折口信夫

翁の発生

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折口信夫 · 0/175

🍿 Snack Point

能の「翁」はどこから来たのか。折口信夫が日本の芸能の根源に迫る、知的興奮に満ちた民俗学の冒険。

登場人物

折口信夫語り手。民俗学者・国文学者として、芸能の起源を探究する
能楽の原初的な存在。神の依代としての老人の姿
現代語訳つき
第一章 中門口
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一 おきなと翁舞ひと第一章 中門口

翁はなぜ神になったか

一 おきなと翁の舞について 「翁」(おきな=老人の神様のような存在)がどのように生まれ、どんな形に発展していったかを、主に形式(見た目やスタイル)の面から考えてみたいと思います。 ただし、それぞれの芸能(能・狂言など)に特有の「翁」については、今夜集まった皆さんの知識で補ってもらうしかありません。 翁の芸をぐんと大きく発展させたのは、猿楽(さるがく=能の前身となった古い演芸)です。翁が、田楽(でんがく=田んぼの豊作を祈る古い芸能)の「中門口」(ちゅうもんぐち=舞台への入り口付近で行われる特別な場)で…

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に相当する定式の…第一章 中門口

「おじいさん」は神様だった

能楽の「翁」がなぜあのような決まった形式の演目になったのか、その成り立ちを少しでも理解していただけるようにお話ししたいと思います。 「おきな」という言葉は、もともと芸能(歌や踊りなどの表現活動)の世界で使われてきた「翁」というイメージを、強く引きずっています。少なくとも私たちが「おきな」と聞いてイメージする存在は、ただの年老いた男性ではありません。芸能・芸道(伝統的な芸や技の世界)の中で特別な意味を持つ存在として磨き上げられた「翁」のイメージを、現実の老人に重ね合わせたものなのです。 「おきな(翁)」と「おみな(媼/年老いた女性)」という言葉の本来の意味をたどると、村や国の神事(神様をまつる儀式)において、長老たちの中でも最も上の位にいる人物のことを指していたようです。

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おきな・おみなに…第一章 中門口

「老い」と「若さ」が言葉を作った

「おきな(翁)」「おみな(媼)」に対して、「をぐな(少年)」「をみな(少女)」という言葉があることを合わせて考えると、「お(大きい・年上)」と「を(小さい・若い)」という区別が、「き」や「み」といった言葉の前につけられていることがわかります。つまりこれらの言葉は、年上・年下という社会的な区分(老若制度=年齢によって社会での役割を分ける仕組み)から生まれた、昔の社会組織を表す古い言葉だったと考えられます。踊りを使って神様の魂を鎮める儀式(鎮魂式=神や人の魂を落ち着かせるための神聖な儀式)が、神事(神様にまつわる行事)の中心として重視されるようになると、踊り手のリーダーである「翁」が行う芸能が「翁舞」と呼ばれるようになっていきました。

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なる一方面を分立…第一章 中門口

翁舞はこうして生まれた

一方では、雅楽(宮廷で演奏される日本の古典音楽)の「採桑老(さいそうろう)」という演目や、形が変わってしまった「安摩(あま)・蘇利古(そりこ)」という翁の舞と結びついていきました。そうして「大歌舞(おおかぶ)」や「神遊び(かみあそび)」(神様をもてなすための芸能)の中の翁が、日本独自の「翁舞(おきなまい)」として認められるようになったと考えてよいでしょう。 そして、尾張浜主(おわりのはまぬし)の――

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翁とてわびやは居らむ第一章 中門口

老人が春に踊り出す理由

「翁(お爺さん)だからといって、じっと寂しく家に引きこもっていられようか。草も木も生き生きと輝いているこの季節に、外へ出て舞を踊ろうではないか」 ※これは『続日本後紀』に記された古い歌です。ここでの「翁」は、ただの老人ではなく、春の生命力がみなぎる時期に自ら立ち上がって舞う、特別な力をもった存在として描かれています。折口信夫(おりくちしのぶ)はこの一節に注目し、翁の舞(能楽などに登場する老人の仮面をつけた神聖な舞)の起源を探るヒントを見出しました。老いているからこそ静かにしているべき、という常識を覆し、草木が芽吹く春の力にあわせて翁自身も躍動する――そこに、翁という存在が持つ「若返り・再生・神聖さ」の本質が隠されている、と折口は考えたのです。

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と詠じた舞は第一章 中門口

翁は老人じゃなかった

この歌を詠みながら舞う場面は、ちょうど二つの時代が交わる変わり目の時期にあったと思われます。翁舞(おきなまい)を舞う「翁」というのは、単なる「年老いた男性」という意味ではなさそうです。「おきなさぶ」という言葉も、「をとめさぶ(乙女らしくふるまう)」「神さぶ(神らしくふるまう)」と同じように、もともとは神事(かみごと・神様に関わる儀式)の場で、衣装をつけて演じるときにぴったりの姿になることを表す言葉だったようです。

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翁さび第一章 中門口

翁の正体は神様だった

「翁(おじいさん)らしく見えても、誰も責めないでほしい。この狩衣(かりぎぬ・貴族や神に仕える人が着る特別な衣装)を着るのは今日この日だけなのだから。ほら、鶴までもが鳴いて祝っているではないか」 ※この歌は、老人の姿をした存在(翁)が、晴れがましい衣装をまとって神聖な場に現れる場面を詠んだものです。普段は「年寄りが何をしているんだ」と笑われそうな格好でも、今日だけは特別な意味がある。そして鶴の鳴き声が、その神聖な雰囲気をさらに盛り上げています。折口信夫(おりくちしのぶ)はこの歌を通じて、「翁」という存在がただの老人ではなく、祭りや儀式(ハレの場)に降りてくる神聖な力を持つ存在であることを示そうとしました。

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と在原の翁の嘆じた第一章 中門口

老人の歌は神事だった

在原(ありわら)の翁(おじいさん)が嘆いた、という歌物語に出てくる歌も、もともとは「翁舞(おきなまい)」(※古くから伝わる、翁=老人に扮して踊る神聖な舞)から生まれた歌だったのではないでしょうか。『古今集』の「雑(ぞう)」という章にうんざりするほどたくさん出てくる、老人が自分の人生を振り返る歌も、翁舞のときに詠まれた歌と見ることができるかもしれません。私などは、「在原」を名乗る「ほかひ人(ほかいびと)」(※神様のことばを伝えたり、芸能を演じながら各地をまわる人々)の集団がいて、その集団が翁舞を主な演目としていたのではないか、とさえ思っています。山姥(やまうば)がもともとは山の巫女(みこ)(※神様に仕える女性)だったのに、後から山の妖怪と思われるようになったのと同じように、翁舞に登場する人物や、翁舞を演じる人たちのことも「翁」と

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と称へる様になり第一章 中門口

「翁」は実はただのじいさんじゃない

という意味で使われるようになり、「人長(舞人の長)」(=舞を踊る人たちのリーダーのこと)という役職の名前にもなりました。そして、その舞で表現される神様そのもの(多くは精霊のような存在)の呼び名にもなり、さらにはその神様が姿を現した形そのものだとも考えられるようになっていったのです。 だから「翁」というのは、中世(=平安時代の終わりごろから戦国時代くらいまでの時期)以降、単なる「おじいさん」としてだけ考えることができなくなっているのです。 今夜お話しするテーマとして選んだ「翁」については、「翁舞(おきなまい)」(=翁を表現する伝統的な神聖な舞のこと)の起源を説明することで、近世(=江戸時代ごろ)になってゆがんで伝わってしまった形を、もともとの姿に戻して考えてみることになるだろうと思います。 二 祭りに参加するお年寄りの姿

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二夏第一章 中門口

翁の正体は沖縄にあった

二度の夏をかけて沖縄の島々をまわって得た、実際に体で感じた学問としての成果は、「翁(おきな)」という存在がどのように生まれたかについてのヒントでした。かつての日本の姿を今も残しているあの島の人々の言い伝えの中には、本土ではすでに能(のう)という舞台芸術になってしまった「翁」が、まだ生活の中の古い習わし(生活の古典)として、半分は現実のこととして、生きたまま繰り返されている様子を見てきたのです。 私は、日本という国には、国家ができるよりもずっと前から、「常世神(とこよがみ)」(遠い海の彼方にある永遠の世界=常世から来ると信じられた神)という神への信仰があったことを、別の機会にも何度かお話ししてきました。

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第二章 常世人
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此は「常世人」と…第二章 常世人

神と人間の間の存在

この存在は「常世人(とこよびと)」と呼んだ方がよいと思われるものです。「常世神(とこよがみ)」という言葉が文献に初めて登場するのは『日本書紀』の斉明天皇の記録ですが、これはもともとの意味が忘れられた後に、新しいイメージが混ざり込んできたもののようです。それより前の時代には、思兼神(おもいかねのかみ・知恵の神)も、少彦名命(すくなびこなのみこと・小さな体の神)も、「常世(とこよ・神々が住む永遠の世界)」の神とされていました。しかし、まだそのイメージが整理されていない古い時代の「常世人」は、神でも人間でもない、その中間にいる精霊(せいれい・霊的な存在)の一種として考えられていたようで、それが最も古い形であると思われます。

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元来ひとと言ふ語…第二章 常世人

「人」はもと神様だった

そもそも「ひと(人)」という言葉のもともとの意味は、後の時代でいう「神人(かみとひと、神と人間の間にある神聖な存在)」に近いもので、神聖な資格を持って世に現れるものを指す言葉だったと思われます。 『顕宗紀(けんぞうき)』という古い書物に出てくる「室寿詞(むろほぎのことば=建物の完成などを祝う言葉)」は、「我が常世たち(わがとこよたち)」という一文で締めくくられています。これは、その場の主賓である年配の高貴な人物をほめたたえた言葉です。 「常世の国(とこよのくに=死なない人々が住むという、海の彼方にある理想の国)の人」という表現が、やがて「常世の国からやってきた、寿命の長い人」という意味になり、さらに時代が下ると「この世で長生きをしている人」という、ごくふつうの意味へと変わっていったのです。

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日本人は第二章 常世人

神様は海からやってくる

日本人は、「常世人(とこよびと=神様や霊的な存在のこと)」は、海の向こうにある別の世界からやってくると考えていました。最初は、お正月のころ(初春)にやってくると信じられていたのが、やがて何度もやってくると考えられるようになりました。春のお祭りと、収穫が終わったあとのお祭り(刈上げ祭り=秋の収穫祭)は、もともと前の夜から翌朝まで続けて行われていました。そのあいだにもう一つあったのが、冬のお祭りです。冬祭りは「鎮魂式(ちんこんしき=魂をしずめ、力をよみがえらせる儀式)」です。「あき・ふゆ・はる」という言葉が、暦(こよみ)の上での秋・冬・春に当てはめられるようになると、それぞれのお祭りも別々に行われるようになっていきました。

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其祭りの度毎に第二章 常世人

神様は季節の境目に現れる

お祭りのたびごとに、「常世(とこよ)」(※神々や死者が住むとされる、海の彼方にある永遠の国)からやってきた人や神が訪れて、「禊ぎ(みそぎ)」(※水で体を清める儀式)や「鎮魂(たましずめ)」(※魂を安定させるための儀式)を行っていきます。そうなると、臨時のお祭りがどんどん増えていきました。 田植えのお祭りに合わせて五月にやってくる神々も迎えられるようになり、季節と季節の変わり目に行われる「交叉期祭り」(※春から夏へ、夏から秋へといった、季節の切り替わりの時期に行われるお祭り)には、悪い気を追い払う「呪法(じゅほう)」(※おまじないや儀式による魔除けの方法)を授けにくるのか、それとも受けにくるのかよくわからない、不思議な鬼や神もやってくるようになりました。 このように、めったに来ないけれど何度もくり返し訪れる「まれびと神」(※神や異世界から人間の世界へたまにやってくる来訪神のこと)も、もともとは年の変わり目という特別な時期にだけ姿を現すものだったのです。

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此等の常世人の第二章 常世人

翁と姥が村の儀式を仕切っていた

こうした「常世人(とこよびと)=海の彼方の神様の世界からやってきた存在」たちが、村の若者に大人になるための儀式(成年戒/通過儀礼のこと)を行う役割を担っていた痕跡が、はっきりと残っています。春のお祭りの一部として行われる「春田打ち(はるたうち)=田植えの前に豊作を祈って田んぼを打つ真似をする儀式」では、その場の雰囲気や力を周りに伝える動き(感染所作/見ている人や土地に影響を与えると信じられた儀礼的な動作)の主役は、老いた男性(尉/じょう)と老いた女性(姥/うば)でした。この春田打ちが、五月にも改めて行われるようになったものが「田遊び(たあそび)=田んぼの神様を喜ばせるために演じる民俗芸能」です。田遊びにも、後から「田主(たぬし)」などと呼ばれる翁(おきな=老人の姿をした神的な存在)が登場するようになりましたが、もともとの大事な部分は変わってしまっています。

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簑笠着た巨人及び…第二章 常世人

神様の行列が芸能の原点

蓑(みの)と笠(かさ)をつけた大きな神様と、その神様のお供をして一緒に行進する神々のグループが行う動作や演技、その神々から厳しい仕事を与えられて鍛えられる若い女性の労働の場面、そして敵や害虫・害獣などが「もう悪いことはしません」と約束する内容を演じる神事(神様にまつわる儀式)の劇や舞――これらがその例です。これこそが、田楽(でんがく:田んぼにまつわる伝統芸能)のもとになった「田遊び(たあそび:田植えの豊作を祈る儀式的な行事)」の本来の姿であり、呪師伎芸複合(じゅしぎげいふくごう:呪術を行う芸人の技が組み合わさった芸能のかたち)が生まれる前の、もともとの形です。高野博士が「呪師猿楽(じゅしさるがく:呪術的な要素を持つ猿楽という芸能)」と呼んだ――

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なる芸能の存在を…第二章 常世人

田楽は田んぼの祈りから生まれた

ある芸能(人々の前で行われる演技や演奏などの表現活動)の存在を主張されたことには、心から感心せずにはいられません。ただ、その芸能の中心(本芸)は「呪師(じゅし)」(神様や霊を呼び出したり、災いを払ったりする祈祷師のような存在)であり、そこから派生した脇役的な芸が「猿楽(さるがく)」(滑稽な物まねや曲芸などを含む古い芸能)で、単に「呪師」とも、「呪師猿楽」とも呼ばれていたようです。この「呪師猿楽」が、田んぼに関係する祭りの遊び(田遊び)へと変化して、やがて「田楽(でんがく)」(田植えの時期に行われた音楽や踊りを伴う芸能)になった、というのが私の考えです。ひと言でまとめるなら、田楽は五月の田遊び(田植えの季節に田んぼで行われる祭りの行事)から生まれた、と言ってよいでしょう。

