山羊の歌

中原中也 · 0/294

Snack Point

✦ 言葉の天才が紡ぐ切ない抒情。中也の魂がそのまま響いてくる詩集。

✦ 1934年刊行。中原中也の生前唯一の詩集。「汚れっちまった悲しみに」「サーカス」など代表作を収録。

✦ 口語のリズムと音楽性が際立つ。声に出して読みたい詩。

目次

底本情報

公開: 青空文庫
底本: 「中原中也詩集」岩波文庫、岩波書店
初出: 1934年
章構成: 章タイトルは原文準拠(章番号はSnackReadが独自に付与)
春の日の夕暮
春の日の夕暮1/4

春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて 春の日の夕暮は穏かです アンダースローされた灰が蒼ざめて 春の日の夕暮は静かです

1/294
春の日の夕暮2/4

吁! 案山子はないか――あるまい 馬嘶くか――嘶きもしまい ただただ月の光のヌメランとするまゝに 従順なのは 春の日の夕暮か

2/294
春の日の夕暮3/4

ポトホトと野の中に伽藍は紅く 荷馬車の車輪 油を失ひ 私が歴史的現在に物を云へば 嘲る嘲る 空と山とが

3/294
春の日の夕暮4/4

瓦が一枚 はぐれました これから春の日の夕暮は 無言ながら 前進します 自らの 静脈管の中へです

4/294
🔒

春の日の夕暮

4スナック

1/4

今宵月はいよよ愁しく、 養父の疑惑に瞳をる。 秒刻は銀波を砂漠に流し 老男の耳朶は螢光をともす。

5/294
2/4

あゝ忘られた運河の岸堤 胸に残つた戦車の地音 銹びつく鑵の煙草とりいで 月は懶く喫つてゐる。

6/294
3/4

それのめぐりを七人の天女は 趾頭舞踊しつづけてゐるが、 汚辱に浸る月の心に

7/294
4/4

なんの慰愛もあたへはしない。 遠にちらばる星と星よ! おまへの※手を月は待つてる

8/294
🔒

4スナック

サーカス
サーカス1/8

サーカス

幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました

9/294
サーカス2/8

幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました

10/294
サーカス3/8

幾時代かがありまして 今夜此処での一と殷盛り 今夜此処での一と殷盛り

11/294
サーカス4/8

サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ 見えるともないブランコだ

12/294
サーカス5/8

頭倒さに手を垂れて 汚れ木綿の屋蓋のもと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

13/294
サーカス6/8

それの近くの白い灯が 安値いリボンと息を吐き

14/294
サーカス7/8

観客様はみな鰯 咽喉が鳴ります牡蠣殻と ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

15/294
サーカス8/8

屋外は真ッ闇 闇の闇 夜は劫々と更けまする 落下傘奴のノスタルヂアと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

16/294
🔒

サーカス

8スナック

春の夜
春の夜1/8

春の夜

燻銀なる窓枠の中になごやかに 一枝の花、桃色の花。

17/294
春の夜2/8

月光うけて失神し 庭の土面は附黒子。

18/294
春の夜3/8

あゝこともなしこともなし 樹々よはにかみ立ちまはれ。

19/294
春の夜4/8

このすゞろなる物の音に 希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。

20/294
春の夜5/8

山虔しき木工のみ、 夢の裡なる隊商のその足竝もほのみゆれ。

21/294
春の夜6/8

窓の中にはさはやかの、おぼろかの 砂の色せる絹衣。

22/294
春の夜7/8

かびろき胸のピアノ鳴り 祖先はあらず、親も消ぬ。

23/294
春の夜8/8

埋みし犬の何処にか、 蕃紅花色に湧きいづる 春の夜や。

24/294
🔒

春の夜

8スナック

朝の歌
朝の歌1/4

朝の歌

天井に 朱きいろいで 戸の隙を 洩れ入る光、 鄙びたる 軍楽の憶ひ 手にてなす なにごともなし。

25/294
朝の歌2/4

小鳥らの うたはきこえず 空は今日 はなだ色らし、 倦んじてし 人のこころを 諫めする なにものもなし。

26/294
朝の歌3/4

樹脂の香に 朝は悩まし うしなひし さまざまのゆめ、 森竝は 風に鳴るかな

27/294
朝の歌4/4

ひろごりて たひらかの空、 土手づたひ きえてゆくかな うつくしき さまざまの夢。

28/294
🔒

朝の歌

4スナック

臨終
臨終1/4

臨終

秋空は鈍色にして 黒馬の瞳のひかり 水涸れて落つる百合花 あゝ こころうつろなるかな

29/294
臨終2/4

神もなくしるべもなくて 窓近く婦の逝きぬ 白き空盲ひてありて 白き風冷たくありぬ

30/294
臨終3/4

窓際に髪を洗へば その腕の優しくありぬ 朝の日は澪れてありぬ 水の音したたりてゐぬ

31/294
臨終4/4

町々はさやぎてありぬ 子等の声もつれてありぬ しかはあれ この魂はいかにとなるか? うすらぎて 空となるか?

