たけくらべ

✦ スナック翻訳版

樋口一葉 · 0/99

Snack Point

✦ 吉原のそばで大人になっていく少年少女たち。一葉が描く思春期の揺らぎと切なさ。

✦ 1895年発表。樋口一葉24歳の代表作。大鳥神社の祭りを背景に美登利と信如の淡い関係を描く。

✦ 明治の下町の空気がそのまま立ち上がってくる。

目次

登場人物

美登利 — 吉原の大黒屋の妹。快活な少女だが、やがて大人の世界に引き込まれる
信如 — 龍華寺の息子。美登利に淡い思いを寄せる内気な少年

底本情報

雅文体を読みやすい現代語に。原文の味わいはそのままに。

公開: 青空文庫
底本: 「にごりえ・たけくらべ」新潮文庫、新潮社
初出: 1895年
注意: スナック編集版の現代語訳はAIによる超意訳です。原文の意味を大きく意訳・再構成しており、学術的な正確さを保証するものではありません。
章構成: 章番号は原文準拠(章タイトルはSnackReadが独自に付与)

✦ スナック翻訳版について

原文に忠実なAI翻訳・現代語訳版です。原文/翻訳の切り替えができます。学術的な正確さを保証するものではありません。

※AIによる翻訳・現代語訳版
一 吉原のすぐそばで
一 吉原のすぐそばで1/10

大門を曲がれば見返り柳がずっと続いて、お歯黒溝に遊郭三階の灯りが映っている。車はひっきりなしに走り、その賑わいは計り知れない。 「大音寺前」と仏くさい名前だけど、ここは陽気な町だと住む人は言う。

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一 吉原のすぐそばで2/10

一軒や二軒じゃない。朝干して夕方しまう、大がかりな手当て。家族総出でいったい何を作っているのかと言えば、霜月の酉の市で売る、あの縁起物の熊手の仕込みだという。

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一 吉原のすぐそばで3/10

住んでいるのは遊郭の関係者ばかり。亭主は小格子の何とやら、下足札をがらんがらんそろえて忙しい。 夕暮れに羽織を引っかけて出ていく背中に、女房が切り火を打つ。その顔は「これが見納めか」。

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一 吉原のすぐそばで4/10

九月の仁和賀の頃、大通りをご覧あれ。子どもたちの物真似や踊りのうまいこと、孟子の母も驚くほど。 「うまい」と褒められりゃ「今夜ももう一回り」と、生意気は七つ八つからエスカレートしていく。

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一 吉原のすぐそばで5/10

大勢の中に龍華寺の信如がいた。きれいな黒髪も、いずれは剃って墨染の衣に替わる身。 出家は本人の望みなのか――ともかく親譲りの勉強家ではある。

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一 吉原のすぐそばで6/10

火消しや鳶の子は「お父さんは跳ね橋の番屋にいるよ」と、教わらなくても知っている。 梯子乗りの真似をして「忍び返しを折っちゃいました」なんて苦情が来るし。

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一 吉原のすぐそばで7/10

遊郭の秘蔵息子は寮住まいで華族気取り。フサ付き帽子にゆったりした顔つき、洋服を軽々と着こなして華やか。 周りの子が「坊ちゃん坊ちゃん」とお世辞を使うのも可笑しい。

