【テキスト中に現れる記号について】:ルビ(例)吁!:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号(例)馬嘶くか:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)(例)※〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ(例)〔ae' ao, ae' ao, e'o, ae'o e'o〕アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
🍿 Snack Point
言葉の天才が紡ぐ切ない抒情。中也の魂がそのまま響いてくる詩集。
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html-------------------------------------------------------初期詩篇春の日の夕暮トタンがセンベイ食べて春の日の夕暮は穏かですアンダースローされた灰が蒼ざめて春の日の夕暮は静かです吁! 案山子はないか——あるまい馬嘶くか——嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに従順なのは 春の日の夕暮かポトホトと野の中に伽藍は紅く荷馬車の車輪 油を失ひ私が歴史的現在に物を云へば嘲る嘲る 空と山とが瓦が一枚 はぐれましたこれから春の日の夕暮は無言ながら 前進します自らの 静脈管の中へです月今宵月はいよよ愁しく、養父の疑惑に瞳を※る。秒刻は銀波を砂漠に流し老男の耳朶は螢光をともす。あゝ忘られた運河の岸堤胸に残つた戦車の地音
銹びつく鑵の煙草とりいで月は懶く喫つてゐる。それのめぐりを七人の天女は趾頭舞踊しつづけてゐるが、汚辱に浸る月の心になんの慰愛もあたへはしない。遠にちらばる星と星よ!おまへの※手を月は待つてるサーカス幾時代かがありまして茶色い戦争ありました幾時代かがありまして冬は疾風吹きました幾時代かがありまして今夜此処での一と殷盛り今夜此処での一と殷盛りサーカス小屋は高い梁そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ頭倒さに手を垂れて汚れ木綿の屋蓋のもとゆあーん ゆよーん ゆやゆよんそれの近くの白い灯が安値いリボンと息を吐き観客様はみな鰯咽喉が鳴ります牡蠣殻とゆあーん ゆよーん ゆやゆよん屋外は真ッ闇 闇の闇夜は劫々と更けまする落下傘奴のノスタルヂアとゆあーん ゆよーん ゆやゆよん春の夜燻銀なる窓枠の中になごやかに一枝の花、桃色の花。月光うけて失神し庭の土面は附黒子。
あゝこともなしこともなし樹々よはにかみ立ちまはれ。このすゞろなる物の音に希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。山虔しき木工のみ、夢の裡なる隊商のその足竝もほのみゆれ。窓の中にはさはやかの、おぼろかの砂の色せる絹衣。かびろき胸のピアノ鳴り祖先はあらず、親も消ぬ。埋みし犬の何処にか、蕃紅花色に湧きいづる春の夜や。朝の歌天井に 朱きいろいで戸の隙を 洩れ入る光、鄙びたる 軍楽の憶ひ
手にてなす なにごともなし。小鳥らの うたはきこえず空は今日 はなだ色らし、倦んじてし 人のこころを諫めする なにものもなし。樹脂の香に 朝は悩ましうしなひし さまざまのゆめ、森竝は 風に鳴るかなひろごりて たひらかの空、土手づたひ きえてゆくかなうつくしき さまざまの夢。臨終秋空は鈍色にして黒馬の瞳のひかり水涸れて落つる百合花あゝ こころうつろなるかな神もなくしるべもなくて窓近く婦の逝きぬ
白き空盲ひてありて白き風冷たくありぬ窓際に髪を洗へばその腕の優しくありぬ朝の日は澪れてありぬ水の音したたりてゐぬ町々はさやぎてありぬ子等の声もつれてありぬしかはあれ この魂はいかにとなるか?うすらぎて 空となるか?都会の夏の夜月は空にメダルのやうに、街角に建物はオルガンのやうに、遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。——イカムネ・カラアがまがつてゐる——その脣は※ききつてその心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になつて、ただもうラアラア唱つてゆくのだ。商用のことや祖先のことや忘れてゐるといふではないが、都会の夏の夜の更——死んだ火薬と深くして眼に外燈の滲みいればただもうラアラア唱つてゆくのだ。秋の一日こんな朝、遅く目覚める人達は戸にあたる風と轍との音によつて、サイレンの棲む海に溺れる。夏の夜の露店の会話と、建築家の良心はもうない。あらゆるものは古代歴史と花崗岩のかなたの地平の目の色。