32/294
🔒

臨終

4スナック

都会の夏の夜
都会の夏の夜1/4

都会の夏の夜

月は空にメダルのやうに、 街角に建物はオルガンのやうに、 遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。 ――イカムネ・カラアがまがつてゐる――

33/294
都会の夏の夜2/4

その脣はききつて その心は何か悲しい。 頭が暗い土塊になつて、 ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

34/294
都会の夏の夜3/4

商用のことや祖先のことや 忘れてゐるといふではないが、 都会の夏の夜の更――

35/294
都会の夏の夜4/4

死んだ火薬と深くして 眼に外燈の滲みいれば ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

36/294
🔒

都会の夏の夜

4スナック

秋の一日
秋の一日1/5

秋の一日

こんな朝、遅く目覚める人達は 戸にあたる風と轍との音によつて、 サイレンの棲む海に溺れる。

37/294
秋の一日2/5

夏の夜の露店の会話と、 建築家の良心はもうない。 あらゆるものは古代歴史と 花崗岩のかなたの地平の目の色。

38/294
秋の一日3/5

今朝はすべてが領事館旗のもとに従順で、 私は錫と広場と天鼓のほかのなんにも知らない。 軟体動物のしやがれ声にも気をとめないで、 紫の蹲んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

39/294
秋の一日4/5

(水色のプラットホームと 躁ぐ少女と嘲笑ふヤンキイは いやだ いやだ!)

40/294
秋の一日5/5

ぽけっとに手を突込んで 路次を抜け、波止場に出でて 今日の日の魂に合ふ 布切屑をでも探して来よう。

41/294
🔒

秋の一日

5スナック

黄昏
黄昏1/4

黄昏

渋つた仄暗い池の面で、 寄り合つた蓮の葉が揺れる。 蓮の葉は、図太いので こそこそとしか音をたてない。

42/294
黄昏2/4

音をたてると私の心が揺れる、 目が薄明るい地平線を逐ふ…… 黒々と山がのぞきかかるばつかりだ ――失はれたものはかへつて来ない。

43/294
黄昏3/4

なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない 草の根の匂ひが静かに鼻にくる、 畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

44/294
黄昏4/4

――竟に私は耕やさうとは思はない! ぢいつと茫然黄昏の中に立つて、 なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです

45/294
🔒

黄昏

4スナック

深夜の思ひ
深夜の思ひ1/4

深夜の思ひ

これは泡立つカルシウムの 乾きゆく 急速な――頑ぜない女の児の泣声だ、 鞄屋の女房の夕の鼻汁だ。

46/294
深夜の思ひ2/4

林の黄昏は 擦れた母親。 虫の飛交ふ梢のあたり、 舐子のお道化た踊り。 波うつ毛の猟犬見えなく、 猟師は猫背を向ふに運ぶ。 森を控へた草地が 坂になる!

47/294
深夜の思ひ3/4

黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄する ヴェールを風に千々にされながら。 彼女の肉は跳び込まねばならぬ、 厳しき神の父なる海に!

48/294
深夜の思ひ4/4

崖の上の彼女の上に 精霊が怪しげなる条を描く。 彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片附け 彼女は直きに死なねばならぬ。

49/294
🔒

深夜の思ひ

4スナック

冬の雨の夜
冬の雨の夜1/2

冬の雨の夜

冬の黒い夜をこめて どしやぶりの雨が降つてゐた。 ――夕明下に投げいだされた、萎れ大根の陰惨さ、 あれはまだしも結構だつた―― 今や黒い冬の夜をこめ どしやぶりの雨が降つてゐる。

50/294
冬の雨の夜2/2

亡き乙女達の声さへがして a ao, a ao, o, ao o! その雨の中を漂ひながら いつだか消えてなくなつた、あの乳白の嚢たち…… 今や黒い冬の夜をこめ どしやぶりの雨が降つてゐて、 わが母上の帯締めも 雨水に流れ、潰れてしまひ、 人の情けのかずかずも 竟に蜜柑の色のみだつた? ……