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此猿楽は第二章 常世人

狂言の先祖は喋り芸だった

この猿楽(さるがく・中世の芸能のひとつ)は、田楽(でんがく・田んぼの神事から生まれた芸能)の世界では、「もどき」と呼ばれる脇役(わきやく)の中に、その名残を残しました。後に「能楽」と名前を変えた猿楽能(さるがくのう)の世界では、さらに変化を重ねて「狂言方(きょうげんかた)」という役割にまでなっていきました。「わき方(わきかた)」という役割も、もちろんこの流れから生まれたものです。まとめに近いことを言うと、「翁(おきな)」という存在も時代とともに洗練されていきましたが、「黒尉(こくじょう・翁の面をつけた役のひとつで、黒ずんだ老人の面が特徴)」はその猿楽のいちばん古い姿を今に伝えている、と言ってよいのです。 また、「猿楽」という言葉の使われ方の一部には、武士の時代よりもっと昔から、「興言利口(きょうげんりこう)」などと呼ばれていたような意味合い、つまり「言葉を面白おかしく語ったり、声に出して述べたりすること」という意味が含まれていました。

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興言利口も第二章 常世人

能と狂言はこうして分かれた

「興言利口(こうげんりこう)」というのは、もともとは面白い話や冗談のことですが、やがてその話のネタ(素材)そのものもそう呼ばれるようになりました。これは、「狂言」という言葉の元の当て字が「興言」であることとも関係しています。また、猿楽(さるがく/平安〜室町時代に行われた芸能で、能や狂言のもとになったもの)が「言葉で笑わせる方向」と「演技・舞で見せる方向」の二つに分かれていったことも示しています。能楽がもっぱら「猿楽」と呼ばれていたのは、この「舞や演技で見せる方向」が中心だったからではないかと思われます。昔の出来事を語る「故事語り(こじがたり)」に、曲舞(くせまい/リズムや節のある語りと舞を組み合わせた芸能)の音楽的な節回しを取り入れ、さらに祝いの言葉をおどけたように並べ立てる表現をよりリアルに演じるようにしたことが、猿楽の主要な芸をどんどん発展させていったということです。

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能芸の方は寧先輩…第二章 常世人

能の翁は呪術の踊りだった

能(日本の伝統芸能)のやり方は、それより先に存在していた「曲舞(くせまい)」(中世に流行した歌と踊りを合わせた芸能)や「田楽(でんがく)の能」(田植えの祭りから生まれた芸能)から取り入れたものらしいのです。 猿楽能(さるがくのう)(後に能へと発展する芸能)に登場する「翁(おきな)」(神様の使いとされる老人の役)は、言葉を述べたり語ったりする部分をあまり重視しないで、「唱門師(しょうもんじ)」(祈祷や芸能を行う特殊な宗教者たち)のグループが行っていた曲舞の流れをくみ、「反閇(へんばい)」(足を踏み鳴らして邪気を払う呪術的な動作)の動きをより大切にする方向に進んでいったようです。 ただし、そもそも「猿楽」というものは、田楽の一部にも含まれていたのです。だから逆に、田楽の演目の中にも猿楽が入り込んでいた、という関係にあったのです。

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第三章 田楽と違ふ点
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此が呪師芸や第三章 田楽と違ふ点

能の「翁」は脇役から生まれた

これ(翁という芸能)は、呪師芸(じゅしげい:祈祷や魔除けのために行われた古い芸能)や、その流れを受け継いだ田楽(でんがく:田植えの時期に行われた民間芸能)の脇役、つまり「もどき役(メインの演者をからかったり真似たりする役)」兼「狂言方(こっけいな演技をする役)」から独立して生まれてきたものだと思います。 だから、田楽の中にも、翁が言葉を唱えたり語ったりする場面があったようです。ただ、田楽能をまるごと取り入れて独立したとしても、猿楽能(さるがくのう:田楽と並ぶ中世の芸能で、のちの能の元になったもの)自身にも独自の特徴がなければなりません。その特徴とは、「翁という存在の本家である」ということです。語りの部分は、「開口(かいこう:舞台の始めに祝いの言葉を述べる口上)」や、さまざまな「言ひ立て(決まった言葉を声に出して唱えること)」の方向へと分かれていったのでしょう。

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開口も第三章 田楽と違ふ点

「翁」がすべての始まりだった

「開口(かいこう)」(舞台の始まりに唱える口上・祝いの言葉)も、「言い立て」(神様や人物をほめたたえる口上)も、もともとはすべて「翁(おきな)」(神様としての老人を演じる特別な儀式的な演目)の中に含まれていたと考えられます。奈良に残っている「比擬開口(ひぎかいこう)」(比べ物にならないほど格式高い開口の形式)や、江戸時代に将軍家で行われた脇方(わきかた)(主役を支える役割の演者グループ)による開口の儀式なども、同じ流れから枝分かれしたものです。それらが「もどき」(まねをする・添える役割)と呼ばれたり、脇方が担当するとされていたりすること自体が、そのことを裏付けています。この脇方——そして狂言方(きょうげんかた)(狂言を演じる専門の演者グループ)——が、翁の儀式に対してどんな立場にあるか、また「翁こそが最も古い形を保っている」という信仰があることは、猿楽(さるがく)(能や狂言の元になった芸能)がもともとは「わき芸」(メインではなく脇役的な芸能)だったことを、こっそり教えてくれているのではないでしょうか。

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田楽と違ふ点は第三章 田楽と違ふ点

能のルーツは冬の鎮魂だった

田楽(でんがく/田植えや農作業に合わせて行われた芸能)と猿楽(さるがく)の違いについて言うと、田楽が念仏踊り(仏教の念仏に合わせた踊り)の要素をたくさん持っているのに対して、猿楽は神様のためのまつりごとの舞(神事舞)としての性格を強く持っている、ということができます。 猿楽がまだ呪師(じゅし/祈祷や呪術を行う専門の宗教者)と混ざり合う前の、もともとの姿というのは、冬に魂を鎮める儀式(鎮魂/たまふり)を中心としていて、春に田んぼを耕す「春田打ち」(はるたうち)という農耕の儀式とも深くつながっていました。 田植えのために大勢でやってくる神様たち(群行神/ぐんこうしん)の、もっとも古い姿は、『古事記』や『日本書紀』に書かれているスサノオノミコトの神話の中に見ることができます。また、『播磨国風土記』(はりまのくにふどき/現在の兵庫県あたりの地域の言い伝えや地名をまとめた古い書物)にも、まとまったお話としてではなく、バラバラな形でたくさんの言い伝えが残っています。

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此間に第三章 田楽と違ふ点

神様の正体は変わる

この間に、「常世人(とこよびと)=海の向こうの異世界からやってくると信じられていた神様のような存在」についての考え方が、だんだん変わっていきました。もともとは「海の向こうからやってくる」と信じられていたのに、「天から降りてくる」と思われるようになったり、「山に住む巨人だ」と考えられるようになったりしていったのです。それにともなって、「常世人」という呼び名も変わり、その見た目や性格、また人間との関係なども変化していきました。一方で、もとの姿のままで伝わり続けたり、古い考えと新しい考えが混ざり合った信仰(=神様についての信じ方)が生まれてきたりもしました。私たちの研究のやり方は、実際の体験や事例をもとにして考えていくものです。

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資料の採訪も第三章 田楽と違ふ点

「翁」は体で感じる歴史だ

資料を集めて現地調査をしたり、書物から書き抜きをしたりするのは、すべて、昔から伝わってきたものの中に込められた「かつての人々が実際に感じていた感覚」を呼び起こすためにすぎません。これは「実際の感覚をもとにした人類の歴史学」とでも呼ぶべきものです。能楽の「翁(おきな)」という演目だけにこだわるのではなく、田楽(でんがく:田植えのときなどに行われた古い歌舞の芸能)・神楽(かぐら:神様に捧げる歌や踊り)・歌舞伎、その他の現代に残る芸能はもちろん、呪師田楽(しゅしでんがく:平安時代以前の、呪術的な意味をもつ古い芸能)よりもさらに前の時代の神事(しんじ:神様に関わる儀式)や劇的な舞踊に登場する「翁」の姿についてしっかり知識を積み上げた上で、さらに実際に今も行われている上演を自分の目で見て、ほとんど体験したのと同じくらい深い直感を得なければならないのです。

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沖縄の島渡りをして第三章 田楽と違ふ点

沖縄の島に翁の謎

沖縄のいくつかの島をめぐって、私が実際に見たり聞いたりしたのは、これから話そうとする三つのパターン(型)でした。 三 沖縄の翁(おきなわのおきな)

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祖先考妣の二位の外に第三章 田楽と違ふ点

お盆の正体はあの世からの来訪者

先祖の霊(亡くなったご先祖様たち)が大勢の仲間を引き連れて、家々を訪ねてまわる形。これがお盆の行事です(一)。海の向こうや洞窟を通って、「他界」(あの世・異世界)からやってきた、人間に似ているけれど普通とは違う姿をした不思議な霊的な存在が、村や家を祝福してまわる形。これは清明節(中国や沖縄などで先祖をまつる春の祭り)やその他の祭りの日に見られます(二)。

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村の族長なる宗家…第三章 田楽と違ふ点

神様は海の向こうから来た

村の中で一番えらい家(宗家)の主人や、一族を代表する人たちを連れた「前の族長(むかしの村のリーダー)」が、踊りの場にやってきて、村全体を祝福する場面から始まります。これが最初の演目です。その後、その村だけが持つ独特のおかしな劇(能狂言や即興コント(俄)に似たもの)が演じられ、最後はいろんな芸を次々と披露する「芸尽くし」になります。村によっては、こんな場面もあります。長者(村の有力者)の一行が舞台に登場すると、家の主人が高く掲げた扇に招かれるようにして、海のむこうにある「豊かな国(常世の国・神様の住む理想郷のこと)」から、その土地の神様がやってきて、穀物の種を人々に授けてから去っていく、という儀式を行う村もあるのです。

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此神の名は儀来の大主第三章 田楽と違ふ点

神様の正体は海からの来訪者

この神の名前は「儀来の大主(ぎらいのうふぬし)」、長者(その土地の有力者)の名前は「長者の大主」、家の主人の名前は「親雲上(ぺーちん)」と呼ばれています。これらは「童満祭(わらべみちみつり)」(子どもたちが集まって行う祭り)の中で行われます(これが三番目の例です)。今回の内容については、私自身が直接見て得た知識よりも、島袋源七・比嘉春潮のお二人の調査報告から、さらに大きな助けをいただきました。 この中で(一番目の例)が、「常世人(とこよびと)」(海の彼方にある理想の国・常世から来ると考えられていた神秘的な来訪者)の姿に最も近い形を残しています。

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海の彼方なる大や…第三章 田楽と違ふ点

お盆の翁は神の使者だった

海の向こうにある「大やまと(祖先たちが住むとされた理想の国)」——「あんがまあ」とも呼ばれる国——から、先祖の霊である男女二体と、亡くなった村の人たちの霊が訪れてくる日が、お盆(盂蘭盆/うらぼん:先祖の霊を迎える夏の行事)と結びついていきました。さらにその前の時代には、春の始まりを告げる清明節(せいめいせつ:春に先祖をまつる行事)に、「常世(とこよ)の人(神様の国からやってくる来訪者)」として現れると考えられていました。こうした行事の中心となるのが「大主前(うふしゅめー)」と呼ばれる老人——老女を連れている——で、この老人が時おり立ち上がって、人々への戒め・教え・お祝いの言葉などを述べるのです。

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第四章 尉と姥
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其間に第四章 尉と姥

村祭りの正体は異世界からの来訪者

その間に、従者たち(神様のお供をする仲間たち)がそれぞれの芸を次々に披露します。 このことからも、日本本土の古い記録から考えることができる「常世のまれびと」(遠い異世界からやってくる神様のような訪問者)のもともとの姿が、だんだん明らかになってきます。 これとつながっているのが、(三)番目の儀式です。この儀式は「村踊り」とも「村芝居」とも呼ばれています。祖先の霊(先祖たちの魂)をひとりの「長者の大主(おおぬし)」という主役として表し、その仲間の霊たちを一行として描いたものです。 今ではそのもともとの意味は忘れられてしまっていますが、この儀式はもともと、あの世にある神聖な場所(他界の聖地)からやってきた存在を表したものに違いありません。

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親雲上は第四章 尉と姥

祝福の神様、実は後付けだった

親雲上(うやんぬふ:琉球の身分の高い人物)は、もともと神様の一行から正面で祝福を受ける人として、あらかじめ一行を待つ役割に変わっていったのでしょう。そこに「儀来の大主(ぎらいのうふぬし:神話的な祝福をもたらす神の長)」が加わったのは、「長者大主(ちょうじゃうふぬし:祝福をもたらす神の一行のリーダー)」一行の本来の意味が忘れられてしまったため、新たに「祝福をもたらす神様」として考え出されたからです。 これがさらに形を変えると(第二の段階になると)、いろいろなバリエーションが生まれています。「なるこ神・てるこ神」という二体の、聖なる彼岸(あの世・神様の国)の支配者とする地域もあれば、ただ一体の海の神様とする地域もあります。

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もつと純化しては第四章 尉と姥

海の向こうから神がやってくる

さらに純粋な形になると、海の向こうにある「ニライ・カナイ」(沖縄に伝わる、海の彼方にあるとされる理想郷・神々の国)の神として考えられ、さらにそれが天上の神となり、「おぼつ・かぐら」と呼ばれる天の国のイメージへと発展していきます。その神話が実際の歴史の話のように語られるようになったのが、「アマミキョ・シネリキョ」という夫婦の神様です(沖縄の創世神話に登場する、島々を作ったとされる男女の神)。また、先島諸島(宮古・八重山など沖縄の西の島々)の中には、「マヤの国」という死後の世界や彼岸にある聖なる場所から、「マヤの神」や「トモマヤ」と呼ばれる神がやってくるという言い伝えもあります。この神は、ビロウ(南国に生える大きなヤシの仲間の木)の葉で作ったみのや笠をかぶった、ふつうとは異なる不思議な姿をした神様です。

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同じく第四章 尉と姥

鬼は神様の卵だった?