今朝はすべてが領事館旗のもとに従順で、私は錫と広場と天鼓のほかのなんにも知らない。軟体動物のしやがれ声にも気をとめないで、紫の蹲んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。(水色のプラットホームと躁ぐ少女と嘲笑ふヤンキイはいやだ いやだ!)ぽけっとに手を突込んで路次を抜け、波止場に出でて今日の日の魂に合ふ布切屑をでも探して来よう。黄昏渋つた仄暗い池の面で、寄り合つた蓮の葉が揺れる。蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。音をたてると私の心が揺れる、目が薄明るい地平線を逐ふ……黒々と山がのぞきかかるばつかりだ——失はれたものはかへつて来ない。なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない草の根の匂ひが静かに鼻にくる、畑の土が石といつしよに私を見てゐる。——竟に私は耕やさうとは思はない!ぢいつと茫然黄昏の中に立つて、なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです深夜の思ひ
これは泡立つカルシウムの乾きゆく急速な——頑ぜない女の児の泣声だ、鞄屋の女房の夕の鼻汁だ。林の黄昏は擦れた母親。虫の飛交ふ梢のあたり、舐子のお道化た踊り。波うつ毛の猟犬見えなく、猟師は猫背を向ふに運ぶ。森を控へた草地が坂になる!黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄するヴェールを風に千々にされながら。彼女の肉は跳び込まねばならぬ、厳しき神の父なる海に!崖の上の彼女の上に精霊が怪しげなる条を描く。
彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片附け彼女は直きに死なねばならぬ。冬の雨の夜冬の黒い夜をこめてどしやぶりの雨が降つてゐた。——夕明下に投げいだされた、萎れ大根の陰惨さ、あれはまだしも結構だつた——今や黒い冬の夜をこめどしやぶりの雨が降つてゐる。亡き乙女達の声さへがして〔ae' ao, ae' ao, e'o, ae'o e'o〕!その雨の中を漂ひながらいつだか消えてなくなつた、あの乳白の※嚢たち……
今や黒い冬の夜をこめどしやぶりの雨が降つてゐて、わが母上の帯締めも雨水に流れ、潰れてしまひ、人の情けのかずかずも竟に蜜柑の色のみだつた? ……帰郷柱も庭も乾いてゐる今日は好い天気だ縁の下では蜘蛛の巣が心細さうに揺れてゐる山では枯木も息を吐くあゝ今日は好い天気だ路傍の草影があどけない愁みをするこれが私の故里ださやかに風も吹いてゐる心置なく泣かれよと年増婦の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……吹き来る風が私に云ふ凄じき黄昏捲き起る、風も物憂き頃ながら、草は靡きぬ、我はみぬ、遐き昔の隼人等を。銀紙色の竹槍の、汀に沿ひて、つづきけり。——雑魚の心を俟みつつ。吹く風誘はず、地の上の敷きある屍——空、演壇に立ちあがる。家々は、賢き陪臣、ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。逝く夏の歌並木の梢が深く息を吸つて、空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子を、歩み来た旅人は周章てて見付けた。山の端は、澄んで澄んで、金魚や娘の口の中を清くする。飛んでくるあの飛行機には、昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。風はリボンを空に送り、私は嘗て陥落した海のことをその浪のことを語らうと思ふ。騎兵聯隊や上肢の運動や、下級官吏の赤靴のことや、山沿ひの道を乗手もなく行く自転車のことを語らうと思ふ。悲しき朝河瀬の音が山に来る、
春の光は、石のやうだ。筧の水は、物語る白髪の嫗にさも肖てる。雲母の口して歌つたよ、背ろに倒れ、歌つたよ、心は涸れて皺枯れて、巌の上の、綱渡り。知れざる炎、空にゆき!響の雨は、濡れ冠る!……………………………われかにかくに手を拍く……夏の日の歌青い空は動かない、雲片一つあるでない。夏の真昼の静かにはタールの光も清くなる。夏の空には何かがある、いぢらしく思はせる何かがある、焦げて図太い向日葵が
田舎の駅には咲いてゐる。上手に子供を育てゆく、母親に似て汽車の汽笛は鳴る。山の近くを走る時。山の近くを走りながら、母親に似て汽車の汽笛は鳴る。夏の真昼の暑い時。夕照丘々は、胸に手を当て退けり。落陽は、慈愛の色の金のいろ。原に草、鄙唄うたひ山に樹々、老いてつましき心ばせ。かゝる折しも我ありぬ小児に踏まれし貝の肉。かゝるをりしも剛直の、さあれゆかしきあきらめよ腕拱みながら歩み去る。港市の秋