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一 吉原のすぐそばで8/10

垢抜けした三十がらみの年増が、こざっぱりした唐桟揃いに紺足袋で、雪駄をちゃらちゃら。 横抱きの小包は聞くまでもなく、茶屋の桟橋への届け物。

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一 吉原のすぐそばで9/10

帯をきちんと結んでる子は少なくて、柄物の幅広帯をだらりと。 年増ならまだしも、十五六の小生意気なのが酸漿くわえてこの姿じゃ、目をつぶりたくなる人もいるだろう。

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一 吉原のすぐそばで10/10

十五歳、並の背丈でイガグリ頭。だが気のせいか、どこか普通の子とは違って見える。 「藤本信如」と名乗っているが、どこか「釈」を名のりたそうな素振り。

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一 吉原のすぐそばで

10スナック

二 祭りの前夜
二 祭りの前夜1/9

八月二十日は千束神社の祭り。山車を引き回し、町どうしが見栄を張り合って、土手を越えて廓の中にまで乗り込まんばかり。 若者たちの気合いのほどは推して知るべし。

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二 祭りの前夜2/9

「横町組」と自称する子どものガキ大将、長吉は十六歳。 去年の仁和賀で親父の代わりを務めてから、すっかり気位が高くなった。帯は腰の下にだらり、返事は鼻先で。

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二 祭りの前夜3/9

一方、表町には田中屋の正太郎。歳は三つ下だけど、家は金持ちで本人は愛嬌たっぷり、誰にも憎まれない。長吉にとっちゃ目の上のたんこぶだ。

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二 祭りの前夜4/9

負けそうになったら、もうヤケクソで暴れてやる。正太郎の顔に傷のひとつもつけてやる。 自分の片目や片足がなくなると思えば怖いもんか――。

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二 祭りの前夜5/9

「そうだ、藤本なら知恵を貸してくれるだろう」。 十八日の暮れ近く、やかましい蚊を払いながら、竹むら茂る龍華寺の庭をのそりのそりと、信如の部屋へ。

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二 祭りの前夜6/9

「だって僕は弱いよ」「弱くたっていい」 「万燈は振り回せないよ」「振り回さなくていい」 「僕が入ると負けるよ?」「負けたっていいんだ」

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二 祭りの前夜7/9

信如が机の引き出しから京都みやげの小刀を取り出して見せると、「よく切れそうだなあ」と長吉が目を輝かせて覗き込む。 危ない。こんなものを振り回してどうするつもりだ。

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二 祭りの前夜8/9

片や三尺帯に突っかけ草履の職人の息子。片や金巾の羽織に紫の兵児帯のお坊ちゃん育ち。 思っていることは正反対、話もいつも噛み合わないのだけれど。

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二 祭りの前夜9/9

頼まれた以上は断りきれず、信如は引き受けた。 「お前の組になるよ。なると言ったら嘘はつかない。だけど、なるべく喧嘩はしない方が勝ちだからね」。

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二 祭りの前夜

9スナック

三 美登利という少女
三 美登利という少女1/8

色白で鼻筋が通っていて、口元は小さくないけど引き締まっている。パーツを一つずつ見れば美人の鑑には遠い。 だけど声が澄んでいて、人を見る目に愛嬌があふれていて。

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三 美登利という少女2/8

大黒屋の美登利。生まれは紀州。言葉が少し訛るのもまた可愛い。 何より竹を割ったような気っ風のよさは、嫌いな人がいない。

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三 美登利という少女3/8

姉が身売りした時、品定めに来た楼主に誘われて、この土地で暮らそうと親子三人で出てきた。 それがここに来たわけだ。

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三 美登利という少女4/8

最初は藤色の絞りの半襟をつけて歩いていたら、「田舎者、田舎者!」と町の娘たちに笑われて、悔しくて三日三晩泣き明かした。 でも今じゃ、自分の方から人を嘲る側になっている。