同じように、沖縄の先島諸島(八重山・宮古などの離島)には、「あかまた」「くろまた」という名前の不思議な存在が登場します。これらは仮面(お面)の色から名づけられた、二体の巨人です。彼らはつる草を全身にまとい、おそろしい顔のお面をかぶって現れます。場所によっては「青また」という存在が代わりに登場することもあり、洞穴や村から離れた岬などから出てきます。これらは、いわゆる「鬼」と呼ぶべき存在です。「にらい(海の向こうにある理想の世界)の大主(おおぬし=神様のような支配者)」として清らかな姿で現れる神と比べると、こちらの宮城(特定の場所)からやってくる存在は、先祖の霊と神様のちょうど中間くらいの姿をしていると言えます。

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祖霊の第四章 尉と姥

巨人の正体は先祖の霊だった

先祖の霊(ご先祖様の魂)が、異様な姿をしていて人々に恐れられていたこと、そして「まれびと」(神様や霊が外の世界からやってきて人々を訪問するという考え方)との関係が忘れられてしまった時代になると、人々はただ「幸福をもたらしたり、悪いことをした人を罰したり、大切な教えを授けたりするためにやってくる大きな巨人」として想像するようになるはずです。さらにこの存在が、神聖なものとして、また道徳的なものとして考えられるようになると、「にらいかない(沖縄などに伝わる、海の彼方にあるとされる理想の国、または神様の世界)」の神様になっていくのです。 四 尉(じょう・老いた男性の面)と姥(うば・老いた女性の面)

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かう言つて来ますと第四章 尉と姥

神様は老夫婦だった

こうして考えてくると、「考妣(こうひ)」(亡くなった父と母を神聖な存在としてまつること)の二体、または一人の聖なる者が、大勢の従者を連れてやってくるという、神様が訪れる場面が思い浮かんできます。日本本土で古代から現代まで続いている「まれびと」(めったに来ない特別な来訪者・神様のような存在のこと)の姿も、じつはこれと同じことなのです。聖なる老人の二体といえば、すぐに思い浮かぶのが、謡曲「高砂」に登場する松の精と住吉明神がセットになった「尉(じょう)と姥(うば)」(老爺と老婆の一対)です。

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の形です第四章 尉と姥

翁と媼は神様の使いだった

謡曲(能楽で歌われる詩)の「高砂」がその例を示す以前から、すでに「翁(おじいさん)と媼(おばあさん)がセットになっている」という考え方は存在していました。平安時代の初め頃には、大嘗祭(天皇が即位後に初めて行う重要なお祭り)で引き回す飾り物である「標山(しめやま)」の中にも、蓬莱山(神仙思想における理想の山)をかたどったものの上に、翁と媼の人形を立てて飾っていました。つまり、「常世の国(神様や霊魂が住む、海の彼方にある永遠の理想郷)」からやってくる「まれびと(神様やその使いとして、外の世界からやってくる特別な訪問者)」として、父と母にあたる二つの存在が考えられていたのです。やがてその常世の国のイメージが「蓬莱山」として中国風に変化した時代になっても、仙人のかわりに翁と媼を置くことに、誰も違和感を覚えませんでした。謡曲「高砂」に登場する住吉明神は、播磨の国(兵庫県南部)からはるか向こうにある津の国(大阪府北部)を指し示す場所に現れますが、これは「神様がどこか遠くから訪れてくる」という信仰と、「神様同士が出会い結ばれる(神行き媾ひ=神様の縁結びのような考え方)」という信仰の、両方を人々の心に印象づけるものになっているのです。

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日本の書物で第四章 尉と姥

変装したのは実は巫女だった

日本の古い書物の中で、「高砂式のまれびとの信仰」(神様や特別な来訪者を迎える儀式的な信仰)を最も正確に記録しているのは『神武紀』(日本書紀の神武天皇の章)です。香具山(かぐやま)の土を、大和(やまと)の地の代表として呪術に使うために取りに行ったのは、椎根津彦(しいねつひこ)と弟猾(おとうかし)という二人でした。弟猾はこれまで男性だと思われてきましたが、兄猾(えうかし)が兄か姉かはともかく、弟猾はもともと女性の神巫(かみかんなぎ・神様の言葉を伝える女性)だったのです。この二人は、男性の方は老いたおじいさんに、女性の方は老いたおばあさんに変装して、敵の中をくぐり抜け、無事に使命を果たしました。

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此は第四章 尉と姥

お正月の神様は老夫婦だった

これは、「常世人(とこよびと)」(海の彼方にある永遠の国=常世の国からやってくる神聖な来訪者)への信仰があったからこそ生まれた物語です。その根底には、「敵には祟りを、味方には祝福を」もたらす呪詞・呪法(じゅし・じゅほう)(おまじないの言葉や儀式)の力が隠されています。そして、そういった呪詞や呪法は、常世の国(この世の外にある、神々が住む永遠の楽園)からもたらされたものだと、昔の人々は信じていたのです。 また、年の暮れにやってきて、お正月には「年棚(としだな)」(新年に神様をお迎えするために飾る棚)の客となる「歳神(としがみ)」――「歳徳神(としとくじん)」とも呼ばれます――の姿も、能楽の演目「高砂」に登場する白髪の老夫婦(尉=じょう=老爺と姥=うば=老婆)のようだと表現する地方が多いようです。

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さすれば第四章 尉と姥

歳神は海から山へ変わった

つまり、歳神(としがみ:新年にやってくる神様)は、亡くなった父と母、両方の先祖の霊だということになります。 江戸時代ごろの歳神は、海の向こうにある「常世(とこよ)」という理想の国からやってくる神様とは違って、山からやってくるものだと、ほとんどの人に思われていました。 同じ名前の神様でも、昔と今とでは性格がかなり違っている場合があるようです。出雲(島根県)の人たちが伝えてきた「御歳神(みとしがみ)」や「大歳神(おおとしがみ)」は、山の神である「山祇(やまつみ)」と同じグループに並べて記されているところを見ると、山の中にいる神様だと考えられていたようです。 これには理由があります。もともと海の神様(海祇・わたつみ)だったものが、時代とともに山の神様(山祇)へと変わっていく、そうなるだけの理由が昔からあったからです。

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第五章 近代の歳神に
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近代の歳神には第五章 近代の歳神に

正月の神様は一人じゃない

現代の歳神(としがみ・正月に訪れる神様)のイメージには、穀物(作物の豊かさ)との結びつきが薄れてきて、代わりに「暦(こよみ)の年」というイメージが強くなっています。ただ、「歳神」という名前自体は、民間に広まった陰陽道(おんみょうどう・方角や運勢を占う古い信仰)などが、もともとあった古い神様の名前を使い続けて伝えてきたものだと考えられます。だから歳神には「どの方角からやってくるか」といった方位(ほうい)のイメージがくっついているのです。 山からやってくる歳神についても、「一人でやってくる」と信じられている地域があります。一方で、「大勢の神様が列をなしてやってくる(群行・ぐんこう)」と信じられている地域もあります。つまり、歳神にはお供(おとも)の神々がいる、と考えられていた場所もあるということです。

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かうなると第五章 近代の歳神に

お正月飾りをしない村の秘密

こうなってくると、祖先の霊が帰ってくるという信仰(祖霊来臨=先祖の霊が年の節目に家に戻ってくるという考え方)に近づいてきます。 年神棚(としがみだな=お正月の神様をまつる棚)を飾らず、年縄や年飾りもしない家や村が日本にはあります。こうした家や村は、山の神としての歳神(さいじん=山からやってくるお正月の神様)よりももっと古い時代の、「常世の神」(とこよのかみ=海の彼方や異世界からやってくる神様)を迎える古いやり方を今も守っているのだと思われます。ただ、その家や村の多くは、なぜそうするのかという本来の理由をすでに忘れてしまっているのでしょう。 しかし、それだけではなく、他にも別の理由がありそうです。 第五章 山に住む人々

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常世の国を第五章 近代の歳神に

海の神が山に引っ越した!?

「常世の国」(とこよのくに:死者や神が住むとされる、この世とは別の理想的な世界)を、山の中にあると想像するようになったのは、海のそばに住んでいた人たちが山の方へ移り住んだからです。もともと、山に昔から住んでいた人たちの間にも、そういった信仰があったかもしれません。しかし古い書物を調べてみると、海の神様が持っていた性格や役割が、山の神様にそのまま当てはめられた部分がたくさん見つかります。このことから私は、「山の神に仕える人=山人(やまびと)」というものについて、少し複雑な話になりますが、きちんと説明しなければならなくなりました。

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山守部と山部とは…第五章 近代の歳神に

山の民には族長がいた

「山守部(やまもりべ)」と「山部(やまべ)」は、別々のグループ(部曲=古代の職業集団)です。私は、山部というのは「山人(やまびと)」=山に住む人々の集団をまとめた呼び名だと考えています。その集団のリーダーが「山部宿禰(やまべのすくね)」という人物だったのでしょう。ちょうど「海人部(あまべ)」という海の人々の集団が「あま」と略して呼ばれるように、山部も「やま」と略して呼ばれていました。「山直(やまのあたい)」や「山君(やまのきみ)」といった名前がその例です。海の人々(海人)は「安曇氏(あずみし)」という豪族が管理していましたが、安曇氏は海人部の人々と同じ血筋の族長ではない、と私は主張しています。一方、山部氏は山に住む人々(山人族)の本当の長(トップ)だったようです。

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安曇氏の如きも第五章 近代の歳神に

山人は神の使いだった

安曇氏(あずみし)のような氏族(一族)も、どれほど海人(あま)=海で暮らす人々の血筋から離れているか、正直なところ信じられません。山に住む人々である「山人(やまびと)」が、もともとの仕事を忘れるようになってくると、「山部(やまべ)」と「山守部(やまもりべ)」という二つのグループが混同されるようになります。では、山人とはいったいどんな人々だったのでしょうか。 私(折口)の仮説では、山人とは「山の神に仕える神人(じにん)」=神さまに奉仕する特別な人々だったと考えています。海で暮らす「海人部(あまべ)」が、海の神である「海祇(わたつみ)」に奉仕していたように、ときには海の神の代理人という立場で、海の神にまつわる儀式や行事を執り行うことがありました。

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海人の献つた御贄は第五章 近代の歳神に

海の民は神の化身だった

漁師(海人)が神様に捧げた食べ物(御贄)は、海の神様(海祇)の代理として献上されたものであり、同時に海の神様そのものが行動している姿でもありました。私は、海の民(海部)や山の民(山部)について、単純に「先住民の子孫だ」とだけは言えないと考えています。同じ集落の中から、海の神に仕える人・山の神に仕える人として選ばれた者たちが、もとの村を離れて別の場所に住むようになり、その人数が増えていくうちに、やがて一つの村ができあがった例もあるのではないかと思います。

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勿論第五章 近代の歳神に

村の若者が神様を演じてた

もちろん、もともとその土地に住んでいた人たちが、新しい支配者に従うことを誓う言葉(寿詞=神や人を祝う言葉)を捧げることが、海の人・山の人による「祝福とお供え物の始まり」だと考えることもできます。でも、それは後からできた形です。 もっと古い姿はこうでした。「常世人(とこよびと)」——つまり、海の向こうにある神様の国「常世(とこよ)」からやってくる存在——に扮するのは、村の若者たちの大切な役目(聖なる仕事)だったのです。 それが、山の中へと広がっていくにつれて、「常世人」の代わりに「山の神」がその役割を担うようになっていきました。

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此までは第五章 近代の歳神に

山の神は仲介者だった

これまでは、海の神(常世の海祇=海の彼方にある永遠の世界にいる神)の呪文や祝詞(のりと=神への言葉)を受け取って、みんなに伝える代表者は「山の神」でした。その山の神が、山の中にいる多くの自然の精霊たちに、海の神からの呪文を伝える役割を果たしていたのです。ところが、それがある時期に変わって、山の神の代わりに海の神そのものが直接その役を担うようになりました。 そうなると、山の神が使っていた呪文の言い方も変わってきます。もともと呪文には2つのスタイルがありました。「宣下式(せんげしき=神が人間に命令するように言い下ろす言い方)」と「奏上式(そうじょうしき=人間が神に向かってお願いするように申し上げる言い方)」です。でも山の神の場合は、そのどちらでもありませんでした。山の神は、上でも下でもなく、仲間として精霊たちに語りかける「仲介者(なかだち)」だったからです。つまり、「対等な立場でお互いに折り合いをつけながら話す」というスタイルをとっていたのです。

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此を鎮護詞と言ひます第五章 近代の歳神に

祝詞と寿詞の間に何がある?

これを「鎮護詞(ちんごし)」(神や精霊をなだめて場を守るための言葉)と呼びます。神様から人々へ言葉を下す形式のものは「のりと(祝詞)」、人々から神様へ申し上げる形式のものは「よごと(寿詞)」という名前がありました。鎮護詞はちょうどその中間に位置するもので、あくまでも「山の神」という立場から、精霊(山に宿る霊的な存在)を相手に語りかける言葉なのです。山の神に仕える「山の神人(やまのかみんど)」(山の神に仕える特別な役職の人)が生まれたのは、このためです。ですから、海の神「海祇(わたつみ)」の代わりを務める「海人の神人(あまのかみんど)」(海の神に仕える人)が、その土地にもともと住んでいた人々や、外からやってきた別の民族であるとすれば、山の神に仕える「山人(やまびと)」という役割が生まれたのは、それよりも後のことになります。

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即、海祇の代りに…第五章 近代の歳神に

村長より偉い海の訪問者

つまり、海の神(海祇/わたつみ・海を司る神のこと)の代わりに祭りごとを行う人は、村の長(おさ)よりも立場が低いということになります。ところが、常世人(とこよびと・海のかなたの理想郷「常世の国」からやって来るとされた訪問者)は、村の長よりも高い立場にいたのです。だから、海で暮らす人たち(海人/あま)が、従いますという誓いのことば(寿詞/よごと・神や貴人にささげるお祝いの言葉)や、お供えの食べ物(御贄/みにえ)をささげるようになったのは、山で神に仕える人たちのやり方がさらに影響したからです。 海辺の村の人たちの中では、ふだんの暮らしとは別のところに住んで神さまに仕えるというしきたりが生まれました。そして、男女それぞれにそういった神聖な役目を担う人が現れるようになりました。女性の場合、その役目を担う人のことを「たなばたつめ」と呼びます。

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第六章 天語歌
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かうした人々の間…第六章 天語歌

古代の村人は異人扱いだった

こうした人々の間にできた村が、別の種類の村と混同されるようになったのでしょう。山の中にある村も、同じようにしてできたのでしょう。その村が、野蛮な人々の村だと誤解されることもあったかもしれませんが、これは比較的はっきりと、国栖(くず・奈良県吉野地方などに住んでいたとされる古代の山の民)や土蜘蛛(つちぐも・大和朝廷に従わなかったとされる古代の地方の民)といった人々とは区別されていたようです。海人部(あまべ・海での漁や航海を専門とする人々の集団)の人たちが、いわゆる「あまのさえずり」(海の民が話す、普通の人には聞き取りにくい独特の言葉や話し方)をする異民族のように思われていたほどではなかった、ということです。