石崖に、朝陽が射して秋空は美しいかぎり。むかふに見える港は、蝸牛の角でもあるのか町では人々煙管の掃除。甍は伸びをし空は割れる。役人の休み日——どてら姿だ。『今度生れたら……』海員が唄ふ。『ぎーこたん、ばつたりしよ……』狸婆々がうたふ。港の市の秋の日は、大人しい発狂。私はその日人生に、椅子を失くした。ためいき河上徹太郎にためいきは夜の沼にゆき、瘴気の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。夜が明けたら地平線に、窓が開くだらう。荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。ためいきはなほ深くして、丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。野原に突出た山ノ端の松が、私を看守つてゐるだらう。それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。空が曇つたら、蝗螽の瞳が、砂土の中に覗くだらう。遠くに町が、石灰みたいだ。ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。春の思ひ出摘み溜めしれんげの華を夕餉に帰る時刻となれば立迷ふ春の暮靄の土の上に叩きつけいまひとたびは未練で眺めさりげなく手を拍きつつ路の上を走りてくれば(暮れのこる空よ!)わが家へと入りてみればなごやかにうちまじりつつ秋の日の夕陽の丘か炊煙か
われを暈めかすもののあり古き代の富みし館のカドリール ゆらゆるスカーツカドリール ゆらゆるスカーツ何時の日か絶えんとはする カドリール!秋の夜空これはまあ、おにぎはしい、みんなてんでなことをいふそれでもつれぬみやびさよいづれ揃つて夫人たち。下界は秋の夜といふに上天界のにぎはしさ。すべすべしてゐる床の上、金のカンテラ点いてゐる。小さな頭、長い裳裾、椅子は一つもないのです。下界は秋の夜といふに
上天界のあかるさよ。ほんのりあかるい上天界遐き昔の影祭、しづかなしづかな賑はしさ上天界の夜の宴。私は下界で見てゐたが、知らないあひだに退散した。宿酔朝、鈍い日が照つてて風がある。千の天使がバスケットボールする。私は目をつむる、かなしい酔ひだ。もう不用になつたストーヴが白つぽく銹びてゐる。朝、鈍い日が照つてて風がある。千の天使がバスケットボールする。少年時少年時黝い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。地平の果に蒸気が立つて、世の亡ぶ、兆のやうだつた。麦田には風が低く打ち、おぼろで、灰色だつた。翔びゆく雲の落とす影のやうに、田の面を過ぎる、昔の巨人の姿——夏の日の午過ぎ時刻誰彼の午睡するとき、私は野原を走つて行つた……私は希望を唇に噛みつぶして私はギロギロする目で諦めてゐた……噫、生きてゐた、私は生きてゐた!盲目の秋※風が立ち、浪が騒ぎ、無限の前に腕を振る。
その間、小さな紅の花が見えはするが、それもやがては潰れてしまふ。風が立ち、浪が騒ぎ、無限のまへに腕を振る。もう永遠に帰らないことを思つて酷白な嘆息するのも幾たびであらう……私の青春はもはや堅い血管となり、その中を曼珠沙華と夕陽とがゆきすぎる。それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛へ、去りゆく女が最後にくれる笑ひのやうに、厳かで、ゆたかで、それでゐて佗しく異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
あゝ、胸に残る……風が立ち、浪が騒ぎ、無限のまへに腕を振る。※これがどうならうと、あれがどうならうと、そんなことはどうでもいいのだ。これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、そんなことはなほさらどうだつていいのだ。人には自恃があればよい!その余はすべてなるまゝだ……自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、ただそれだけが人の行ひを罪としない。平気で、陽気で、藁束のやうにしむみりと、
朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!※私の聖母!とにかく私は血を吐いた! ……おまへが情けをうけてくれないので、とにかく私はまゐつてしまつた……それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、私がおまへを愛することがごく自然だつたので、おまへもわたしを愛してゐたのだが……おゝ! 私の聖母!いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい——ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、そんなにたびたびあることでなく、そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。IIIIせめて死の時には、あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。その時は白粧をつけてゐてはいや、その時は白粧をつけてゐてはいや。ただ静かにその胸を披いて、私の眼に輻射してゐて下さい。何にも考へてくれてはいや、