51/294
🔒

冬の雨の夜

2スナック

帰郷
帰郷1/4

帰郷

柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ 縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる

52/294
帰郷2/4

山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ 路傍の草影が あどけない愁みをする

53/294
帰郷3/4

これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる 心置なく泣かれよと 年増婦の低い声もする

54/294
帰郷4/4

あゝ おまへはなにをして来たのだと…… 吹き来る風が私に云ふ

55/294
🔒

帰郷

4スナック

凄じき黄昏
凄じき黄昏1/4

凄じき黄昏

捲き起る、風も物憂き頃ながら、 草は靡きぬ、我はみぬ、 遐き昔の隼人等を。

56/294
凄じき黄昏2/4

銀紙色の竹槍の、 汀に沿ひて、つづきけり。 ――雑魚の心を俟みつつ。

57/294
凄じき黄昏3/4

吹く風誘はず、地の上の 敷きある屍―― 空、演壇に立ちあがる。

58/294
凄じき黄昏4/4

家々は、賢き陪臣、 ニコチンに、汚れたる歯を押匿す。

59/294
🔒

凄じき黄昏

4スナック

逝く夏の歌
逝く夏の歌1/4

逝く夏の歌

並木の梢が深く息を吸つて、 空は高く高く、それを見てゐた。 日の照る砂地に落ちてゐた硝子を、 歩み来た旅人は周章てて見付けた。

60/294
逝く夏の歌2/4

山の端は、澄んで澄んで、 金魚や娘の口の中を清くする。 飛んでくるあの飛行機には、 昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

61/294
逝く夏の歌3/4

風はリボンを空に送り、 私は嘗て陥落した海のことを その浪のことを語らうと思ふ。

62/294
逝く夏の歌4/4

騎兵聯隊や上肢の運動や、 下級官吏の赤靴のことや、 山沿ひの道を乗手もなく行く 自転車のことを語らうと思ふ。

63/294
🔒

逝く夏の歌

4スナック

悲しき朝
悲しき朝1/6

悲しき朝

河瀬の音が山に来る、 春の光は、石のやうだ。 筧の水は、物語る 白髪の嫗にさも肖てる。

64/294
悲しき朝2/6

雲母の口して歌つたよ、 背ろに倒れ、歌つたよ、 心は涸れて皺枯れて、 巌の上の、綱渡り。

65/294
悲しき朝3/6

知れざる炎、空にゆき!

66/294
悲しき朝4/6

響の雨は、濡れ冠る!

67/294
悲しき朝5/6

……………………………

68/294
悲しき朝6/6

われかにかくに手を拍く……

69/294
🔒

悲しき朝

6スナック

夏の日の歌
夏の日の歌1/4

夏の日の歌

青い空は動かない、 雲片一つあるでない。 夏の真昼の静かには タールの光も清くなる。

70/294
夏の日の歌2/4

夏の空には何かがある、 いぢらしく思はせる何かがある、 焦げて図太い向日葵が 田舎の駅には咲いてゐる。

71/294
夏の日の歌3/4

上手に子供を育てゆく、 母親に似て汽車の汽笛は鳴る。 山の近くを走る時。

72/294
夏の日の歌4/4

山の近くを走りながら、 母親に似て汽車の汽笛は鳴る。 夏の真昼の暑い時。

73/294
🔒

夏の日の歌

4スナック

夕照
夕照1/4

夕照

丘々は、胸に手を当て 退けり。 落陽は、慈愛の色の 金のいろ。

74/294
夕照2/4

原に草、 鄙唄うたひ 山に樹々、 老いてつましき心ばせ。

75/294
夕照3/4

かゝる折しも我ありぬ 小児に踏まれし 貝の肉。

76/294
夕照4/4

かゝるをりしも剛直の、 さあれゆかしきあきらめよ 腕拱みながら歩み去る。

77/294
🔒

夕照

4スナック

港市の秋
港市の秋1/9

港市の秋

石崖に、朝陽が射して 秋空は美しいかぎり。 むかふに見える港は、 蝸牛の角でもあるのか

78/294
港市の秋2/9

町では人々煙管の掃除。 甍は伸びをし 空は割れる。 役人の休み日――どてら姿だ。

79/294
港市の秋3/9

『今度生れたら……』 海員が唄ふ。 『ぎーこたん、ばつたりしよ……』 狸婆々がうたふ。

80/294
港市の秋4/9

港の市の秋の日は、 大人しい発狂。 私はその日人生に、 椅子を失くした。

81/294
港市の秋5/9

ためいき 河上徹太郎に

82/294
港市の秋6/9

ためいきは夜の沼にゆき、 瘴気の中で瞬きをするであらう。 その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。 木々が若い学者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。