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海部の民は第六章 天語歌

占い師の意外なルーツ

海で生きる「海部(あまべ)」という人々は、おまじないや呪文(神や霊に働きかける言葉や行為)に慣れ親しんでいました。これが、各地に広まった「卜部(うらべ)」(占いや神事を専門に行う一族)の起源です。 海部の人々の中でも、小・中規模の宗家(一族の中心となる家)からは、宮廷(天皇の宮殿)に仕える「馳使丁(はせつかいのよほろ)」(使者・使い走りの役人)が生まれました。これが「海人の馳使丁」と呼ばれる人たちです。 その中でも、「神祇官(じんぎかん)」(国の神様に関する仕事を取り仕切る役所)に仕えた人たちは、特に「あまはせづかひ」と呼ばれていたようです。さらにそこから、宮廷で神話や伝承を語り伝える専門家である「語部(かたりべ)」として、「海語部(あまのかたりべ)」という人々が生まれたと考えられます。

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天語部は鎮護詞を…第六章 天語歌

呪文が歌になった瞬間

天語部(てんごべ:神様の言葉を伝える役割の人たち)は、場を鎮め守るための言葉(鎮護詞)を唱えると同時に、その中でも特に大切な「真言(まごと:神聖な呪文のような言葉)」にあたる歌を、主に歌うようになっていきました。それが「天語歌(あまがたりうた)」と呼ばれるものが存在する理由です。そして、それと同じような性質を持ちながらも、寿詞(よごと:お祝いや長寿を祈る言葉)や鎮護詞のような形式をとらないものが、「神語(かみがたり)」と呼ばれていたようです。その神語歌の末尾には、天語部がよく使う決まり文句らしい「あまはせつかひ、ことの語り詞也、此ば」という表現が見られます。

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と言ふ第六章 天語歌

占い師が乗っ取った宮廷の秘密

このように、決まった形式が定着していったわけです。 海の神話や言葉を語る「海語部(うみがたりべ)」(海にまつわる物語や祝いの言葉を語ることを役割とした人々のグループ)は、全国各地の海の民(海人)の中にも関わりながら広まっていきました。一方で、占いを主な仕事とする海の民の「卜部(うらべ)」(占いを専門に行った人々のグループ)も、各地に戻って住むようになり、卜部に属する人々の集団が全国に広がっていきました。 宮廷(朝廷)に仕えていた海語部は、やがて卜部の陰に隠れる形で目立たなくなり、卜部という名前のもとで、もともと海語部が行っていた「国や人を守るための祝いの言葉を唱える儀式」を引き継いで行うようになりました。さらにこの卜部は、陰陽寮(おんみょうりょう)(天文・占い・暦などを管理した国の役所)にまでその影響力を広げていきました。

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踏歌の節の夜の異…第六章 天語歌

天皇を祝う異装行列の正体

踏歌(とうか・足を踏み鳴らして歌い踊る宮中行事)の夜に行われる異装(いそう・ふつうとは違う変わった服装)の行列は、もともと卜部(うらべ・占いを専門とする古代の氏族)が「海語部(あまかたりべ・海にまつわる言葉や物語を語り伝える役割の人々)」として担当していた仕事だったようです。その行列は、大勢の神々がぞろぞろとやってくる「群行神(ぐんこうしん・集団で移動してくる神)」の姿をあらわしていました。そしてその作法(やり方・しきたり)は、山に住む神秘的な人々である山人(やまびと)の影響を受けたものでした。行列の目的は、天皇(主上)や宮殿に対して「私たちはあなたに従います」という誠意を示し、祝いの言葉を申し上げに来ることだったのです。 六 山からのおみやげ

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此高巾子の異風行列は第六章 天語歌

天皇の行列、山人にあらず

この高い冠(かんむり)をかぶった見慣れない行列は、山に住む人たち(山人=山中に暮らす異界の存在とされた人々)のものでもありませんでした。万葉集には、元正天皇(奈良時代の女性天皇)が添上郡(現在の奈良県北部)の「山村」に行幸(天皇のお出かけ)された記録と、その時によまれた歌が残されています。

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あしびきの山に行…第六章 天語歌

翁の正体は山からの来訪者

「あしびきの山へと入っていった山の人の、その心の中はわからない。山の人よ、いったいあなたは誰なのか。」(舎人親王(とねりしんのう)・万葉集巻二十より) ※これは、山の奥へと消えていった「山人(やまびと)」と呼ばれる謎めいた存在について詠んだ和歌です。「山人」とは、ただの山に住む人ではなく、山の向こうからやってくる、何者かわからない不思議な訪問者のことを指しています。古代の人々は、山の向こうには別の世界があると信じており、そこからやってくる者は神聖な力を持つ存在だと考えていました。折口信夫(おりくちしのぶ)はこの歌に注目し、「翁(おきな)」という存在の起源(ルーツ)を探るヒントを見出しました。翁とは、能(のう)などの芸能に登場する白髪の老人の姿をした神的な存在のことです。その翁のイメージは、このような山の彼方からやってくる正体不明の「まれびと」(神や霊的な存在が外の世界から人間の世界を訪れること、またはその訪問者)の姿と深く結びついているのです。

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仙人を訓じて第六章 天語歌

山の神と人は同じ存在だった

「仙人」という言葉を「やまびと(山に住む人)」と読んでいた時代には、山に住む神に仕える人々が暮らす「山村」の住民たちも、同じく「やまびと」と呼ばれていました。この和歌は、「神様のようなやまびとである私が、やまびとに会いに行った」という意味を持っています。その「やまびと」とは、歌を贈られた「あなた自身」のことであり、他の誰かではないはずです。「おっしゃるやまびととは、あなた以外にはいないでしょう」と、ちょっとしたユーモアを交えながら相手をほめたたえる(頌歌=人をたたえる歌)のです。この歌がこのような表現を生み出したのは…

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あしびきの山行き…第六章 天語歌

山の神からの贈り物

険しい山(「あしびき」は山にかかる枕詞(まくらことば)=特定の言葉の前につける決まり文句)を越えて山の中へ分け入っていったところ、山に住む人(山人=山の神や山の精霊のような存在)が、私にくれた山のみやげ(山づと=山からの贈り物)がこれです。――元正天皇の歌(万葉集巻二十より)

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と言ふ御製であつて第六章 天語歌

お土産の語源は山からの贈り物

これは天皇が詠まれた和歌で、「山人(やまびと)」という言葉が重なり合ったイメージから生まれた、うれしい気持ちがにじみ出ています。しかしそれよりも注目してほしいのが、「山づと」という言葉です。「家づと」とは意味が逆になっています。もともとは「山づと」「浜づと」というような使われ方をしていました。「づと」とは、山や浜からの贈り物を入れる容れ物(包みや器のこと)という意味で、山から来た人がくれるものが「山づと」です。そしてそこから転じて、山から帰ってきたときのお土産の包みという意味にもなっていきました。

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第七章 松ばやし
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元は第七章 松ばやし

山人が里に持ち込んだ神秘

もともとは、山に住む人(山人:山の中に暮らし、里の人とは異なる特別な存在とされた人々)が、里に持ってきてくれる「神聖な山のもの」でした。これは、後で話す山姥(やまうば)にも関係する話で、山の草・木の枝・宿り木(寄生木:他の木に根を張って生きる植物で、神聖なものとされた)の仲間か、あるいは山の柔らかい木を削って作った杖、またはそれを短くした形の「けずり花」(木を薄く削って花のように広げた飾り)のようなものだったと考えられます。山のかずら・シダの葉・宿り木・野老(ところ:山芋の仲間の植物)・山藍・葵・榧(かや)・山桑などが使われ、時代によってどの植物が使われるかは変わっていったのでしょう。 柳田国男先生の「杓子(しゃくし)」についての研究をここに借りて考えてみると、これもやはり、山人が魂を元気づけるため(鎮魂:人の魂を落ち着かせたり呼び戻したりする儀式)に使った「木のひさご」(ひさご:ひょうたんのような形の器)だったと言えます。

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神代記のくひさも…第七章 松ばやし

しゃもじは神様だった

『古事記』などに登場する「くひさもちの神」という神様は、ひょうたんの神様ではなく、木をくり抜いて作った昔の木のしゃもじ(杓子=食べ物をよそう道具)の霊を表した名前だったと考えられます。この「くひさ」と呼ばれていたしゃもじは、いつごろから山からの贈り物として使われていたかははっきりしませんが、意外にも、かなり古い時代からあったものらしいのです。こうした山に住む人々(山人=山から里へやってくる、神聖な力を持つとされた人々)は、新春の前の夜に行われる冬のお祭り「鎮魂式(ちんこんしき=魂を体に呼び戻して生命力を高めるための儀式)」の夜にやってきます。つまり、真冬の厳しい寒さの中にやってきたのです。

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若宮祭りの翁の意義が第七章 松ばやし

翁は山の神だった

若宮祭りに登場する「翁(おきな)」という存在の意味が、ここからわかってきます。 若宮祭りの翁は、たんに「位の高い神様」というよりも、「ことほぎ(お祝いの言葉を述べる)の山の神」だったと考えられます。そして、春日大社の本社と若宮の神様に対して「鎮魂(魂を落ち着かせる儀式)」を行うことこそが、もともとの意味だったのでしょう。 寺で「夜叉神のことほぎ(夜叉の神がお祝いを述べる行事)」や「菩薩練道(菩薩が練り歩く儀式)」が行われていたのも、地位の高い存在に対して誓いを立てたり、祝福を捧げたりする風習から来ています。神社の神様に対しても、誓いやお祝いのために「ことほぎの翁」がやってくることがある——これは、実はちっとも不思議なことではないのです。

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猿楽家の「松ばや…第七章 松ばやし

翁の正体は踏歌にあった

猿楽師(昔の芸能者)たちが行う「松ばやし」という儀式も、昔は年の暮れに行われるのが本来の形だったようです。しかしだからといって、そこから「翁」という演目が生まれたとは言えません。「松ばやし」では「湛へ木(たたえぎ)」(神様を迎えるために木を捧げる儀式)を行うだけだからです。 「一つ松」という行事は、「翁」の一部分を今に残しているものです。でも本来はその後に続くはずだった、「踏歌(とうか)」(足を踏み鳴らしながら歌う祝いの儀式)を含んだお祝いの式が、いつの間にか消えてしまったのです。 つまり、「五節千歳(ごせちのせんざい)」(宮廷の祝いの場で舞われた芸能)のような演目が踏歌から発展したのは、武士が世の中を動かした時代(武家時代)の人々の好みが反映されたからなのでしょう。

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雅楽にも「若」を…第七章 松ばやし

翁の正体は山の神だった

雅楽(日本の古典音楽・舞)の中にも、「若い人」に舞わせるために、本来の大人向けの舞を子ども向けの舞(童舞)に変えたものがあります。猿楽能(さるがくのう/能の古い形)に登場する「翁(おきな)」という人物は、魂を落ち着かせる(鎮魂)ために、山の神様のような存在が人里へやってくることを表しています。また、三人の尉(じょう/白髪の老人のお面をつけた役)が登場するのは、神様が集団でやってくることを意味しているのでしょう。このことについては、また後で詳しく説明します。翁の歌詞にある「ところ千代まで」という言葉は、「野老(ところ/山芋の一種)」という植物の名前をかけながら、村や国の土地を守り鎮める(土地鎮め)ための言葉です。こうした古い歌詞が少なくなったのは、時代とともに別の歌詞(替え文句)が増えていったからです。

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さうして第七章 松ばやし

「翁」は春を呼ぶ存在だった

そして、春のお祭りで田んぼを耕すときに唱えるような、子どもや作物がたくさん増えることを願うおまじないの言葉が(翁の演目に)入っているのは、翁という存在が新年・初春を中心とした行事になっていき、年末の鎮魂の儀式(魂を体に呼び戻し、生命力を高めるための儀式)から離れていったからでしょう。ただし、春に田んぼを耕す行事と鎮魂の儀式は、もともとひとつながりの行事です。ですから、山に住む人々(山人)と深い関わりを持つ猿楽(能の前身となった芸能)の「翁」という役が、初春の行事に引きつけられていったのには、それなりの理由があるのです。ここで試しに、猿楽における「翁」の原型がどんなものだったかを、簡単なモデルとして考えてみましょう。翁が舞台に登場し、おめでたい言葉(祝詞)を述べます。これはその家の主人・長(あるじ)の長生きや繁栄を祝うためのものです。

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其後に第七章 松ばやし

三番叟は儀式の通訳だった

その後に、「千歳(せんざい)」という役が反閇(へんばい/大地を踏み鎮める特別な足踏みの動作)をしながら登場し、言葉を詠みながら踊ります。これは建物や土地を鎮め清めるための儀式です。次に、黒い面をつけた「三番叟(さんばそう)」という役が登場して、翁が唱えたお祈りの言葉や、千歳の動作に対して、おもしろおかしい動きを交えながら、まるで「通訳」するかのような動作を見せます。それがそのまま、村の農作業や暮らしへの祝福にもなっていくのです。このくり返しによって、二人の翁(おきな)が伝えようとした意味がわかりやすくなると同時に、ふりごと(物語や言葉を繰り返し語ることで意味を広げていく要素)がどんどん増えていきます。そうして、難しくてわかりにくい部分をしっかり人々に伝え、堅苦しい儀式的な部分をより身近なものにして、村の人々の日常生活と深く結びついていったのでしょう。

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猿楽能の座の村が第七章 松ばやし

門松は神を招く木だった

猿楽能(さるがくのう/中世の芸能で、現在の能の元になったもの)の一座が住む村は、大和(やまと/現在の奈良県)では、多くの場合、丘や山のそばにありました。特に「外山(とびさ)」という場所などは、山に住む人々(山人)を連想させる地形です。 「松ばやし」という行事も、もともとは春の門松——そもそもは歳神(としがみ/お正月にやってくる神様)を迎えるための、神様を招き寄せる木だったのですが——それを山から切り出してくる行事でした。「はやし」という言葉は「伐(き)る」という動作をおめでたい言葉に言い換えたものであり、これもやはり、山に住む人々が山の恵みを贈り物として持ってくる習慣に近い行事だと言えます。

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かうした記憶が第七章 松ばやし

お寺の奴隷が能楽師の先祖だった?