たとへ私のために考へてくれるのでもいや。ただはららかにはららかに涙を含み、あたたかく息づいてゐて下さい。——もしも涙がながれてきたら、いきなり私の上にうつ俯して、それで私を殺してしまつてもいい。すれば私は心地よく、うねうねの暝土の径を昇りゆく。わが喫煙おまへのその、白い二本の脛が、夕暮、港の町の寒い夕暮、によきによきと、ペエヴの上を歩むのだ。店々に灯がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いてゐると、おまへが声をかけるのだ、どつかにはひつて憩みませうよと。そこで私は、橋や荷足を見残しながら、レストオランに這入るのだ——わんわんいふ喧騒、むつとするスチーム、さても此処は別世界。そこで私は、時宜にも合はないおまへの陽気な顔を眺め、かなしく煙草を吹かすのだ、一服、一服、吹かすのだ……妹よ夜、うつくしい魂は涕いて、——かの女こそ正当なのに——夜、うつくしい魂は涕いて、
もう死んだつていいよう……といふのであつた。湿つた野原の黒い土、短い草の上を夜風は吹いて、死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、うつくしい魂は涕くのであつた。夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに——祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……寒い夜の自我像きらびやかでもないけれどこの一本の手綱をはなさずこの陰暗の地域を過ぎる!その志明らかなれば冬の夜を我は嘆かず人々の憔懆のみの愁しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄をわが瑣細なる罰と感じそが、わが皮膚を刺すにまかす。蹌踉めくままに静もりを保ち、聊かは儀文めいた心地をもつてわれはわが怠惰を諫める寒月の下を往きながら。陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、わが魂の願ふことであつた!木蔭神社の鳥居が光をうけて楡の葉が小さく揺すれる夏の昼の青々した木蔭は私の後悔を宥めてくれる暗い後悔 いつでも附纏ふ後悔
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去はやがて涙つぽい晦暝となりやがて根強い疲労となつたかくて今では朝から夜まで忍従することのほかに生活を持たない怨みもなく喪心したやうに空を見上げる私の眼——神社の鳥居が光をうけて楡の葉が小さく揺すれる夏の昼の青々した木蔭は私の後悔を宥めてくれる失せし希望暗き空へと消え行きぬわが若き日を燃えし希望は。夏の夜の星の如くは今もなほ遐きみ空に見え隠る、今もなほ。
暗き空へと消えゆきぬわが若き日の夢は希望は。今はた此処に打伏して獣の如くは、暗き思ひす。そが暗き思ひいつの日晴れんとの知るよしなくて、溺れたる夜の海より空の月、望むが如し。その浪はあまりに深くその月はあまりに清く、あはれわが若き日を燃えし希望の今ははや暗き空へと消え行きぬ。夏血を吐くやうな 倦うさ、たゆけさ今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ空は燃え、畑はつづき雲浮び、眩しく光り今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る血を吐くやうなせつなさに。嵐のやうな心の歴史は終焉つてしまつたもののやうにそこから繰れる一つの緒もないもののやうに燃ゆる日の彼方に睡る。私は残る、亡骸として——血を吐くやうなせつなさかなしさ。心象※松の木に風が吹き、踏む砂利の音は寂しかつた。暖い風が私の額を洗ひ思ひははるかに、なつかしかつた。
腰をおろすと、浪の音がひときは聞えた。星はなく空は暗い綿だつた。とほりかかつた小舟の中で船頭がその女房に向つて何かを云つた。——その言葉は、聞きとれなかつた。浪の音がひときはきこえた。※亡びたる過去のすべてに涙湧く。城の塀乾きたり風の吹く草靡く丘を越え、野を渉り憩ひなき白き天使のみえ来ずやあはれわれ死なんと欲す、あはれわれ生きむと欲すあはれわれ、亡びたる過去のすべてに涙湧く。み空の方より、風の吹く
