛られて放たれた鳥が、しばし羽を動かして自由を得たと誇ったのと同じではなかったか。

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#13 心の葛藤2/10

足の糸は解くすべがない。以前これを操っていたのは某省の官長で、今はこの糸が――ああ哀れなことに――天方伯の手中にある。私が大臣一行と共にベルリンに帰ったのは、ちょうど新年の元日であった。

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#13 心の葛藤3/10

停車場で別れを告げて、我が家を目指して馬車を走らせた。

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#13 心の葛藤4/10

こちらでは今も大晦日に眠らず、元日に眠るのが習わしなので、すべての家は静まり返っていた。寒さは厳しく、路上の雪は角張った氷の破片となって、晴れた日の光に映じ、きらきらと輝いていた。馬車はクロスター街に曲がって、家の入口に止まった。

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#13 心の葛藤5/10

この時窓を開ける音がしたが、馬車からは見えなかった。御者に鞄を持たせて階段を上ろうとするところへ、エリスが階段を駆け下りてくるのに出会った。「

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#13 心の葛藤6/10

彼女が一声叫んで私の首に抱きついたのを見て、御者は呆れた顔で何やら髭の中でつぶやいたが、聞き取れなかった。

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#13 心の葛藤7/10

よくぞお帰りくださいました。お帰りくださらなければ、私の命は絶えていたでしょう。」「」

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#13 心の葛藤8/10

私の心はこの時まで定まらず、故郷を思う気持ちと栄達を求める心が、時として愛情を圧し潰そうとしていたが、ただこの一刹那、ためらい迷う思いは消え去り、私は彼女を抱きしめ、彼女の頭は私の肩に寄りかかり、

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#13 心の葛藤9/10

彼女の喜びの涙がはらはらと肩の上に落ちた。「何階まで持って行けばいいんだ」と銅鑼のように叫んだ御者は、いち早く階段を上って踊り場に立っていた。

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#13 心の葛藤10/10

戸の外に出迎えたエリスの母に、御者にご苦労の礼をと銀貨を渡して、私は手を引くエリスに伴われ、急いで部屋に入った。一目見て私は驚いた。机の上には白い木綿、白いレースなどがうず高く積まれていたのだ。エリスは微笑みながらこれを指して、「この心がまえをご覧くださいな」と言いつつ一枚の木綿を取り上げるのを見れば、おしめであった。「私の嬉しさをお察しください。生まれる子はあなたに似て黒い瞳を持つでしょうか。」「この瞳。

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#13 心の葛藤

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#14 狂乱の夜
#14 狂乱の夜1/10

ああ、夢にだけ見ていたのはあなたの黒い瞳です。生まれた日には、あなたの誠実なお心で、まさか偽りの姓を名乗らせはなさいますまい。」彼女はうつむいた。「子供じみていると笑われるでしょうが、教会で洗礼を受ける日はどんなに嬉しいことでしょう。」見上げた目には涙が溢れていた。二三日の間は大臣も旅の疲れがおありだろうと、あえて訪ねず、家にばかりこもっていたが、ある日の夕暮れに使いが来て招かれた。

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#14 狂乱の夜2/10

訪ねてみると、待遇はこの上なく丁重だった。ロシア行きの労をねぎらった後、大臣はこう切り出した。「私と一緒に日本へ帰る気はないか。君の学問の深さは私にはわからないが、語学だけでは世の中の役には立つまい。滞在が長すぎるから、何かしがらみでもあるのではないかと相沢に聞いたが、そういうことはないと聞いて安心した」と仰せになった。その気色は、とても断れるものではなかった。

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#14 狂乱の夜3/10

しまった、と思った。だが、さすがに相沢の言葉を嘘だとも言いにくい。もしここでこの手を掴まなければ、祖国も失い、名誉を回復する道も断たれ、この広大なヨーロッパの大都会の人の海に埋もれてしまうのではないか——その思いが、心の底から突き上げてきた。

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#14 狂乱の夜4/10

その思いが心の底から突き上げてきた。ああ、何という信念のない心だろう。「承りました」と答えてしまったのだ。鋼鉄の額があったとしても、帰ってエリスに何と言えばよいのか。

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#14 狂乱の夜5/10

ホテルを出た時の私の心の錯乱は、たとえようもなかった。

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#14 狂乱の夜6/10

私は東西もわからず、思いに沈んで歩いていると、すれ違う馬車の御者に何度も怒鳴られ、驚いて飛びのいた。しばらくして、ふと周りを見ると動物園のそばに出ていた。

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#14 狂乱の夜7/10

倒れるようにして道端のベンチに寄りかかり、焼けるように熱く、杭で打たれるように響く頭をベンチの背にもたせかけ、死んだようなありさまで何時間を過ごしたことだろう。

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#14 狂乱の夜8/10

激しい寒さが骨に徹るのを感じて目覚めた時は、夜に入って雪が盛んに降り、帽子のひさし、外套の肩には一寸ほども積もっていた。

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#14 狂乱の夜9/10

もう十一時を過ぎていただろうか。モアビット、カール街通りの鉄道馬車の線路も雪に埋もれ、ブランデンブルク門のそばのガス灯は寂しい光を放っていた。立ち上がろうとしたが足が凍えていたので、両手でこすって、ようやく歩ける程度にはなった。足が進まず、クロスター街まで来たときは夜半を過ぎていたのだろう。ここまでの道をどう歩いたのか、自分でもわからない。