このような記憶(伝承や言い伝え)が、お寺に仕える奴隷たちが「土地の神様や夜叉神の子孫である」とされていた慣習にならって、奈良の西部にある大きなお寺でお祝いの言葉を述べる役割や、集団で行列をつくる不思議な行列に奉仕するようになっていった、ということのようです。これは、高野博士が唱えた「観世・金剛などの名前(能楽の家の名称)は、菩薩(仏教における悟りを目指す存在)の修行の場で使われる面(お面)をかぶる家系を表している」という優れた考えを、ひそかに裏付けることになるのです。 七 山姥(やまうば)

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猿楽で第七章 松ばやし

山姥は実は神様の妻だった

能楽の一種である猿楽(さるがく)の中で、「山姥(やまうば)」というキャラクターがとても大切にされています。これは、先に発展していた芸能からの影響もあるようですが、「山に住む人々」という視点からも考える必要があります。 山姥とは、山の神様に仕える「巫女(みこ)(=神様に使える女性)」のことです。「うば」という言葉は「姥」と書きますが、これはもともと巫女としての役割を表す言葉で、「おばさん」という言葉とも関係があります。 もともとは、神様を抱いて守る役目の女性のことを指していました。それが時代とともに変わっていき、やがてその神様の「妻」となる女性をも意味するようになっていきました。 そして、そういった巫女たちの中には長生きする人が多かったという事実から、「うば」という言葉が「年をとった女性」というイメージと結びついていったようです。

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第八章 山舞
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うばを唯の老媼の…第八章 山舞

「山姥」は神に選ばれた女だった

「うば(姥)」をただの年老いた女性の意味に考えたのも古くからのことですが、神聖な生活をする女性という意味として、その解釈が広がってきたのでしょう。この山の神の「うば」として選ばれた女性は、村から離れた山野に住まなければなりませんでした。人身御供(ひとみごくう=神への生贄)の白羽の矢の話には、こうした背景もあるに違いありません。七夕つめ(たなばたつめ=機織りの巫女)と同様の生活をして、冬の鎮魂(ちんこん=魂を鎮める儀式)の時に、そしておそらく春祭りの時にも、里に降りてきたものと思います。

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其山姥及び山人の…第八章 山舞

「市場」の起源は鎮魂の場だった

その山姥(やまんば)や山人(やまびと=山に住む神聖な人々)が出てくる鎮魂の場が「いち」と呼ばれるので、これが日本の「市(いち=市場)」の本来の意味なのです。この夜、山姥——そして山人——が来て舞うのが「山姥の舞」で、しだいに村の中にも、この舞を伝える者ができるようになったのでしょう。これは山姥の鎮魂の舞が、山姥を山野に出さない時代になって、山姥の仮装をした者の手に移ったためでしょう。

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山姥といふ称呼から第八章 山舞

山姥が「妖怪」になった理由

「山姥」という呼び名から、山にいる女性と考え、山人を野蛮人や鬼・天狗に近い存在として想像するところから、山姥もまた山の女の怪物だと信じるようになりました。村の冬祭りに来ていた行事が形式化し、ついには形式すら行わなくなって伝説化してしまい、名前と断片的なエピソードだけが残って中身のない時代になると、冬の行事だっただけに冬の夜話の題材にのぼるようになり、こうした、人でありながら妖怪のようでもある存在が考え出されたのでしょう。

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山姥の姥に対して第八章 山舞

山姥の大食い伝説の正体

山姥の「姥」に対して、山男・山人は「山おじ」や「山わる」と呼ばれるようになりました。「山姥の洗濯日」というのは、山の泉に現れて山姥が禊ぎ(みそぎ=身を清める儀式)をする日だったのでしょう。市の日に山姥が来て大食いをしたとか、小さな袋に限りなく物を入れて帰ったとかいう伝説があるのは、鎮魂の夜に持ってくる「山づと(山からの贈り物)」と取り違えて、里の品物や食料を大量に持ち帰ったからでしょう。

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其に第八章 山舞

古代の「市」はどこにあったか

それに加えて、その入れ物が一種独特なものだった印象がくっついたのだろうと思います。 古代には、「市」と呼ばれる場所は、たいてい山に近いところにありました。「磯城長尾市宿禰(しきながおいちのすくね)」という家は、長い丘の先端に市があったためでしょう。この人物が、穴師(あなし)の山人の始まりと言われる人です。布留(ふる)の市もそうで、大和(おおやまと)の神社に関係があります。河内(かわち)の餌香(えか)の市などは、やや山から遠くなっています。

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これなどは第八章 山舞

山姥と市場と冬祭りの三角関係

これなどは、商業としての交易場だったのでしょう。「うまさけ餌香の市にて、代価を払わずに交換した(顕宗紀・室寿詞より)」などとあるのも、市が物々交換を行っていた時代の姿を見せているのです。山の神の系統に「大市姫」がおり、伝説では山姥の名にもなっています。これはみな、市と冬祭りと山姥との結びつきを示しているのです。この交易の行事が、祭りの日の「鷽換え(うそかえ=お守りなどを交換する行事)」や、舞人の装飾品・作り山についた物を奪い合う儀式にもなっていったのです。

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足柄明神の神遊びは第八章 山舞

金太郎の母は山姥だった

足柄明神(あしがらみょうじん)の神遊び(かみあそび=神に捧げる歌舞)は、東遊び(あずまあそび=東国風の神楽歌舞)の基礎になったようです。この神遊びを舞う巫女が、足柄の山姥です。神を育てるものという信仰が残っていて、坂田金時(さかたのきんとき=金太郎として有名な武将)の母だとされています。さらに、この山姥の舞は代表的な「山舞」とされて、東遊びとともに、畿内(きない=京都周辺)の大きな神社でも行われました。山舞を演じる「座」

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や「村」の間には第八章 山舞

正月飾りは山の神の贈り物だった

や「村」の間には、その山舞が伝わってきたのでしょう。「山づと(やまづと=山からの贈り物)」は物忌み(ものいみ=穢れを避けて身を慎むこと)のしるしとして、家の内外に掛けられます。清められた村の人々は、神のものとなった家の中で、忌み籠る(いみこもる=外出せずにこもる)のです。これが正月飾りの起こりです。注連縄(しめなわ)も、山野や木に張り巡らすものです。ただし、ほんだわら(海藻の飾り)だけは古くから使われていますが、海の禊ぎ(みそぎ)を受け継いだしるしなのです。

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山人の鎮魂に第八章 山舞

おせち料理は山人の鎮魂から来た

山人の鎮魂に、昆布・田作り(たづくり=カタクチイワシの干物)・海老などが用いられるようになったのも、海との関係がないとは思われません。京都では歳暮に「姥たたき」という乞食が出たと言います。これもそうした山の人々ではないでしょうか。「節季候(せきぞろ)」という年の暮れを知らせに来る乞食も、山からの「ことぶれ(吉報を告げること)」の一種の役割であることは、その扮装からわかります。山の神を女神だと言うのは、山姥を神と見なしたのです。

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斎女王の野宮ごも…第八章 山舞

斎宮の生活に残る山の巫女の影

斎女王(いつきのひめみこ=神に仕える皇女)の野宮籠もり(ののみやごもり=神社にこもって身を清めること)には、こうした山の巫女の生活のあり方が、ある程度まで見えるではありませんか。 八 山のことほぎ

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第九章 大和で
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大和では第九章 大和で

大和の山人の村はどこにあったか

大和(やまと)では、山人の村があちこちにありました。穴師山(あなしやま)では、「穴師部(あなしべ)」あるいは「兵主部(ひょうずべ)」というのがそれです。この神とその神人(じんにん=神に仕える人々)が、三輪山の高い所にいて、その神の暴威を牽制していたのです。山城の加茂(かも)には、後ろにそびえる比叡山がそれにあたるでしょう。この日吉(ひよし)の山の山人は、八瀬(やせ)の村などを形成したのでしょう。寺の夜叉神(やしゃじん=守護神)の役であり、神社の神の服従者である「おに」の子孫であるという考え方から、村の先祖を妖怪としています。

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が、唯第九章 大和で

山人の祭りが宮廷に入った

しかし、ただ山人に対する世間の解釈を、わが村の由緒としただけなのです。この山村などから、宮廷や大きな神社の祭りに参加する山人が出たのでしょう。それが後には形式化して、官人(かんにん=役人)たちが仮装して来るようになり、そうした時代の始めには、まだ山舞が行われていて、その方面の鎮魂歌もあったのです。山舞はまた宮廷にも入ってきたらしいのであります。

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まきもくの穴師の…第九章 大和で

古今集に残る山人の姿

まきもくの穴師の山の山人と、人も見るように、山かづら(山の蔓草の冠)をつけなさい(古今集巻二十)

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かう言ふ文句は第九章 大和で

山人の目印は蔓草の冠だった

こういう歌の文句は、穴師山から山人が来なくなった時代にも、穴師を山人の本拠と考えていたからです。山人の姿かたちの条件が「山かづら(山の蔓草で作った冠)」にあったことは、この歌でわかります。その冠が、里の物忌みの被り物とは違っていたからでしょう。山人が伝えた物語や歌は、海の言葉のようにはわかりませんが、推測はできます。すなわち「国栖歌(くずうた=吉野の国栖の人々が伝えた古い歌)」はおそらく、山部(やまべ=山に住む人々の集団)の間に伝わっていたものではないかと思う根拠があるのです。

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此を歌ひながら第九章 大和で

海の祝い人が山人に変わった

この歌を歌いながら、山人も舞い、山姥も舞ったのでしょう。そして、山人の方は比較的早く衰え、山姥の方だけが形を変えながら残ったのでしょう。 さて、山人の寿ぎ(ことほぎ=祝福の言葉)や舞が山の帝都で行われるようになると、海人(あま=海辺に住む人々)の「ほかい人(ほかいびと=祝福を行いながら各地を回る人)」はしだいに山人風に変わる傾向ができ、常世人(とこよびと=海の彼方から来る神的存在)の地位も山の神と同様に低くされ、その呪詞(じゅし=呪いの言葉)も祝い言葉へと変わっていきます。

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果は第九章 大和で

穂高岳に移り住んだ海の民

ついには完全に山人と同じようになって、海や川にまつわる生活を捨てて、山地の国を駆け回るようにもなっていきました。その一群はおそらく、北陸から信濃川をさかのぼって来て、北西の山野に入り、そこに定住し、山人としての隔離地(かくりち=他と離れて暮らす場所)には、南方にある深い穂高岳を選んだのでしょう。そして、平野の村里に時々、山の呪法(じゅほう=呪術の方法)や呪詞、芸道を持って訪れました。

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若い神が第九章 大和で

物臭太郎は穂高の神だった

若い神が人に養われて、最後には英雄神となる物語を語ったのが、穂高の本地(ほんじ=神仏の本来の姿を語る物語)として、後世の台本では「物臭太郎(ものぐさたろう)」という流浪の貴族の立身出世譚に変化していきました。信濃に安曇氏(あずみし)を名乗る海人部(あまべ=海の民の集団)が入ったのは、こうした経路を通ったのでありましょう。 山の寿ぎ(ことほぎ)と海の「ほかい(祝福を乞い歩くこと)」がだんだん合体してきても、名目はさすがに残っていました。

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山人の団体として第九章 大和で

山人と海人の名前が入れ替わった

山人の団体として、遊行神人(ゆぎょうしんじん=各地を巡り歩く神に仕える人々)の生活法をとった者は「ほかい人」であり、海人の巡遊芸人団は「くぐつ(傀儡子)」と呼んだらしいのです。それが後には、ほかい人がくぐつと名乗り、くぐつなのにほかい人と呼ばれたらしい混乱が見えます。ほかい人が持つ物入れは、山の木で作った曲げ物(まげもの=薄い木の板を曲げて作った容器)であって、その旅行用の容器を「ほかい」と呼びました。

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くゞつは恐らく第九章 大和で

「くぐつ」の名は旅の入れ物から来た

「くぐつ」はおそらく、呪詞の神「ここと結び(むすび)」の名に関係があるらしく、くぐつが携えた草を編んだ物入れの名が「くぐつ」と呼ばれるほどに、その旅行用の容器が、各地の人々の目に留まる機会が多かったのです。それほど放浪の布教生活を続けたのです。山人も「ほかい人」の一派であり——傀儡子の女(くぐつめ)は海人の分かれであるらしい。

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——其が山舞をす…第九章 大和で

遊女がくぐつと呼ばれた理由

——それが山舞をすることで、くぐつから分類され、海人からくぐつの生活を捨てて山舞をするようになっても、なお「くぐつ」と呼ばれたのは、遊女はくぐつとし、ほかい人を祝言を乞う乞食者と考えたためでありましょう。 九 山伏し

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第十章 隠れ里
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山舞を伝承して居…第十章 隠れ里

「隠れ里」伝説の正体は山人の村

山舞を伝承している村の中には、思いのほか深い山中に住んでいた者が多かったのです。そして歳暮・初春その他の行事の時に、村里へ降りて来て、山の寿ぎ(ことほぎ=祝福)を行いに来ます。これが「隠れ里」の伝説の起源であって、そうした生活法を受け継ぐことに不思議も悩みも感じない者が多かったのです。「隠れ里」と呼ばれる集落は、みな山人としての祝言の職を持っていたのです。

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此山人の中第十章 隠れ里

修験道は山人の神道から生まれた

この山人の中で、飛鳥時代の末から奈良時代の初めにかけて、民間に広まった道教式の作法と仏教風の教義の断片を知って、変則的な神道をまず開いたのが修験道(しゅげんどう=山岳修行によって霊力を得る宗教)です。これは完全に、山の神人から苦行生活を第一の目的として発展したのです。ですから、里人に信仰を与えるよりもまず、祓え(はらえ=穢れを除く儀式)の変形である懺悔・禁欲の生活に向かわせました。すなわち、修行の力を鍛えて、霊験あらたかな呪術を得るという主旨になります。

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だから第十章 隠れ里

修験道の正体は変装した神道だった

ですから修験道は、長期の隔離生活に耐えて山の神そのものとしての力を保とうとした山人の生活に、小乗仏教式の苦行の理想と、人間の身を脱して神仙になるとする道教の理想とを取り込んだに過ぎません。後々まで、寺の霊験方の形式を取り除くと、自覚的に変革された神道の姿が現れるのです。垢離(こり=冷水を浴びる修行)は禊ぎ(みそぎ)であり、懺悔は山の神が好む秘密告白と祓えとの一つの分岐です。

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禅定・精進は第十章 隠れ里

山籠もりは古代の成人式だった

禅定(ぜんじょう=瞑想修行)・精進(しょうじん=肉食を断つなどの修行)は、山籠もりの物忌み(ものいみ=穢れを避けて慎むこと)であり、成人の資格や神人の資格を得るための前提条件です。 御嶽精進(おんたけしょうじん=御嶽山での修行)を経て初めて一人前の男になるという信仰は、近代に始まったことではないようで、山地に住まわせて禁欲・苦役の後に成人の儀式を授けた昔の村の規約が、形を変えて入ってきています。男だけの山籠もりで、女性を厳しく締め出すことも、女人禁制の寺の制度を学んだのではなく、もともとあった秘密結社の姿だったのです。

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山の神・山人がお…第十章 隠れ里

古代の「鬼」はただの巨人だった

山の神・山人が「おに(鬼)」と感じられるようになったのに対して、「天狗」を想像するようにもなりました。古代の「おに」は、後世の悪鬼羅刹(あっきらせつ=仏教の恐ろしい鬼神)などではなく、「巨人」という程度の意味でした。おおかた、赤また・黒またなどと言う先島諸島(さきしましょとう=沖縄の西の島々)の「まれびと(来訪神)」と似た扮装をしていたものでしょう。田楽には鬼や天狗がつきものになっていたらしいのですが、猿楽では翁の柔和な姿になっています。