みちこみちこそなたの胸は海のやうおほらかにこそうちあぐる。はるかなる空、あをき浪、涼しかぜさへ吹きそひて松の梢をわたりつつ磯白々とつづきけり。またなが目にはかの空のいやはてまでもうつしゐて竝びくるなみ、渚なみ、いとすみやかにうつろひぬ。みるとしもなく、ま帆片帆沖ゆく舟にみとれたる。またその※のうつくしさふと物音におどろきて午睡の夢をさまされし牡牛のごとも、あどけなくかろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯しぬ。しどけなき、なれが頸は虹にしてちからなき、嬰児ごとき腕して絃うたあはせはやきふし、なれの踊れば、海原はなみだぐましき金にして夕陽をたたへ沖つ瀬は、いよとほく、かしこしづかにうるほへる空になん、汝の息絶ゆるとわれはながめぬ。汚れつちまつた悲しみに……汚れつちまつた悲しみに今日も小雪の降りかかる汚れつちまつた悲しみに今日も風さへ吹きすぎる汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘汚れつちまつた悲しみは小雪のかかつてちぢこまる汚れつちまつた悲しみはなにのぞむなくねがふなく汚れつちまつた悲しみは倦怠のうちに死を夢む汚れつちまつた悲しみにいたいたしくも怖気づき汚れつちまつた悲しみになすところもなく日は暮れる……無題※こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして正体もなく、今茲に告白をする、恥もなく、品位もなく、かといつて正直さもなく私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。人の気持ちをみようとするやうなことはつひになく、こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに私は頑なで、子供のやうに我儘だつた!目が覚めて、宿酔の厭ふべき頭の中で、戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!※彼女の心は真つ直い!彼女は荒々しく育ち、たよりもなく、心を汲んでももらへない、乱雑な中に生きてきたが、彼女の心は私のより真つ直いそしてぐらつかない。彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に彼女は賢くつつましく生きてゐる。
あまりにわいだめもない世の渦のために、折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、而もなほ、最後の品位をなくしはしない彼女は美しい、そして賢い!甞て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、彼女は出遇はなかつた。おまけに彼女はそれと識らずに、唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。そして少しはいぢけてゐる。
彼女は可哀想だ!※かくは悲しく生きん世に、なが心かたくなにしてあらしめな。われはわが、したしさにはあらんとねがへばなが心、かたくなにしてあらしめな。かたくなにしてあるときは、心に眼魂に、言葉のはたらきあとを絶つなごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらのうまし夢、またそがことわり分ち得ん。おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて悪酔の、狂ひ心地に美を索むわが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、人に勝らん心のみいそがはしき熱を病む風景ばかりかなしきはなし。IIII私はおまへのことを思つてゐるよ。いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、昼も夜も浸つてゐるよ、まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。いろんなことが考へられもするが、考へられてもそれはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。またさうすることのほかには、私にはもはや希望も目的も見出せないのだからさうすることは、私に幸福なんだ。幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、いかなることとも知らないで、私はおまへに尽せるんだから幸福だ!※ 幸福幸福は厩の中にゐる藁の上に。幸福は和める心には一挙にして分る。頑なの心は、不幸でいらいらして、せめてめまぐるしいものや数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。幸福は、休んでゐるそして明らかになすべきことを少しづつ持ち、幸福は、理解に富んでゐる。頑なの心は、理解に欠けて、なすべきをしらず、ただ利に走り、意気銷沈して、怒りやすく、人に嫌はれて、自らも悲しい。されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。従ひて、迎へられんとには非ず、従ふことのみ学びとなるべく、学びて汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!更くる夜内海誓一郎に