83/294
港市の秋7/9

夜が明けたら地平線に、窓が開くだらう。 荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。 ためいきはなほ深くして、 丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。

84/294
港市の秋8/9

野原に突出た山ノ端の松が、私を看守つてゐるだらう。 それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。 神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。

85/294
港市の秋9/9

空が曇つたら、蝗螽の瞳が、砂土の中に覗くだらう。 遠くに町が、石灰みたいだ。 ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。

86/294
🔒

港市の秋

9スナック

春の思ひ出
春の思ひ出1/4

春の思ひ出

摘み溜めしれんげの華を 夕餉に帰る時刻となれば 立迷ふ春の暮靄の 土の上に叩きつけ

87/294
春の思ひ出2/4

いまひとたびは未練で眺め さりげなく手を拍きつつ 路の上を走りてくれば (暮れのこる空よ!)

88/294
春の思ひ出3/4

わが家へと入りてみれば なごやかにうちまじりつつ 秋の日の夕陽の丘か炊煙か われを暈めかすもののあり

89/294
春の思ひ出4/4

古き代の富みし館の カドリール ゆらゆるスカーツ カドリール ゆらゆるスカーツ 何時の日か絶えんとはする カドリール!

90/294
🔒

春の思ひ出

4スナック

秋の夜空
秋の夜空1/3

秋の夜空

これはまあ、おにぎはしい、 みんなてんでなことをいふ それでもつれぬみやびさよ いづれ揃つて夫人たち。 下界は秋の夜といふに 上天界のにぎはしさ。

91/294
秋の夜空2/3

すべすべしてゐる床の上、 金のカンテラ点いてゐる。 小さな頭、長い裳裾、 椅子は一つもないのです。 下界は秋の夜といふに 上天界のあかるさよ。

92/294
秋の夜空3/3

ほんのりあかるい上天界 遐き昔の影祭、 しづかなしづかな賑はしさ 上天界の夜の宴。 私は下界で見てゐたが、 知らないあひだに退散した。

93/294
🔒

秋の夜空

3スナック

宿酔
宿酔1/3

宿酔

朝、鈍い日が照つてて 風がある。 千の天使が バスケットボールする。

94/294
宿酔2/3

私は目をつむる、 かなしい酔ひだ。 もう不用になつたストーヴが 白つぽく銹びてゐる。

95/294
宿酔3/3

朝、鈍い日が照つてて 風がある。 千の天使が バスケットボールする。

96/294
🔒

宿酔

3スナック

少年時
少年時1/6

少年時

黝い石に夏の日が照りつけ、 庭の地面が、朱色に睡つてゐた。

97/294
少年時2/6

地平の果に蒸気が立つて、 世の亡ぶ、兆のやうだつた。

98/294
少年時3/6

麦田には風が低く打ち、 おぼろで、灰色だつた。

99/294
少年時4/6

翔びゆく雲の落とす影のやうに、 田の面を過ぎる、昔の巨人の姿――

100/294
少年時5/6

夏の日の午過ぎ時刻 誰彼の午睡するとき、 私は野原を走つて行つた……

101/294
少年時6/6

私は希望を唇に噛みつぶして 私はギロギロする目で諦めてゐた…… 噫、生きてゐた、私は生きてゐた!

102/294
🔒

少年時

6スナック

盲目の秋(1/2)
盲目の秋(1/2)1/10

盲目の秋

風が立ち、浪が騒ぎ、 無限の前に腕を振る。

103/294
盲目の秋(1/2)2/10

その間、小さな紅の花が見えはするが、 それもやがては潰れてしまふ。

104/294
盲目の秋(1/2)3/10

風が立ち、浪が騒ぎ、 無限のまへに腕を振る。

105/294
盲目の秋(1/2)4/10

もう永遠に帰らないことを思つて 酷白な嘆息するのも幾たびであらう……

106/294
盲目の秋(1/2)5/10

私の青春はもはや堅い血管となり、 その中を曼珠沙華と夕陽とがゆきすぎる。

107/294
盲目の秋(1/2)6/10

それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛へ、 去りゆく女が最後にくれる笑ひのやうに、

108/294
盲目の秋(1/2)7/10

厳かで、ゆたかで、それでゐて佗しく 異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

109/294
盲目の秋(1/2)8/10

あゝ、胸に残る……

110/294
盲目の秋(1/2)9/10

風が立ち、浪が騒ぎ、 無限のまへに腕を振る。

111/294
盲目の秋(1/2)10/10

これがどうならうと、あれがどうならうと、 そんなことはどうでもいいのだ。

112/294
🔒

盲目の秋(1/2)