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三 美登利という少女5/8

「お祭りだから思いっきり遊ぼうよ」と友達にせがまれると、「趣向はみんなで考えて。大勢の方が楽しいでしょ。お金ならいくらでも出すから」と、いつもの太っ腹。

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三 美登利という少女6/8

正太がくりくりの目を動かして言う。 「幻灯にしようよ、幻灯に!僕のとこにも少しはあるし、足りない分は美登利さんに買ってもらってさ」。

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三 美登利という少女7/8

朝湯帰り、首筋を白く見せて手ぬぐいを下げた立ち姿。 「あの子を三年後に見てみたいもんだ」と、廓帰りの若い男が言った。

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三 美登利という少女8/8

それにしても毎日毎晩の散財、この歳で普通なら許されない。将来どうなる身かと思うのに、両親はいても大目に見るばかりで、叱ったことがない。

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三 美登利という少女

8スナック

四 祭りの夜
四 祭りの夜1/8

太鼓も三味線も日頃から聞き飽きるほどの土地柄だけど、お祭りは別物。酉の市を除けば年に一度きりの大騒ぎだ。

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四 祭りの夜2/8

群れから離れて正太が歩いてくる。赤筋入りの印半纏に色白の首筋、紺の腹がけ。 見慣れない格好だけど、帯の水浅葱は上等の縮緬。さすが。

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四 祭りの夜3/8

美登利がひとり足りない。夕化粧が長くて、「まだかまだか」と正太は門を出たり入ったり。 「三五郎、呼んで来い!」

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四 祭りの夜4/8

ずんぐり太って背が低い。頭は才槌みたいで首が短い。振り向いた顔は出っ張った額に獅子鼻。 「反っ歯の三五郎」というあだ名の由来は察しがつくだろう。

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四 祭りの夜5/8

正太は筆屋の店先に座って、暇つぶしに「忍ぶ恋路」を小声で口ずさむ。 「あら、油断ならないわね」とおかみさんに笑われて、何だかわからないけど耳の根っこが赤くなる。

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四 祭りの夜6/8

おばあちゃんが自ら迎えに来て、正太はしぶしぶ連れ帰られた。とたんに場が淋しくなる。 人数はそんなに変わらないのに、あの子がいないと大人までも寂しい。

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四 祭りの夜7/8

三五郎は正太に「遊びに来い」と呼ばれたら断れない義理がある。 でも自分は横町に生まれ横町に育った身。住んでる家は龍華寺のもので、大家は長吉の親なのだ。

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四 祭りの夜8/8

田中屋の後家さまのいやらしいことといったら。あれで六十四歳。白粉を塗らないのがせめてもだけど、丸髷のでかさ、猫なで声で、人が死のうが何のその。

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四 祭りの夜

8スナック

五 夏の夕暮れの恋
五 夏の夕暮れの恋1/5

風の涼しい夏の夕暮れ。昼の暑さをお風呂で流して、姿見の前で母親が自分の手で美登利の乱れ髪を繕っている。

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五 夏の夕暮れの恋2/5

「三五郎いるか、ちょっと来い!急ぎだ!」と文次が呼ぶ。何も考えず「よし来た」と飛び出した瞬間―― 「この二股野郎、覚悟しろ!」

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五 夏の夕暮れの恋3/5

美登利が止める人を掻きのけて飛び出した。 「三ちゃんに何の罪があるのよ!正太さんと喧嘩したいなら正太さんとやりなさい。逃げも隠れもしないよ!」

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五 夏の夕暮れの恋4/5

「悔しい悔しい悔しい悔しい!長吉め文次め丑松め、なぜ俺を殺さないんだ! 俺だって三五郎だ、ただ死ぬもんか。幽霊になっても取り殺してやる!」

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五 夏の夕暮れの恋5/5

「ああつまんない、つまんない。あの人が来なきゃ幻灯を始める気にもなれない」。 「おばさん、ここのお店に知恵の板は売ってないかしら」。

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五 夏の夕暮れの恋

5スナック

六 正太と美登利
六 正太と美登利1/8

珍しいこともあるもんだ。この炎天下に雪でも降ったのか? 美登利が学校に行きたがらないなんて、よっぽどの不機嫌。

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六 正太と美登利2/8

正太が駆け寄って袂をつかむ。「美登利さん、昨日はごめんよ!」といきなり謝る。 「別にお前に謝られることなんてないよ」。

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六 正太と美登利3/8