毎晩々々、夜が更けると、近所の湯屋の水汲む音がきこえます。流された残り湯が湯気となつて立ち、昔ながらの真つ黒い武蔵野の夜です。おつとり霧も立罩めてその上に月が明るみます、と、犬の遠吠がします。その頃です、僕が囲炉裏の前で、あえかな夢をみますのは。随分……今では損はれてはゐるものの今でもやさしい心があつて、こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、感謝にみちて聴きいるのです、感謝にみちて聴きいるのです。
つみびとの歌阿部六郎にわが生は、下手な植木師らにあまりに夙く、手を入れられた悲しさよ!由来わが血の大方は頭にのぼり、煮え返り、滾り泡だつ。おちつきがなく、あせり心地に、つねに外界に索めんとする。その行ひは愚かで、その考へは分ち難い。かくてこのあはれなる木は、粗硬な樹皮を、空と風とに、心はたえず、追惜のおもひに沈み、懶懦にして、とぎれとぎれの仕草をもち、人にむかつては心弱く、諂ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来してしまふ。秋秋1昨日まで燃えてゐた野が今日茫然として、曇つた空の下につづく。一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ秋蝉は、もはやかしこに鳴いてゐる、草の中の、ひともとの木の中に。僕は煙草を喫ふ。その煙が澱んだ空気の中をくねりながら昇る。地平線はみつめようにもみつめられない陽炎の亡霊達が起つたり坐つたりしてゐるので、——僕は蹲んでしまふ。
鈍い金色を帯びて、空は曇つてゐる、——相変らずだ、——とても高いので、僕は俯いてしまふ。僕は倦怠を観念して生きてゐるのだよ、煙草の味が三通りくらゐにする。死ももう、とほくはないのかもしれない……2『それではさよならといつて、めうに真鍮の光沢かなんぞのやうな笑を湛へて彼奴は、あのドアの所を立ち去つたのだつたあね。あの笑ひがどうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。
彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』『ええさうよ。——死ぬつてことが分かつてゐたのだわ?星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達よ。‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』3草がちつともゆれなかつたのよ、その上を蝶々がとんでゐたのよ。浴衣を着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。お豆腐屋の笛が方々で聞えてゐたわ、あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、——僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、
昨日三十貫くらゐある石をコジ起しちやつた、つてのよ。——まあどうして、どこで?つてあたし訊いたのよ。するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。死ぬまへつてへんなものねえ……修羅街輓歌関口隆克に序歌忌はしい憶ひ出よ、去れ! そしてむかしの憐みの感情とゆたかな心よ、返つて来い!今日は日曜日縁側には陽が当る。——もういつぺん母親に連れられて
祭の日には風船玉が買つてもらひたい、空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……忌はしい憶ひ出よ、去れ!去れ去れ!※ 酔生私の青春も過ぎた、——この寒い明け方の鶏鳴よ!私の青春も過ぎた。ほんに前後もみないで生きて来た……私はあむまり陽気にすぎた?——無邪気な戦士、私の心よ!それにしても私は憎む、対外意識にだけ生きる人々を。——パラドクサルな人生よ。いま茲に傷つきはてて、
——この寒い明け方の鶏鳴よ!おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……※ 独語器の中の水が揺れないやうに、器を持ち運ぶことは大切なのだ。さうでさへあるならばモーションは大きい程いい。しかしさうするために、もはや工夫を凝らす余地もないなら……心よ、謙抑にして神恵を待てよ。IIIIいといと淡き今日の日は雨蕭々と降り洒ぎ水より淡き空気にて林の香りすなりけり。げに秋深き今日の日は石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがにまして夢などあるべきか。まことや我は石のごと影の如くは生きてきぬ……呼ばんとするに言葉なく空の如くははてもなし。それよかなしきわが心いはれもなくて拳する誰をか責むることかある?せつなきことのかぎりなり。雪の宵青いソフトに降る雪は過ぎしその手か囁きか 白秋ホテルの屋根に降る雪は過ぎしその手か、囁きかふかふか煙突煙吐いて、赤い火の粉も刎ね上る。今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……ほんに別れたあのをんな、いまごろどうしてゐるのやら。ほんにわかれたあのをんな、いまに帰つてくるのやら徐かに私は酒のんで悔と悔とに身もそぞろ。しづかにしづかに酒のんでいとしおもひにそそらるる……ホテルの屋根に降る雪は過ぎしその手か、囁きかふかふか煙突煙吐いて赤い火の粉も刎ね上る。生ひ立ちの歌※幼年時私の上に降る雪は真綿のやうでありました少年時私の上に降る雪は霙のやうでありました