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#14 狂乱の夜10/10

一月上旬の夜なので、ウンテル・デン・リンデンの酒場や喫茶店はまだ人の出入りで賑わっていたのだろうが、まったく気づかなかった。

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#14 狂乱の夜

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#15 罪の意識
#15 罪の意識1/10

私の頭の中には、ただ「自分は許されない罪人だ」という思いだけが満ちていた。

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#15 罪の意識2/10

四階の屋根裏では、エリスはまだ起きているらしく、ぽつんと一つの灯りが、暗い空を透かして見ると明るく見えるのだが、降りしきる白鷺のような雪片に、たちまち隠れ、たちまちまた現れて、風にもてあそばれるようだった。

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#15 罪の意識3/10

入口に入ったときから疲労を感じ、体の節々が痛くてたまらず、這うようにして階段を登った。台所を通り、部屋の戸を開けて入ると、机に寄りかかって産着を縫っていたエリスが振り返って「あっ」と叫んだ。「どうなさったの、あなたのその姿は!」驚くのも無理はなかった。蒼白で死人のような顔色、帽子はいつの間にか失くし、髪はぼさぼさに乱れ、何度も道で転んだので、服は泥混じりの雪に濡れ、あちこち破れていたのだから。

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#15 罪の意識4/10

私は答えようとしたが声が出ず、膝がひどく震えて立っていられないので、椅子をつかもうとしたところまでは覚えているが、そのまま床に倒れてしまった。意識が戻ったのは数週間後のことだった。

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#15 罪の意識5/10

激しい熱で譫言ばかり言っていたのを、エリスが懸命に看病してくれていた。ある日、相沢が訪ねてきて、私が彼に隠していた一部始終を詳しく知り、大臣には病気のことだけを伝えて、うまく取り繕っておいてくれたのだった。

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#15 罪の意識6/10

私は初めて、病の床に付き添うエリスを見て、その変わり果てた姿に驚いた。

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#15 罪の意識7/10

彼女はこの数週間のうちにひどく痩せ、充血した目は落ちくぼみ、灰色の頬はこけていた。相沢の助けで日々の暮らしには困らなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺してしまったのだ。

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#15 罪の意識8/10

後に聞いた話では、彼女は相沢に会ったとき、私が相沢に交わした約束を聞かされ、またあの夕べ大臣に申し上げた承諾のことを知り、突然座から飛び上がって、顔色は土のようになり、「

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#15 罪の意識9/10

豊太郎さま、ここまで私を騙していらっしゃったのですか」と叫んで、

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#15 罪の意識10/10

相沢は母を呼んで一緒に助け起こし、床に寝かせたが、しばらくして目を覚ましたときには、目はまっすぐ見開いたまま、そばの人も見分けがつかず、私の名を呼んで激しく罵り、髪をむしり、布団を噛んだりした。

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#15 罪の意識

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#16 別離
#16 別離1/6

かと思うと急に何かに気づいたように、あたりを手探りで探し始めた。母が取って渡すものは何でも投げ捨てたが、机の上にあった産着を渡したとき、手で探って顔に押し当て、涙を流して泣いた。

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#16 別離2/6

これからは騒ぐことはなくなったが、精神の働きはほとんど完全に失われ、その痴呆は赤児のようになった。

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#16 別離3/6

医者に診せたところ、過度の心労で急に発症した「パラノイア」という病気であり、治る見込みはないという。

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#16 別離4/6

ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んで聞き入れない。やがてはあの産着だけを身につけて、何度も取り出しては見つめ、見つめてはすすり泣く。

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#16 別離5/6

私の病床のそばを離れないが、それさえ心あってのことではないようだ。ただ時おり思い出したように「お薬を、お薬を」と言うだけである。私の病はすっかり治った。

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#16 別離6/6

大臣に従って帰国の途に就いたとき、相沢と相談してエリスの母にささやかな生計を営めるほどの資金を与え、哀れな狂女の胎内に残した子が生まれるときのことも頼んでおいた。ああ、相沢謙吉のような良友は、世にまたと得がたいだろう。しかし、私の心の奥底に、彼を憎む気持ちが一点、今日まで残っているのである。(明治二十三年一月)

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