10スナック

盲目の秋(2/2)
盲目の秋(2/2)1/13

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、 そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

113/294
盲目の秋(2/2)2/13

人には自恃があればよい! その余はすべてなるまゝだ……

114/294
盲目の秋(2/2)3/13

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、 ただそれだけが人の行ひを罪としない。

115/294
盲目の秋(2/2)4/13

平気で、陽気で、藁束のやうにしむみりと、 朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!

116/294
盲目の秋(2/2)5/13

私の聖母! とにかく私は血を吐いた! …… おまへが情けをうけてくれないので、 とにかく私はまゐつてしまつた……

117/294
盲目の秋(2/2)6/13

それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、 それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、 私がおまへを愛することがごく自然だつたので、 おまへもわたしを愛してゐたのだが……

118/294
盲目の秋(2/2)7/13

おゝ! 私の聖母! いまさらどうしやうもないことではあるが、 せめてこれだけ知るがいい――

119/294
盲目の秋(2/2)8/13

ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、 そんなにたびたびあることでなく、 そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。

120/294
盲目の秋(2/2)9/13

IIII

121/294
盲目の秋(2/2)10/13

せめて死の時には、 あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。 その時は白粧をつけてゐてはいや、 その時は白粧をつけてゐてはいや。

122/294
盲目の秋(2/2)11/13

ただ静かにその胸を披いて、 私の眼に輻射してゐて下さい。 何にも考へてくれてはいや、 たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

123/294
盲目の秋(2/2)12/13

ただはららかにはららかに涙を含み、 あたたかく息づいてゐて下さい。 ――もしも涙がながれてきたら、

124/294
盲目の秋(2/2)13/13

いきなり私の上にうつ俯して、 それで私を殺してしまつてもいい。 すれば私は心地よく、うねうねの暝土の径を昇りゆく。

125/294
🔒

盲目の秋(2/2)

13スナック

わが喫煙
わが喫煙1/2

わが喫煙

おまへのその、白い二本の脛が、 夕暮、港の町の寒い夕暮、 によきによきと、ペエヴの上を歩むのだ。 店々に灯がついて、灯がついて、 私がそれをみながら歩いてゐると、 おまへが声をかけるのだ、 どつかにはひつて憩みませうよと。

126/294
わが喫煙2/2

そこで私は、橋や荷足を見残しながら、 レストオランに這入るのだ―― わんわんいふ喧騒、むつとするスチーム、 さても此処は別世界。 そこで私は、時宜にも合はないおまへの陽気な顔を眺め、 かなしく煙草を吹かすのだ、 一服、一服、吹かすのだ……

127/294
🔒

わが喫煙

2スナック

妹よ
妹よ1/3

妹よ

夜、うつくしい魂は涕いて、 ――かの女こそ正当なのに―― 夜、うつくしい魂は涕いて、 もう死んだつていいよう……といふのであつた。

128/294
妹よ2/3

湿つた野原の黒い土、短い草の上を 夜風は吹いて、 死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、 うつくしい魂は涕くのであつた。

129/294
妹よ3/3

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……

130/294
🔒

妹よ

3スナック

寒い夜の自我像
寒い夜の自我像1/3

寒い夜の自我像

きらびやかでもないけれど この一本の手綱をはなさず この陰暗の地域を過ぎる! その志明らかなれば 冬の夜を我は嘆かず 人々の憔懆のみの愁しみや 憧れに引廻される女等の鼻唄を わが瑣細なる罰と感じ そが、わが皮膚を刺すにまかす。

131/294
寒い夜の自我像2/3

蹌踉めくままに静もりを保ち、 聊かは儀文めいた心地をもつて われはわが怠惰を諫める 寒月の下を往きながら。

132/294
寒い夜の自我像3/3

陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、 わが魂の願ふことであつた!