十七—十九私の上に降る雪は霰のやうに散りました二十—二十二私の上に降る雪は雹であるかと思はれた二十三私の上に降る雪はひどい吹雪とみえました二十四私の上に降る雪はいとしめやかになりました……※私の上に降る雪は花びらのやうに降つてきます薪の燃える音もして凍るみ空の黝む頃私の上に降る雪はいとなよびかになつかしく手を差伸べて降りました私の上に降る雪は熱い額に落ちもくる涙のやうでありました私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に長生したいと祈りました私の上に降る雪はいと貞潔でありました時こそ今は……時こそ今は花は香炉に打薫じボードレール時こそ今は花は香炉に打薫じ、そこはかとないけはひです。しほだる花や水の音や、家路をいそぐ人々や。いかに泰子、今こそはしづかに一緒に、をりませう。遠くの空を、飛ぶ鳥もいたいけな情け、みちてます。いかに泰子、いまこそは暮るる籬や群青の空もしづかに流るころ。
いかに泰子、今こそはおまへの髪毛なよぶころ花は香炉に打薫じ、羊の歌羊の歌安原喜弘に※ 祈り死の時には私が仰向かんことを!この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。あゝ、その時私の仰向かんことを!せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!※思惑よ、汝 古く暗き気体よ、わが裡より去れよかし!
われはや単純と静けき呟きと、とまれ、清楚のほかを希はず。交際よ、汝陰鬱なる汚濁の許容よ、更めてわれを目覚ますことなかれ!われはや孤寂に耐へんとす、わが腕は既に無用の有に似たり。汝、疑ひとともに見開く眼よ見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、わが裡より去れよかし去れよかし!われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず※
我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、其処此処に時々陽の光も落ちたとはいへ。ボードレール九歳の子供がありました女の子供でありました世界の空気が、彼女の有であるやうにまたそれは、凭つかかられるもののやうに彼女は頸をかしげるのでした私と話してゐる時に。私は炬燵にあたつてゐました彼女は畳に坐つてゐました冬の日の、珍しくよい天気の午前私の室には、陽がいつぱいでした彼女が頸かしげると彼女の耳朶 陽に透きました。
私を信頼しきつて、安心しきつてかの女の心は蜜柑の色にそのやさしさは氾濫するなく、かといつて鹿のやうに縮かむこともありませんでした私はすべての用件を忘れこの時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味しました。IIIIさるにても、もろに佗しいわが心夜な夜なは、下宿の室に独りゐて思ひなき、思ひを思ふ 単調のつまし心の連弾よ……汽車の笛聞こえもくれば旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……思ひなき、おもひを思ふわが胸は閉ざされて、醺生ゆる手匣にこそはさも似たれしらけたる脣、乾きし頬酷薄の、これな寂莫にほとぶなり……これやこの、慣れしばかりに耐へもするさびしさこそはせつなけれ、みづからはそれともしらず、ことやうに、たまさかにながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……憔悴
〔Pour tout homme, il vient une e'poque〕〔ou` l'homme languit. —Proverbe.〕Il faut d'abord avoir soif……——〔Cathe'rine de Me'dicis.〕私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた起きれば愁はしい 平常のおもひ私は、悪い意志をもつてゆめみた……
(私は其処に安住したのでもないが、其処を抜け出すことも叶はなかつた)そして、夜が来ると私は思ふのだつた、此の世は、海のやうなものであると。私はすこししけてゐる宵の海をおもつた其処を、やつれた顔の船頭はおぼつかない手で漕ぎながら獲物があるかあるまいことか水の面を、にらめながらに過ぎてゆく※昔 私は思つてゐたものだつた恋愛詩なぞ愚劣なものだと今私は恋愛詩を詠み甲斐あることに思ふのだ