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だが第十章 隠れ里

猿楽は天狗舞の宝庫だった

ですが、「谷行(たにこう)」のような山入りの生活をはっきり見せるものがあり、また天狗も「第六天」「鞍馬天狗」「善界」など、数えきれないほどあるでしょう。田楽には天狗の印象があるだけで、今残っている演目からは窺えません。それに比べて数から言えば、猿楽は天狗舞を一つの分野とするほどです。先達(せんだつ=先輩の修行者)・新達(しんだつ=新参の修行者)の区別も、長老と若者との関係です。

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山人生活のかたみ…第十章 隠れ里

天狗が血を嫌うのは山の神だから

山人生活の名残だと言えないかもしれませんが、ともかくも考えに置かなければなりません。 天狗が出産の血を嫌うことは、柳田先生が古くから「天狗は山の神である」という説で述べられました。山の神、あるいは山人生活の作法や禁忌(きんき=してはいけないこと)などが、そのまま伝わっているではありませんか。だから、修験道は山人の間で醸成された、自覚的な神道だと思います。

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此為に山人も第十章 隠れ里

海の村にも芸能は育っていた

このために山人も、末にはさまざまに分かれていっています。 山村に神事芸が発達するとともに、本来の姿で生活している海人(あま)の村にも、人形劇(偶人劇)や歌が育っていました。そうしたものが祭りの日に行われているうちに、しだいに演芸化していきます。そして、神事能のほかに演目が多くなっていきます。中には巡遊芸人団となったものも、もちろん早い時期からあったことは考えられます。

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宮廷の神楽は第十章 隠れ里

「才の男」は人間が演じる人形だった

宮廷の神楽(かぐら)は海人部出身のものなので、海人部の人形(偶人)に当たるものが、宮廷では狂言方の「才の男(さいのお=神楽で道化役を務める者)」です。それ以前からあった神遊びには人形を用いなかったので、人間でありながら人形の役をする「才男態(さいのおぶり)」というものが生まれたのです。——各地の神社の「せいのう」「さいのお」は、たいてい人形だったようです。——山人の神事にも人形が混じった痕跡はありません。

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山人は第十章 隠れ里

翁の4つの役は神と山人の関係だった

山人は、宮廷や神社の祭りに出れば脇方(わきかた=補助的な役)に回ったものでしょうから、「才の男」なども山人が務めたのではないかと思われるところが、少なからず見えます。人長(にんじょう=神楽の統率者)に対する才の男の位置は「もどき(模倣・茶化し役)」であり、その演技は狂言だったようで、常世の神人と山の神人との関係にあるようです。才の男系統の猿楽が、翁の演目では翁・人長・黒尉・才の男という構成になってきかかっています。

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第十一章 早歌
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此は神と精霊との…第十一章 早歌

山彦は山人の「もどき芸」から生まれた

これは神と精霊(せいれい=自然界に宿る霊的存在)との関係が混乱しやすいためです。 山村の特徴と見るべきものは、「山彦(やまびこ)」「木霊(こだま)」など、口真似や口答えをする精霊の存在を信じた風習の起源です。山人の芸の中に、そうした猿楽式の「もどき(模倣・茶化し)」が発達していたために、山人の木霊の信仰と一つになったもので、やはり一つの芸術が現実のものとして考えられるようになったのでしょう。才の男(さいのお=道化役)がする「早歌(そうが=テンポの速い歌謡)」

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のかけあひなども第十一章 早歌

「楽」と「舞」には格の違いがあった

の掛け合いなども、やはり「もどき芸(模倣・茶化しの芸)」なのです。 猿楽能は山人舞の伝統を引くもので、神社仏閣の楽舞に触れて変化し、民間の雑楽(ざつがく=庶民的な芸能)に影響されて取り込み、成立後の姿からは元の出どころがわからないほどに変わってしまいました。「楽」という字がつくのは雑楽の意味で、田楽がそれであり、「舞」の方が一段上で正式な舞の系統を意味するものらしい——こういう仮説は成り立たないでしょうか。

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だから第十一章 早歌

猿楽は最も格の低い芸能だった

ですから、寺方出身の派手な舞はみな「曲舞(くせまい=中世に流行した語り物の舞)」と呼ばれていますが、猿楽は曲舞とも見なされなかったのです。その点でも、曲舞から出た幸若舞(こうわかまい=中世の語り物芸能)よりも低く見られたのです。神社仏閣から受ける待遇も、きわめて低いものだったでしょう。伶人(れいじん)・楽人(がくにん)などの正式な音楽家とは比べものにならなかったと思われます。 一〇 翁の語り

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三河の北の山間第十一章 早歌

設楽の山に残る田楽を歩く

三河(みかわ=現在の愛知県東部)の北の山間、南・北設楽郡(したらぐん)を中心に、県境を接した南信州の一部分は、私も歩いて来て、この地方にある田楽の輪郭だけは思い浮かべることができます。これは北遠州(きたえんしゅう=静岡県北部)天竜川沿いの山間にもあることが、早川孝太郎さんの調査によってわかりました。演目がかなり多く揃っていて、「田楽」と呼ぶ土地以外では「花祭り」

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と称へてゐて第十一章 早歌

花祭りは稲の花への祈りだった

と呼んでいて、明らかに田楽の特質の一部を保っています。花祭りは、鎮花祭(はなしずめのまつり=花が散らないよう祈る祭り)の踊りから出た念仏踊りが、田楽と合わさった元の信仰を残しているので、「花祭り」というのは、稲の花がよく咲いて実る様子を祝福するところから言うのであります。春の花が早く散ると田の実りが悪い兆しと見て、人の身に例えると悪い病気が流行る前触れと考えたのであります。

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春の祭りに花を祝…第十一章 早歌

念仏宗は花鎮めから生まれた

春の祭りに花を祝福した行事が、春と夏の交わる頃にはいっそう激しく行われ、鎮花祭(はなしずめ=疫病を鎮める祭り)——疫病神や害虫や悪い風を誘い出して祓い清める——が、人間の精霊を退散させることで凶事は除かれるとする念仏踊りを生み、それが教義づけられて念仏宗になったもののようです。しかし「花鎮め」ということは忘れませんでした。 田楽の中にも、念仏踊りそのままに、花鎮めの行事を名乗るものが残っています。

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其が第十一章 早歌

花の命乞い伝説は田楽から来た

それがこの花祭りです。花に関しては、花の唱文(しょうもん=唱え言葉)・花の言い立て・花舞いなどをする所もありますが、あまり重視していないようです。結局、こうした田楽を「花祭り」とか「花踊り」とか呼んでいたままを受け継いで来たのでしょう。桜町中納言が泰山府君(たいざんふくん=中国の冥府の神)に花の命乞いをした伝説なども、田楽・念仏系統の伝えなのでしょう。この祭りで舞場に充てられた屋敷は一村の代表で、祭りの効果は村全体に及ぶと考えているのです。

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此は第十一章 早歌

花祭りの鬼は追い払われない

この花祭りは、ほとんど「反閇(へんばい=地面を踏んで邪気を払う所作)」および「踏み鎮めの舞」ばかりを何組も作っているのです。しかしその中に「鬼舞」と「翁の言い立て」とが、田楽の古い姿を残しているようでした。春祭りの鬼は、節分の追儺(ついな=鬼を追い払う儀式)や修正会(しゅしょうえ=正月の法会)と同じ形式に見られていますが、明らかに祝福に来る山の神です。だから鬼は追い払われないで、反閇を踏むことになっていて、この辺の演出は正しいものなのです。

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即、春祭りに第十一章 早歌

翁の語りを「猿楽」と呼んだ

つまり、春祭りに山人が祝福に来る姿です。 翁はどの村々にも必ずあるようで、「田楽祭り」と呼ぶ村ではもちろん必ずあります。その語りにもいろいろあるようですが、主なものは「生い立ちの物語」と「海道下り(かいどうくだり=東海道を下る道中の語り)」であるようです。この翁の語りのことを「猿楽」と呼ぶのも一般的なことのようです。設楽郡の山地に入り始めの鳳来寺には、田楽のほかに「地狂言(じきょうげん=土地の素人芝居)」というものがあって、それを「猿楽」と呼んだらしい証拠があります。

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先年までしたのは第十一章 早歌

三番叟だけが猿楽の証として残った

近年まで演じていたのはただの芝居でしたが、その始まりのものは三番叟(さんばそう=翁の演目で黒い面をつけて踊る役)であって、これを特別な演出物としています。この地狂言は古くは猿楽能に近いものを演じたようですが、近代では歌舞伎芝居しかやりませんでした。この猿楽である地狂言が三番叟だけは保存していたというのは、江戸の芝居と同じで、翁が猿楽の目印だったからであります。

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第十二章 早物語
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三番叟を主としたのは第十二章 早物語

翁は一人で演じるものではなかった

三番叟を中心としたのは、猿楽の中の猿楽である狂言だからでしょう。豊根村(とよねむら)の翁には「もどき(模倣役)」がついて出て、台詞を大きな声で繰り返しました。鳳来寺の地狂言では、後ろに引いた幕の陰に大勢の人が隠れていて、三番叟の言葉を繰り返して囃し立てたそうです。 花祭りの翁でも、役者は一人ではありません。翁のほかに「松風丸」(または松風・松かげ)という女面があり、三番(さんば)があるのが普通のようです。

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翁の言ひ立ての後で第十二章 早物語

千歳はもともと女性が演じた

翁の「言い立て(台詞)」の後で、三番叟(信州の新野では「しょうじっきり」と呼ぶ)が出て、翁のおどけた台詞以上に狂言を述べます。「松風」は所作はわかりませんが、千歳(せんざい=翁の前に舞う若い役)の若い役を若い女形(おんながた)で演じるので、田楽らしいやり方です。田楽には女性も役者に加わっていました。だから、千歳役も田楽の猿楽では、女千歳であったことがあるのでしょう。それが仮面になったのかもしれません。

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翁の語りの中に「…第十二章 早物語

翁は自分の醜さで笑いを取った

翁の語りの中に「松風の時分は、寒いことでしたよ」あるいは「翁、松かげで寒さにやられ、寒い、悲しい」——こういう台詞がありますが、前後の関係が推測できるような筋立てにもなっていません。こうした翁の役は、この田楽でも三人なのです。翁の生い立ちの語りは、その誕生から、それに伴う母の述懐を述べて、自分の醜さを誇張して笑わせます。

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其から第十二章 早物語

翁の婿入りは失敗談で笑わせた

それから、今まで生きてきた間に、世の移り変わり(滄桑の変=桑畑が海になるほどの大きな変化)を何度も見たことを語り、翁の婿入りの話になるのです。婿になった時の準備にいろいろなことを習って、さまざまな失敗をする、面白い「早物語(はやものがたり=テンポよく語る滑稽な物語)」らしいところがあります。「海道下り」は京へ上る道や京都に入ってからの物語で、その間にみだらな笑いを誘う部分を交えています。 生い立ちは、神が自ら名乗る詞章(ししょう=台詞・文章)の「種姓明かし(しゅしょうあかし=出自を明かすこと)」の系統で、それに連れて村や家の歴史を語る形式が崩れたものです。

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こゝの翁も第十二章 早物語

「海道下り」は神の苦労話だった

ここの翁も、脇方(わきかた=補助役)・狂言方(きょうげんかた=おどけ役)らしい姿を見せているのです。「海道下り」は、遠くから来た神がその道中の出来事を語る苦労話から出ているもので、「道行きぶり(みちゆきぶり=旅の道中を語る形式)」の古い形がそれです。早い時期に、神が各地を巡る物語や英雄が征旅する史実のようになったものです。そこから出た道行きぶりが、古事記・日本書紀にもすでに発達しています。しかも、これを所作で示す「歩きぶり」

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が、芸としての鑑…第十二章 早物語

歩くだけで芸になった「前渡り」

が、芸として鑑賞の目的にさえなっていました。つまり「前渡り(まえわたり=舞台の前を横切って歩く演出)」の芸能なのです。これはもともと、見聞を語って世間的な知識を授ける台詞があったのが、変化してきたのであります。 一一 ある言い立て

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以上の夜話の後第十二章 早物語

山崎楽堂の「申楽の翁」に打たれた

以上の夜話の後、私たちは山崎楽堂(やまざきがくどう)さんの「申楽の翁」を聴かせてもらいました。その深い理解と愛着から出てくる力には、打たれないではいられませんでした。この続きの話なども、だいぶその影響を取り込んで来そうな気がいたします。そのため、やがて発表になるはずの山崎さんの論旨を先取りした部分も出てきそうで、気が引けてなりません。

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併しまあ第十二章 早物語

学問にも「もどき」の礼儀がある

しかしまあ、これも芸能にはつきものの「もどき(茶化し役)」がしゃしゃり出たとでも思っていただきます。 こんなことを申し上げるのもほかでもありません。学問の研究がたどってきた筋道と、発表の順序だけは、厳格にはっきりさせておくという礼儀を思うからであります。私たちがしている民俗学の発生論的な見方は、学者自身の研究発表の上にも、当然適用されるべきはずであります。

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内外の事情の交錯…第十二章 早物語

未発表の研究を踏みつけてはならない

内外の事情が交錯して発生する過程を明らかにするということは、研究方法を厳しく整えるよりも、もっともっと重大なことなのです。 特に「申楽の翁」のような、まだ記録を公にしていない研究から、おそらく論理を引き続けていく私の論文のような場合には、この用意が大事だと感じました。 どのような価値と分量を持った論文であっても、その基礎の一部をなしている未発表の研究を圧倒してしまう権利はないわけなのです。

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私は常に第十二章 早物語

研究者の礼儀こそ学問の光

私は常に、これだけは、新しい実感の学問の学徒としての、光明に満ちた態度と心得ているのであります。 一二 春のまれびと

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第十三章 雪国の春
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柳田国男先生の「…第十三章 雪国の春

柳田国男が私の仮説を育ててくれた

柳田国男先生の『雪国の春』は、雪の間から芽吹く猫柳のように輝かしい装いをこらして出版されました。私たちにとっては、まさに「春のまれびと(来訪神)」の新しい知らせのような気がします。特に自分にとって晴れがましいほどの光栄であり、同時にみすぼらしさが顧みられるのは、春の鬼に関する私の拙い仮説が、先生によって見違えるほど立派に育て上げられていたことであります。