「ねえ正さん、誰にも言わないでね。私が長吉に草履を投げつけられたって。 もしお母さんの耳に入ったら、叱られるのは私なんだから」。

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六 正太と美登利4/8

「寄ってかない?誰もいないよ。おばあちゃんも集金に出てるし、一人で淋しくてしょうがない。 前に話した錦絵、見せてあげるから寄ってきなよ」。

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六 正太と美登利5/8

「ああ、この母さんが生きてたらなあ」。 三つの時に死んで、父さんはいるけど田舎に帰ってしまったから、今はおばあちゃんと二人きりなのだ。

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六 正太と美登利6/8

「ねえ美登利さん、今度一緒に写真撮らない?僕は祭りの時の格好で、お前は粋な着物で。 水道尻の加藤で写そうよ」。

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六 正太と美登利7/8

「龍華寺のやつが羨ましがるようにさ。あいつきっと怒るよ、真っ青になって。 煮え肝だからね、赤くはならないんだ」。

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六 正太と美登利8/8

「正太さん、また夜においでよ。私の寮に遊びに来て。灯籠流してお魚追っかけましょ。池の橋が直ったから怖くないわ」。 言い捨てて帰る美登利の後ろ姿を、正太は嬉しそうに見送って――美しいと思った。

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六 正太と美登利

8スナック

七 二人の距離
七 二人の距離1/7

信如がどうしたことか、いつもの落ち着きに似ず、池のほとりの松の根につまずいて転んだ。 羽織の袂が泥だらけ。見かねた美登利が、自分の紅い絹のハンカチを差し出した。

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七 二人の距離2/7

「藤本のやつ、坊主のくせに女の子と話して嬉しそうにお礼なんか言ってさ」 「きっと美登利さんは藤本のお嫁さんになるんだろ。お寺の奥さんのことは大黒さまって言うんだぜ」。

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七 二人の距離3/7

美登利はそんな噂も気にとめず、「藤本さん、藤本さん」と変わらず親しく声をかけていた。 学校帰りに珍しい花を見つければ、遅れた信如を待って。

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七 二人の距離4/7

ほかの子には普通なのに、私にだけ嫌な顔をする。何を聞いてもまともに答えない。 近寄れば逃げる、話しかければ怒る。陰気で息が詰まる。

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七 二人の距離5/7

いつの間にか、二人の間に大きな川がひとつ横たわっていた。舟も筏もここでは御法度。 岸に沿って、それぞれの思いを抱えて歩くばかり。

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七 二人の距離6/7

祭りの翌日から、美登利がぱったり学校に来なくなった。理由は聞くまでもない。 額の泥は洗えば落ちても、あの屈辱が身にしみて悔しかったのだ。

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七 二人の距離7/7

「大黒屋の美登利は紙一枚だってお世話になったことはないのに、あんなふうに乞食呼ばわりされるいわれはない。 龍華寺がどんなに立派な檀家を持っていようが知らないけど」。

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七 二人の距離

7スナック

八 廓の朝と夕べ
八 廓の朝と夕べ1/4

「走れ飛ばせ」の夕べとは打って変わって、夜明けの別れに夢を乗せていく車の淋しいこと。 帽子を目深にかぶって人目を避ける人もいる。

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八 廓の朝と夕べ2/4

美登利にとって、男はちっとも怖くもなければ恐ろしくもない。 遊女という仕事だって、そんなに卑しいものとは思っていない。

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八 廓の朝と夕べ3/4

まだやっと数えの十四。人形を抱いて頬ずりする気持ちはお嬢さまと変わらないのに、道徳や家政学を学んだのは学校だけ。

58/99
八 廓の朝と夕べ4/4

「おばさん、あの太夫さん呼んでくるね!」と駆け寄って袂にすがりつき、こっそり何かを渡した。 誰にも中身は言わなかったけど、お気に入りの「明烏」をさらりと歌わせた。

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八 廓の朝と夕べ

4スナック

九 信如の家
九 信如の家1/5

龍華寺の大和尚。財産とともに太った腹がまあ立派なこと。 色艶のよさは、どう褒めたらいいのかわからないほど。

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九 信如の家2/5

信如はこの和尚の子で、きょうだいは男女二人。 そのうちの一人は生まれついての偏屈で、一日中部屋にこもってじっとしている陰気な性分。

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九 信如の家3/5

使い走りは信如の役目で、その嫌なことといったら骨身にしみる。道を歩くのに上を向いたことがない。 筋向かいの筆屋から子どもの声が聞こえれば、自分の悪口かと情けなくなる。