だがまだ今でもともすると恋愛詩よりもましな詩境にはいりたいその心が間違つてゐるかゐないか知らないがとにかくさういふ心が残つてをりそれは時々私をいらだてとんだ希望を起させる昔私は思つてゐたものだつた恋愛詩なぞ愚劣なものだとけれどもいまでは恋愛をゆめみるほかに能がない※それが私の堕落かどうかどうして私に知れようものか腕にたるむだ私の怠惰今日も日が照る 空は青いよひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ真面目な希望も その怠惰の中から憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬあゝ それにしてもそれにしてもゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!IIIIしかし此の世の善だの悪だの容易に人間に分りはせぬ人間に分らない無数の理由があれをもこれをも支配してゐるのだ山蔭の清水のやうに忍耐ぶかくつぐむでゐれば愉しいだけだ汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんなやがては全体の調和に溶けて空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……※さてどうすれば利するだらうか、とかどうすれば哂はれないですむだらうか、とかと要するに人を相手の思惑に明けくれすぐす、世の人々よ、僕はあなたがたの心も尤もと感じ一生懸命郷に従つてもみたのだが今日また自分に帰るのだひつぱつたゴムを手離したやうにさうしてこの怠惰の窗の中から扇のかたちに食指をひろげ
青空を喫ふ 閑を嚥む蛙さながら水に泛んで夜は夜とて星をみるあゝ 空の奥、空の奥。※しかし またかうした僕の状態がつづき、僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、自分の生存をしんきくさく感じ、ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。と、聞えてくる音楽には心惹かれ、ちよつとは生き生きしもするのですが、その時その二つつは僕の中に死んで、あゝ 空の歌、海の歌、ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですがそれにしても辛いことです、怠惰を※れるすべがない!いのちの声もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。——ソロモン僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。僕は雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔れてゐる。そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。
しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆分つたためしはない。時に自分を揶揄ふやうに、僕は自分に訊いてみるのだ。それは女か? 甘いものか? それは栄誉か?すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?※否何れとさへそれはいふことの出来ぬもの!手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずるそれよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!人は皆、知ると知らぬに拘らず、そのことを希望してをり、勝敗に心覚き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!併し幸福といふものが、このやうに無私の境のものであり、かの慧敏なる商人の、称して阿呆といふでもあらう底のものとすれば、めしをくはねば生きてゆかれぬ現身の世は、不公平なものであるよといはねばならぬ。だが、それが此の世といふものなんで、其処に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因て我等自身も構成されたる原理であれば、然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。※されば要は、熱情の問題である。汝、心の底より立腹せば怒れよ!さあれ、怒ることこそ汝が最後なる目標の前にであれ、この言ゆめゆめおろそかにする勿れ。そは、熱情はひととき持続し、やがて熄むなるに、その社会的効果は存続し、汝が次なる行為への転調の障げとなるなれば。IIII
ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。