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此、真に第十三章 雪国の春

私の理論は柳田先生から来ている

これはまさに、世の師弟の道を説く者にとって、最高の実例として提供されるべき事実であります。実のところ、おこがましくも、春の鬼・常世のまれびと(来訪神)・ことぶれ(吉兆を告げること)の神を説いている私の考えも、かつて公にされた先生の理論から引き出してきたものでありました。南島紀行の『海南小記』

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(東京朝日発表第十三章 雪国の春

学説は互いに交錯して育つもの

(東京朝日新聞に発表、後に大岡山書店から単行本として刊行)の中に、控えめに、言葉を少なくして書き込んでおかれた八重山の神々の話がそれであります。学説というものは実にこのように互いに交錯するものでありまして、私が山崎さんの研究の一部たりとも不当に自分のものとすることを気に病んでいる気持ちも、お察しがつくでしょう。 今から四年前(大正十三年=1924年)の初春でした。

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正月の東京朝日新…第十三章 雪国の春

新聞に載った驚きの正月行事

正月の東京朝日新聞が何日か引き続いて、全国各地の正月行事の投書を発表したことがありました。その中に、

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なもみ剥げたか第十三章 雪国の春

「なもみ剥げたか」の唱え言葉

「なもみ剥げたか、剥げたかよ。小豆は煮えたか、煮えたかよ」

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こんな文言を唱へ…第十三章 雪国の春

東北にもまれびとが生きていた

こんな文句を唱えて家々に踊り込んでくる、東北の春のまれびと(来訪神=異界から訪れる神的存在)に関する報告が混じっていました。私は驚きました。先生の理論をもとに粗末な形で組み立てた、私の沖縄のまれびと神の仮説にぴったり合っているではありませんか。雪に埋もれた東北の村々には、まだこんな姿の「春のまれびと」が残っているのだ。

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年神にも福神にも第十三章 雪国の春

「ものもらい」は来訪神の名残だった

年神(としがみ=正月に来る神)にも福神にも、さらには鬼にさえなりきらずにいる、畏れと敬いの両面から仰がれている異形の霊的存在があったのだ。こんなことを痛感しました。私はやがて、その「なもみ」の有無を問うてくる妖怪の行いが、古い日本の村々にも行われていた微かな証拠に思い至りました。「かせ(皮膚病)」「ものもらい」に関する語源と信仰がそれであります。このことは、その後、たぶん二度目の洋行から戻られたばかりの柳田先生に申し上げたはずであります。

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「雪国の春…」第十三章 雪国の春

柳田先生が百年前のなもみを復元した

『雪国の春』を拝見すると、ほとんど「春のまれびと」と「一人称で発想する文学の発生」という二つに焦点を据えておられるようであります。特に「真澄遊覧記を読む」の章のごときは、あの「なもみ剥げたか」の妖怪の百数十年前の状態を復元することに主力を集めておられます。私の粗末な仮説は、さらに大きく立派にされ、清らかに鋭い声を発する舶来の拡声器を得たわけなのです。 一三 雪の鬼

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真澄の昔も第十三章 雪国の春

なもみは怠け者退治ではなかった

菅江真澄(すがえますみ=江戸時代の旅行家・博物学者)の昔も今の世も、雪深い村々では「なもみ」を火だこ(いろりに長時間あたってできる皮膚のまだら模様)と考えていることは明らかです。しかし、火だこができるような怠け者を懲らしめるためという信仰は、後からできた姿らしいのです。 「かせとり」「かさとり」ともこれを呼ぶようですが、この呼び名では全国的に「春のほかい人(祝福を乞い歩く人)」の意味に使われています。「かせ」は「こせ」などと通じて、やがてまた「瘡(かさ)」「くさ(皮膚病)」などと同じ語源の、皮膚病の総称です。

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此をとりに来るのは第十三章 雪国の春

疫病退治が来訪神の本来の仕事

これを取りに来るのは、人や田畑の疫病を駆除することになるのです。「なもみ剥ぎ」「かせとり」の文句は形式化したものでありますが、春のまれびと(来訪神)が行った神事の名残であることだけは、明らかになっていました。 「ものもらい」などもそうです。おそらく、春のほかい人(祝福を乞い歩く人)がこれに関係していたための名でしょう。

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第十四章 羊負来
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ばら/\に分布し…第十四章 羊負来

「ものもらい」は「まれびと」の名残

ばらばらに分布している、この目の腫れ物(ものもらい)の方言「まろ」という呼び名は、祝言(しゅうげん=祝いの言葉)・寿ぎ(ことほぎ)がまだ本来の信仰を保って「まろうど(客人=来訪者)」が行うものとした時代から、ほかい人(乞食的な祝福者)・物もらいの職業となった頃まで引き続いていたことを示しているように思います。すなわち、「まれびと瘡(かさ)」が「なもみ」の一種であったらしいという仮説を持っていたのであります。「なもみ瘡」が薬草の「オナモミ(耳子・めなもみ)」などに関係があることだけは、多少想像してもよいと思います。

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此草第十四章 羊負来

オナモミは異国から来た草だった

この草は、中国においてすら「羊負来(ようふらい=羊が背負ってきた草)」と呼ばれるとおり、異国から来た草の種だったのです。 こういうふうに考えられている、私の粗い仮説に組み入れた春の妖怪は、沖縄にも旧来の日本にもあったのです。 寺々の夜叉神(やしゃじん=守護の鬼神)も、陰陽師(おんみょうじ)・唱門師(しょうもんじ)から、地神経を弾いた盲僧・田楽法師の類に至るまで、家内や田園の害虫・疾病・悪事を叱り除ける唱え言葉を伝えていたのも、みなこの「まれびと」としての本来の面影を留めていたのです。

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私は数年来第十四章 羊負来

山奥の春に翁の祭文を見つけた

私はこの数年来、知らない奥地の人々からは気味悪がられるほど、春の初めを何度か三河(みかわ)・遠州(えんしゅう)の山間で過ごしました。そこで見た田楽や田楽系統の神事舞の中にも、やはり正式には家内や田園の凶悪なものを叱り退ける「言い立て」を見つけました。これがたいてい、翁あるいはその変形したものが発する「祭文(さいもん=神仏に奏上する文)」あるいは「宣命(せんみょう=天皇の命令文の形式)」というものになっていました。 一四 菩薩練道

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牛祭りの祭文を見…第十四章 羊負来

牛祭りの祭文はなぜ下品なのか

牛祭り(うしまつり=京都・広隆寺の祭り)の祭文を見ただけでは、こんな奔放な文章がと驚かれることですが、邪悪を退ける宣命のいわゆる「寿ぎ(ことほぎ=祝福の言葉)」がみだりがわしい(=わいせつな)方向に向かう過程を知っていれば、不思議はないことです。あれは、人の体や屋敷の内外のあらゆるものの中に棲む精霊に宣下し(=神の命令を下し)、慴伏(しょうふく=ひれ伏して従わせること)させる言葉なのです。

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大昔には第十四章 羊負来

来訪神から翁へ、神の姿の変遷史

大昔には、海の彼方の常世の国(とこよのくに=永遠の理想郷)から来る「まれびと(来訪神)」の仕事であったのが、後には地霊(ちれい=土地の精霊)の代表者である山の神の仕事になり、さらに山の神としての資格における「地主神(じぬしがみ=土地を守る神)」の役目になったものでした。そして、その地主神が、山の鬼から天狗という形を分化させ、天部の護法神(ごほうじん=仏法を守る神)から諸菩薩・夜叉・羅刹神に変化していく一方で、村との関係を血筋で考えた方面には、老翁(ろうおう)あるいは「尉(じょう=老人の能面)と姥(うば=老女の能面)」の形が固定してまいりました。

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だから第十四章 羊負来

翁の三つの仕事——語り・宣命・村ほめ

ですから、これらの山の神の姿に扮する山の神人たちの、宣命・告白を目的とした集団巡行の中心が「鬼」であり「翁」であり、また変じて、ただの神人の「尉殿(じょうどの)」、あるいは乞食者としての「太夫(たゆう)」であったのは、当然であります。翁およびその翁から分化した役者が、この宣命を主とする理由はわかるでしょう。仮に翁の仕事を分けてみますと、 一、語り 二、宣命 三、家・村ほめ

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此三つになります第十四章 羊負来

三つの仕事は元は一つだった

この三つになります。そしてその中心は、もちろん宣命にあるのです。しかし、この三つは皆、一つの宣命から分化した姿に過ぎないのです。 一五 翁の宣命

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宣命と名のつく物第十四章 羊負来

崩れた子守唄でも精霊は従った

「宣命」と名のつくもの、宣命としての神事の順番に述べられるものは、その言葉がたとえ取るに足らない子守唄のように崩れてしまっていても、あらゆるものの精霊に対する効果は、恐ろしいほどの鎮圧の威力を持つものでした。中世以降、祝詞(のりと)・祭文以外に「宣命」という種類が、陰陽師流の神道家の間で使われていました。『続日本紀』以降の天皇の宣命と外形は違っていますが、本質は同じものでした。

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私の考へでは第十四章 羊負来

祝詞の原形は神の自己紹介だった

私の考えでは、この宮廷の宣命が、古代の「のりと(祝詞)」の原形を正しく伝えているものなのです。神の宣命である「のりと」を、人神(ひとがみ)である天皇の「のりと」すなわち宣命としただけのことです。常世の神(とこよのかみ=海の彼方から来る神)の祝詞においては、神自身と精霊の来歴・出自を明らかにして、互いの過去の誓約を新たに思い起こさせることが主になっていました。この精霊服従の誓約の由来を語る物語が、呪詞(じゅし=呪いの言葉)でもあり叙事詩でもあった姿の、最も古い「のりと」なのです。

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其が岐れて第十四章 羊負来

祝詞と物語はもとは一つだった

それが分かれて、呪詞の方は神主の祝詞として固定し、叙事詩の方は「語部(かたりべ=物語を語り伝える役職)」の物語となっていったのです。だから、呪詞を宣する神の姿をとる者が唱える文句が、語りも宣命も備えている理由はわかります。「家・村ほめ」の方は、呪詞がさらに鎮護の言葉に発展した時代にできたものなのです。広く言えば「寿ぎ(ことほぎ=祝福)」と呼ぶべきもので、多くは山人が生まれた以後の職分です。

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第十五章 標の山
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翁の語りは次第に第十五章 標の山

翁の語りには鎮めの力が残っていた

翁の語りはしだいに教訓や風刺(ふうし=社会への批判・皮肉)に傾いてきましたが、なお語りの中にすら宣命式の効果は含まれていたのです。家・村ほめの形にも、もちろん土地を鎮める意味があることは言うまでもありません。 一六 松ばやし

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高野博士は第十五章 標の山

能舞台の松はどこから来たのか

高野博士(たかのはかせ=能楽研究者の高野辰之)は、昔から能舞台の鏡板(かがみいた=舞台正面の板)の松を、奈良の春日若宮御祭りの中心になる——むしろ田楽の「中門口(ちゅうもんぐち)」のように出発点として重要な——「一の松」を写したものだ、とされていました。当時、微かながら「標の山(しめのやま=神聖な区域を示す山)」の考えを出していた私の意見と根本において偶然一致していましたので、すぐさま賛成を感じていました。 ところが、近頃の私は、もっと細かく考えてみる必要を感じ始めております。

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其は第十五章 標の山

松ばやしは松の枝を迎える行事だった

それは、鏡板の松が「松ばやし」の松と同じものだということです。いわば「一の松」がさらに分裂した形と見るのであります。「松をはやす」ということが、赤松氏・松平氏を囃す(=持ち上げる)などという合理的な解釈を伴うようになったのは、大和猿楽の庇護者が固定してからです。初春のために山の松の木の枝が下ろされてくることは今もあることで、「松迎え」という行事はどの山間でも年の暮れの敬虔な慣例として守られています。

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おろすというてき…第十五章 標の山

「はやす」の本当の意味は「伐る」

「下ろす」と言って「切る」と言わないところに縁起があるように、「はやす」というのも実は「伐る」ことなのです。「はなす」「はがす」(がは鼻濁音)などと同類の言葉で、分裂させるという意味であり、「ふゆ(殖ゆ)」「ふやす」と同じく、霊魂の分裂を意味しているらしいのです。これは『万葉集』の東歌(あずまうた=東国の歌)から証拠になる三つほどの例歌を挙げることができます。 「囃す」と当て字する「はやす」は、常に語源の「栄やす(=栄えさせる)」から来た同類語と混同されています。

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山の木をはやして…第十五章 標の山

神の宿る木を分けて持ち帰る

山の木を「はやして」来るということは、神霊が宿る木を分割して来ることなのです。そして、それを運ぶことも、それを屋敷に立てて祈ることも、すべて「はやす」という言葉が含む過程となるのです。

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大和猿楽其他の村…第十五章 標の山

松ばやしは行列から神事まで含んだ

大和猿楽その他の村々から、京の檀那衆(だんなしゅう=寺社や猿楽の支援者である貴族・武家)である寺社・貴族・武家に、この分霊の木を運んでくる曳き物(ひきもの=山車のように引いて歩く飾り物)の行列の音楽や、それを回っての行進舞踊はもちろん、檀那家の屋敷に立てての神事までも含めて、「はやす」「はやし」と呼ぶようになったのだと言うことができると思います。結局、室町・戦国以後、京都あたりで呼んだ「松ばやし」

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は、家ほめに来る…第十五章 標の山

能役者が家を祝いに来る松ばやし

は、家ほめ(いえほめ=家の繁栄を祝福する行事)に来る能役者の、屋敷内での行事および道中の道行きぶり(風流=ふりゅう=華やかな練り歩き)を総称したものと言えまして、もともとは田楽法師の間にもこれが行われていたのであります。その「はやし」の中心になる木は何の木であったか知れません。しかし、「田楽林(でんがくばやし)」「林田楽」などという言葉があったことは事実で、この「林」

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を「村」や「材」…第十五章 標の山

祇園囃しの起源は神木の行列だった

を「村」や「材」などとするのは、誤写(写し間違い)から出た考え方であります。 これが、後世さまざまな分流を生んだ「祇園囃し(ぎおんばやし)」の起源です。もともと「祇園林(ぎおんばやし=祇園祭の神木の行列)」を曳くのに伴った音楽・風流(華やかな飾り)であったための名でしたが、夏祭りの曳き山・地車(だんじり)の、いわば「木遣り囃し(きやりばやし=大きな物を運ぶ時の掛け声と音楽)」と感じられるようになったのでした。だから、祇園林を祇園の八坂の神の林と解釈したことさえあるのです。

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勿論第十五章 標の山

松ばやしは猿楽最大の行事だった

もちろん、祇陀園林(ぎだおんりん=仏教の祇園精舎の林)の訳語ではありません。この「林田楽」などは、おそらく近江猿楽(おうみさるがく=滋賀の猿楽)の人々が、田楽能の脇方として成長していた時代にできたものではないのでしょうか。 この松ばやしは、猿楽能が独立した後も、長い間最大の行事とされていたものではありますまいか。このことも、おそらくは翁が中心になって、その宣命・語り・家ほめが行われていたものと考えられるのですが、ただ今、その証拠と見るべきものはありません。