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九 信如の家4/5

霜月の酉の市には門前に簪の露店を出し、母親に手ぬぐいをかぶらせて「縁起のいいのをどうぞ」と呼び込みさせる趣向。

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九 信如の家5/5

友達からは「偏屈者の意地悪」と見られているけど、心の奥は弱い。 陰口をほんの少しでも言う者がいると聞けば、出ていって言い返す勇気もない。

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九 信如の家

5スナック

十 秋が来る
十 秋が来る1/5

祭りの夜、信如は姉のところへ使いに出されていた。 夜更けまで戻らなかったから、筆屋の騒ぎは夢にも知らない。

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十 秋が来る2/5

いちばん罪のないのは横町の三五郎。 さんざん殴られ蹴られて、二、三日は立つのも座るのもつらかった。

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十 秋が来る3/5

赤とんぼが田んぼを乱れ飛び、横堀にうずらが鳴く頃も近づいた。 朝夕の秋風が身にしみる。

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十 秋が来る4/5

秋雨がしとしと降るかと思えば、さっと吹きつけてくる淋しい夜。 通りすがりの客を待つ商売じゃないから、筆屋のおかみさんは宵の口から表の戸を閉めて。

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十 秋が来る5/5

目の見えない按摩の二十歳ばかりの娘が、叶わない恋に身を恨んで池に身を投げた、というのが最近の話題として伝わるくらいのもの。

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十 秋が来る

5スナック

十一 雨の夜の距離
十一 雨の夜の距離1/5

正太が潜り戸を開けて「ばあ!」と顔を出すと、二、三軒先の軒下をぽつぽつと歩いていく後ろ姿がある。

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十一 雨の夜の距離2/5

「嫌な坊主ったらないわ。きっと筆でも買いに来たのに、私たちがいるもんだから立ち聞きして帰ったんでしょう」。

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十一 雨の夜の距離3/5

「僕だってもうちょっとすりゃ大人になるんだ。蒲田屋の旦那みたいに角袖外套なんか着てさ、おばあちゃんがしまってる金時計をもらって」。

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十一 雨の夜の距離4/5

「じゃあ美登利さんが好きなんでしょう?そうと決めたんでしょ?」と図星を突かれて、「そんなこと知るもんか!」とくるっと後ろを向き、壁を指でとんとん。

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十一 雨の夜の距離5/5

「どうもしないよ」と気のない返事。座敷に上がって細螺を数えながら、「本っ当に嫌な小僧ったらない」。

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十一 雨の夜の距離

5スナック

十二 格子門の友禅
十二 格子門の友禅1/6

信如がいつも田町へ通る道。通らなくても用は足りるのに。「近道だから」という言い訳のその道の途中に、格子門がある。 覗けば鞍馬の石灯籠に萩の袖垣がしおらしい。

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十二 格子門の友禅2/6

よりによって下駄の前鼻緒がずるずると抜けてしまった。傘なんかよりこっちが一大事。 信如は舌打ちするけど、今さらどうにも直しようがない。

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十二 格子門の友禅3/6

美登利はガラス越しに外を眺めていた。「あれ、誰か鼻緒を切った人がいる。お母さん、端切れあげてもいい?」 針箱の引き出しから友禅縮緬の端切れをつかみ出した。

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十二 格子門の友禅4/6

信如だと気づいた途端、美登利の顔がかっと赤くなった。大事件にでも遭ったように胸がどきどき打つ。 誰かに見られていないかと、思わず背後を振り返る。

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十二 格子門の友禅5/6

格子の隙間から、端切れを黙って投げ出した。信如は見ていないふりをして、知らん顔。 「ああ、いつものことだ」。やるせない思いが目にたまって、少し涙の恨み顔。

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十二 格子門の友禅6/6

信如が淋しく振り返ると、紅入りの友禅が雨に濡れて、紅葉のかたちのうつくしいのが足元に散っている。 拾い上げたい気持ちはあるのに、手を伸ばせない。ただ空しく見つめるだけ。

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十二 格子門の友禅

6スナック

十三 長吉の不器用な優しさ
十三 長吉の不器用な優しさ1/4

「ここは大黒屋の前だ」と意識した途端、信如は何もかもが怖くなる。左右を見ずまっすぐ歩いたのに、あいにくの雨、折り悪しの風、そして鼻緒まで切れてしまった。

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十三 長吉の不器用な優しさ2/4

庭から覗いた美登利は歯がゆくてたまらない。 「ああ不器用な、あんな手つきでどうなるもんか。紙縒りはお婆さん縒りだし、藁しべなんか差しても長持ちしないわよ」。

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十三 長吉の不器用な優しさ3/4

「信さん、どうした?鼻緒切ったのか。その格好は何だ、みっともないな」 不意に声をかける者がいる。驚いて振り返ると――暴れ者の長吉だった。

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十三 長吉の不器用な優しさ4/4

思いの残る紅入りの友禅は、いたわしい姿のまま格子門の外にとどまっている。

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十三 長吉の不器用な優しさ

4スナック

十四 島田髷の朝
十四 島田髷の朝1/5

この年は三の酉まであった。間の一日は潰れたけど、前後は上天気で 大鳥神社の賑わいはすさまじい。

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十四 島田髷の朝2/5

「美登利さんならさっき家の前を通って揚屋町の方に入っていったよ。 正さん大変だぜ、今日はね、髪をこうやってこんな島田に結ってたんだ」。

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十四 島田髷の朝3/5

「大巻さんよりずっと綺麗だった。だけど、あの子が花魁になるのかと思うと可哀想だ」。 正太は下を向いてそう答えた。

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十四 島田髷の朝4/5

「十六七の頃までは蝶よ花よと育てられ――」怪しい震え声でこの頃の流行り歌を口ずさみ、「今では勤めが身にしみて」と小さく繰り返す。

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十四 島田髷の朝5/5

「姉さんの部屋で今朝結ってもらったの。私、嫌でしょうがない」。 うつむいて、往来を歩くのが恥ずかしそうだ。

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十四 島田髷の朝

5スナック

十五 大人になるということ
十五 大人になるということ1/5

つらくて恥ずかしくて、つつましいことが身にあると、人に褒められてもぜんぶ嘲りに聞こえる。 島田髷を振り返って見る人たちも、自分を蔑む目に思えてしまう。

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十五 大人になるということ2/5

団子屋の前を通りかかると、三五郎が「お中がよろしゅうございます!」と大げさに声をかけた。 その言葉を聞いた途端、美登利は泣きそうな顔になった。

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十五 大人になるということ3/5

美登利はもう何も答えず、袖を押さえて忍び泣き。まだ結い上げていない前髪が涙に濡れている。 何かわけがあるのだとは知れるけれど。

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十五 大人になるということ4/5

「嫌だ嫌だ、大人になるなんて嫌なこと。どうしてこんなふうに歳を取るの。 七月でも十月でもいい、一年前に戻りたい」。年寄りじみた考えが浮かぶ。

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十五 大人になるということ5/5

「帰って正太さん、お願いだから帰って。お前がいると私、死んじゃうかもしれない。 話しかけられると頭が痛い。口を利くと目が回る」。

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十五 大人になるということ

5スナック

十六 水仙の朝
十六 水仙の朝1/5

あの日を境に、美登利はまるで別人のようになった。 用のある時は廓の姉のところに通うけれど、町で遊ぶことはもうしない。

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十六 水仙の朝2/5

龍華寺の信如が僧侶の学校に入るという噂も、美登利の耳には一度も届かなかった。

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十六 水仙の朝3/5

夕暮れから筆屋の店に転がり込んで、今日の酉の市はめちゃくちゃ、あっちもこっちも怪しいことになっている。

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十六 水仙の朝4/5

あの勝ち気な意地をそっくり封じ込めて、ここしばらくの不思議な変化に自分が自分と思えない。 ただ何もかもが恥ずかしいばかり。

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十六 水仙の朝5/5

ある霜の朝、格子門の外から水仙の造り花をそっと差し入れた者があった。誰の仕業かはわからない。 だけど美登利はなぜか懐かしい気持ちになって、違い棚の一輪挿しに飾った。淋しく清いその姿を眺めていた。 その翌日が、信如が学林に入る日だったと、あとから聞いた。

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