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が、唯暦法の考へ…第十五章 標の山

薪能と春日祭は松ばやしの典型

ただ、暦法(れきほう=暦の計算法)の考えが異なることから生じた初春の前夜の行事が、少なくとも二つあります。すなわち、神社では春日若宮祭りの「一の松」以下の行事、寺では興福寺の二月の薪能(たきぎのう=屋外で篝火を焚いて行う能)です。これらは皆、翁や風流(ふりゅう=華やかな行列)を伴っていました。それだけではなく、脇能(わきのう=翁の後に演じる能)も行われていたのです。薪能は田楽の中門口と同じ意味のものであったらしいし、御祭りはまったく松ばやしの典型的なものであったと言えます。

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第十六章 ものまねする
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此場合に第十六章 ものまねする

影向の松は神の降り立つ木だった

この場合に松は、山から「はやして(=伐って)」来たものではなく、立ち木をもって直ちに神が降り立つ木——実際にも「影向(ようごう)の松」と呼んだ——と見たのです。翁は御祭りから始まったのではなく、その「一の松」の行事が翁の一つの古い姿だったことを示すものです。二つながら、神が降り立つ木あるいは分霊の木の信仰から出ています。薪能の起こりは、おそらく翁の一類の山人が山から携えてくる「山づと(山の贈り物)」である木を、門前に立てていくところにあったのだろうと思うのです。

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かうして見ると第十六章 ものまねする

八瀬の黒木は神の分霊だった

こうして見ると、八瀬童子(やせどうじ=京都八瀬の住民で天皇に仕えた人々)が献上した「八瀬の黒木(くろき=皮付きのままの木)」の由来も、山づと(山の贈り物)であって、分霊(わけみたま=神霊を分けたもの)の献上を意味する木であることが推測されるではありませんか。これがさらに、年木(としぎ=正月に燃やす薪)・竈木(かまぎ=竈で焚く薪)の起こりになるのです。 一七 もどきの所作

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私は第十六章 ものまねする

もどき役こそ日本芸能の核心

私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、「もどき役(模倣・茶化しの役)」の意義を重く見たいと思います。近代の猿楽に当てはめてみれば、狂言方に当たるものです。しかしもともと、神と精霊——それぞれの連れ——の対立から成り立っているところに、日本古代の神事演芸の基本単位があります。だから「して方(主役)」に対して、単に「わき方(脇役)」——あるいは「あど」と呼ぶ——に相当する者があっただけです。

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其中第十六章 ものまねする

脇役と狂言は「もどき」から分かれた

その中から、わき方が分裂して「脇」と「狂言」になったのです。わかりやすく言うなら、もどき役から脇と狂言が分化したという方がよいようであります。 「もどき」は田楽の上で栄えた役名で、今も神楽の中には「ひょっとこ面」を被る役割および面そのものの呼び名として残っています。もどき役は、後には狂言方と同一のものと考えられるようになりましたが、古くは脇・狂言を総合した役名でありました。

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私は前に猿楽のも…第十六章 ものまねする

「もどく」は批判ではなく物真似だった

私は前に猿楽の「もどき的」な素地を述べました。今、それを再び論じる機会に出会ったことを感じます。 「もどく」という動詞は、反対する・逆に出る・批判するなどという使い方ばかりを持つもののように考えられます。しかし古くはもっと広い意味があったようです。少なくとも演芸史の上では、物真似する・説明する・代わりに言い直す・わかりやすく説き和らげるなどという意味が加わっていることが明らかです。

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「人のもどき負ふ…」第十六章 ものまねする

猿楽は田楽のもどき役から独立した

「人のもどきを負う(=人からからかわれる)」などと言うのも、自分で赤面せずにはいられないようなことを再現されてひやかされるところに批判の意味が出発しましたので、やはり「物真似する」の意味だったのでしょう。 田楽における「もどき」は、猿楽役者の担当する役どころであったらしく、それだけでなく、その他の先輩格の芸能にも「もどき」としてついていたものと思います。その中で、最も関係の深かった田楽能から分離する機会をとらえたものが、猿楽能という分派を開いたのでしょう。

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ちようど第十六章 ものまねする

猿楽の独立は静かな離脱だった

ちょうど、万歳太夫(まんざいだゆう=新年の祝いの芸を演じる者)に付属する才蔵(さいぞう=万歳で太夫と掛け合いをする相方)が、興行団を組織して歩く尾張・三河の海辺の神楽芸人に似た離脱が行われて、「独立」というほどのきっぱりした運動はなく、自然のうちに一派を立てたのと同様だと思います。この点は、世阿弥十六部集(ぜあみじゅうろくぶしゅう=世阿弥の芸論集)を読む人々に特にご注意をお願いしなければならないところで、田楽・曲舞(くせまい)などに対する穏やかで理解のある態度は、こうして初めてわかるのです。

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呪師猿楽と並称せ…第十六章 ものまねする

田楽法師の中に猿楽師がいた

呪師猿楽(じゅしさるがく)と並び称された「呪師(じゅし=呪術を行う芸能者)」の本来の芸が、田楽師の芸を成立させると同時に、猿楽は能と狂言とを主に受け持つようになっていったのです。だから、総括して「田楽法師」と見られている者の中にも、正確には猿楽師も含まれていたことは考えてよいと思います。「林田楽」などと言った曳き物も、ひょっとすると田楽師のもどき方である猿楽師(近江の)の方から出たもので、「松ばやし」と同じものということは差し支えないかもしれません。

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猿楽はもどき役として第十六章 ものまねする

猿楽が脇役を重んじた理由

猿楽は「もどき役」として長い歴史の記憶から、意外にも脇方を重んじているのかもしれません。将軍家の慶事に行われた「開口(かいこう=祝いの口上)」は脇方の仕事で、能役者にとって名誉な役目でありました。しかも田楽の方にもこれがあって、奈良の御祭りでは行われました。高野博士が採集しておられる「比擬開口(ひぎかいこう=滑稽な開口)」というのがこれです。だから、開口にまじめなものとふざけたものと二つがあったと見る人もありそうですが、私はそうは思いません。

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開口がもどき・脇…第十六章 ものまねする

開口は猿楽独立前の姿を残す

「開口」がもどき・脇方の役目だったものです。おそらくは猿楽が田楽から分離する以前の姿をとどめているものと思われます。 一八 翁のもどき

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第十七章 前者の言ふ所
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遠州や三州の北部…第十七章 前者の言ふ所

もどきは説明役でもおどけ役でもある

遠州(えんしゅう=静岡県西部)や三河(みかわ=愛知県東部)の北部山間に残っている田楽や、その系統に属する念仏踊り、唱門師(しょうもんじ=呪術的な芸能者)風の舞踊が複合した神楽・花祭りの類の演出を見まして、「もどき」という役の本来の意味がいよいよ明らかになってきたように感じました。説明役であることもあり、おどけ役である場合もあり、脇役を意味する時もあるのでした。翁に絡んで出るもどきには、これらがすべて備わっていたのでした。

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まづ正面からもど…第十七章 前者の言ふ所

もどきは翁の台詞を繰り返す役

まず正面から「もどき」と呼ばれるのは、翁と一緒に出て、翁より一拍遅れて——これが正しいやり方ですが、今は同時に——台詞をやや大きな声で繰り返す役の名になっています。この役は陰陽師(おんみょうじ)あるいは修験者(しゅげんじゃ)としての正式の装いをしているのです。説明役であると同時に脇方に当たります。これは重要な役となっている鬼が登場する場合にも出ます。その時は鬼との問答を何番かするのです。

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鬼に対するもどきは第十七章 前者の言ふ所

翁の別バージョンが何通りもあった

鬼に対するもどきは、脇役です。 翁の形式が何通りにも繰り返されます。「ねぎ(禰宜=神職)」とか「なかと祓い(中臣祓=中臣氏が行う祓いの役)」とか「海道下り」とか呼んでいるのは、みな翁の役を重ねて演じるもので、一種の別バージョンの演出に過ぎないのです。すなわち、翁を演じる役者である禰宜が、その村に下ってきた由来と経歴を語るのでした。だから、これは翁のもどきなのです。

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処が第十七章 前者の言ふ所

黒尉は翁のわかりやすい通訳

ところが、翁にもこの演目にも、多くのおどけ役のもどきが出て暴れ回ります。しかもこのほかに必ず、翁に対してもう一つ「黒尉(くろじょう=黒い老人の面)」が出ます。これを「三番叟(さんばそう)」という所もあり、「しょうじっきり」という所もあります。また「猿楽」とも言うことは前に述べました。これはたいてい、翁の行いをわかりやすくし、詳しく説明するような役です。しかしそれに特殊な演出を持っています。

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前者の言ふ所を第十七章 前者の言ふ所

三番叟は翁の早口でエッチな通訳

前の演者が言うことを、別の言い方で、ある事実に当てはめて説明するという役回りなのです。翁よりはテンポが速く、滑稽で、日常的にくだけたところがあり、全体にわいせつな傾向を持ったものです。 信州新野(にいの)の雪祭りに出る「しょうじっきり」という黒尉は、その上さらに「もどき」という役と、そこから「さいほう」と呼ぶ役とを派生しています。

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此は第十七章 前者の言ふ所

もどきの上にもどきが重なる構造

これはたぶん「才の男(さいのお)」系統のものであることを意味する役名なのでしょうが、もどきの上にさらに「さいほう」を重ねているなどは、どこまでもどきが重なるのかわからないほどです。結局、古代の演芸には一つの役ごとに一つずつのもどき役を伴う習慣があったからなのです。 つい最近も、旧正月の観音の御縁日に、遠州奥山村(今は水窪町=みさくぼちょう)の西浦所能(にしうれしょのう)の田楽祭りを見学しました。

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まづ第十七章 前者の言ふ所

西浦田楽は最も古い田楽の姿

まず、近年私が見聞した田楽の中では、断片化はしていますが、演芸の演目が田楽として古い形を最も完全に近く伝えているものであることを知りました。 一九 もどき猿楽狂言

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西浦田楽のとりわ…第十七章 前者の言ふ所

西浦田楽はもどきの宝庫だった

西浦田楽のとりわけ示唆に富んだ点は、他の地方の田楽・花祭り・神楽などよりも、もっと「もどき」が豊富な点でありました。ほかの所では、もどきという名前すら忘れて、いくつかの重なりを行っていますが、ここでは、もちろんそうしたものもありますが、その上に重要なものには演目ごとに「もどきの手」というのが繰り返されていることです。

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さうして更に第十七章 前者の言ふ所

もどきは早送りで舞を繰り返す

そしてさらに注意すべきことは、「手」とあることです。舞いぶり——もっと正確に言うと「踏み鎮め(邪気を踏み鎮める所作)」のふりなのですが——を主とするものであることがうかがえます。 たいてい、まじめな一番が済むと、装束や持ち物もやや崩れた風で出てきて、前の舞をきわめて早いテンポで繰り返し、日常的にわかりやすく舞い和らげ、おどけぶりに変えて、もちろん時間も早く切り上げて引き込むのです。

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此で考へると第十七章 前者の言ふ所

もどきは芸能の通訳だった

これで考えると、もどき方は大体「通訳」風の役回りにあるものと見てよさそうです。その中から分化して、言葉の通俗的な翻訳をするものに、猿楽に昔からあった用語を転用するようになっていったのではありますまいか。そう考えれば、言い立て(台詞)を主とする翁のもどきである三番叟を「猿楽」と呼ぶのも、理由のあったことです。 この猿楽を専門とした猿楽能では、その役を脇方と分けて、わかりやすく「狂言」と呼んでおり、また「をかし」とも言います。

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第十八章 翁のもどき
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此は第十八章 翁のもどき

「をかし」は笑いではなく再演の意味

この「をかし」は、おかしがらせる(=笑わせる)ための役を意味するのではなく、もどきと同様に「犯し(おかし=再演すること)」であったものと考えられます。ここに、猿楽が「言(ことば=狂言)」と「能」の二つに分かれていく理由があるのです。「能」は脇方としての立場から発達したもの、「狂言」は言い立て・説明の側から出た名称と見られましょう。 こうして見ますと、狂言方から出る三番叟が、実は翁のもどき役であることがわかるでしょう。

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さうして第十八章 翁のもどき

黒い面の方が白い面より古かった

そして猿楽能の方では、舞が主になって言い立ての方がおろそかになっていったものと見ることができます。 こう申せば、翁は実に神聖な役のように見えますし、「して方(主役)」本来の役目のように見えますが、私はそこに問題を持っているのです。そもそも白式・黒式の両方の尉面(じょうめん=老人の能面)では、私に言わせると、黒式の方が古くて、白式はその神聖視が加わってきた時代に純化されたものだとするのです。

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役から見ると「翁…第十八章 翁のもどき

翁の白い面は後から神聖化された

役柄から見ると「翁のもどき」として三番叟ができたのですが、面(めん=能面)から言うと逆になります。白式の翁ももともとは黒い尉面をつけて出ていたのを、「採桑老(さいそうろう=舞楽の演目の老人の面)」風の面で表さなければならないほど神聖化したのです。そしてそのもどき役の方に黒い面を残したものと見られるのです。 この黒い面は、私は山人のしるしだと思うのであります。たとえば、踏歌節会(とうかのせちえ=正月の宮中行事)の高い冠をつけた寿ぎの一行の顔は、正しくはのっぺらぼうだったらしいのです。

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即、安摩・蘇利古…第十八章 翁のもどき

山人の面はのっぺらぼうだった

すなわち、安摩(あま)・蘇利古(そりこ=いずれも古い舞楽の演目で、のっぺりした面をつける)に近いものだったのです。白式の尉面が採桑老(さいそうろう)のようになるとともに、山人の面もしだいに変化して、ただ黒くしただけが違う尉面というようになったのでありましょう。古代の山人の顔は今となっては知るすべもありませんが、黒いという点では一致していても、黒式尉のような顔面の筋肉まで表した細やかな彫刻ではなかったはずです。

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併し第十八章 翁のもどき

「黒」のつく芸能はみな山の村にある

しかし、ちょっと申しておきましたように、「黒」という言葉が、わが国では一種独特な舞踊の保持団体と関係がありそうなのは事実です。黒山舞(くろやままい)の昔から、黒川能(くろかわのう)・黒倉田楽(くろくらでんがく)・黒平三番叟(くろだいらさんばそう)など、みな山中の芸能村なのです。これらの「くろ」は顔面の黒色を意味するものか、それとも芸の正統と雑多を区別するための用語か、今のところ断言はいたしかねるのですが、いずれにせよ「山人舞」と深い関係は考えられようと思います。

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