133/294
🔒

寒い夜の自我像

3スナック

木蔭
木蔭1/4

木蔭

神社の鳥居が光をうけて 楡の葉が小さく揺すれる 夏の昼の青々した木蔭は 私の後悔を宥めてくれる

134/294
木蔭2/4

暗い後悔 いつでも附纏ふ後悔 馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は やがて涙つぽい晦暝となり やがて根強い疲労となつた

135/294
木蔭3/4

かくて今では朝から夜まで 忍従することのほかに生活を持たない 怨みもなく喪心したやうに 空を見上げる私の眼――

136/294
木蔭4/4

神社の鳥居が光をうけて 楡の葉が小さく揺すれる 夏の昼の青々した木蔭は 私の後悔を宥めてくれる

137/294
🔒

木蔭

4スナック

失せし希望
失せし希望1/8

失せし希望

暗き空へと消え行きぬ わが若き日を燃えし希望は。

138/294
失せし希望2/8

夏の夜の星の如くは今もなほ 遐きみ空に見え隠る、今もなほ。

139/294
失せし希望3/8

暗き空へと消えゆきぬ わが若き日の夢は希望は。

140/294
失せし希望4/8

今はた此処に打伏して 獣の如くは、暗き思ひす。

141/294
失せし希望5/8

そが暗き思ひいつの日 晴れんとの知るよしなくて、

142/294
失せし希望6/8

溺れたる夜の海より 空の月、望むが如し。

143/294
失せし希望7/8

その浪はあまりに深く その月はあまりに清く、

144/294
失せし希望8/8

あはれわが若き日を燃えし希望の 今ははや暗き空へと消え行きぬ。

145/294
🔒

失せし希望

8スナック

1/4

血を吐くやうな 倦うさ、たゆけさ 今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り 睡るがやうな悲しさに、み空をとほく 血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

146/294
2/4

空は燃え、畑はつづき 雲浮び、眩しく光り 今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る 血を吐くやうなせつなさに。

147/294
3/4

嵐のやうな心の歴史は 終焉つてしまつたもののやうに そこから繰れる一つの緒もないもののやうに 燃ゆる日の彼方に睡る。

148/294
4/4

私は残る、亡骸として―― 血を吐くやうなせつなさかなしさ。

149/294
🔒

4スナック

心象
心象1/8

心象

松の木に風が吹き、 踏む砂利の音は寂しかつた。 暖い風が私の額を洗ひ 思ひははるかに、なつかしかつた。

150/294
心象2/8

腰をおろすと、 浪の音がひときは聞えた。 星はなく 空は暗い綿だつた。

151/294
心象3/8

とほりかかつた小舟の中で 船頭がその女房に向つて何かを云つた。 ――その言葉は、聞きとれなかつた。

152/294
心象4/8

浪の音がひときはきこえた。

153/294
心象5/8

亡びたる過去のすべてに 涙湧く。 城の塀乾きたり 風の吹く

154/294
心象6/8

草靡く 丘を越え、野を渉り 憩ひなき 白き天使のみえ来ずや

155/294
心象7/8

あはれわれ死なんと欲す、 あはれわれ生きむと欲す あはれわれ、亡びたる過去のすべてに

156/294
心象8/8

涙湧く。 み空の方より、 風の吹く

157/294
🔒

心象

8スナック

みちこ
みちこ1/4

みちこ

そなたの胸は海のやう おほらかにこそうちあぐる。 はるかなる空、あをき浪、 涼しかぜさへ吹きそひて 松の梢をわたりつつ 磯白々とつづきけり。

158/294
みちこ2/4

またなが目にはかの空の いやはてまでもうつしゐて 竝びくるなみ、渚なみ、 いとすみやかにうつろひぬ。 みるとしもなく、ま帆片帆 沖ゆく舟にみとれたる。

159/294
みちこ3/4

またそののうつくしさ ふと物音におどろきて 午睡の夢をさまされし 牡牛のごとも、あどけなく かろやかにまたしとやかに もたげられ、さてうち俯しぬ。

160/294
みちこ4/4

しどけなき、なれが頸は虹にして ちからなき、嬰児ごとき腕して 絃うたあはせはやきふし、なれの踊れば、 海原はなみだぐましき金にして夕陽をたたへ 沖つ瀬は、いよとほく、かしこしづかにうるほへる 空になん、汝の息絶ゆるとわれはながめぬ。

161/294
🔒

みちこ

4スナック

汚れつちまつた悲しみに……
汚れつちまつた悲しみに……1/4

汚れつちまつた悲しみに……

汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れつちまつた悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる

162/294
汚れつちまつた悲しみに……2/4

汚れつちまつた悲しみは たとへば狐の革裘 汚れつちまつた悲しみは 小雪のかかつてちぢこまる

163/294
汚れつちまつた悲しみに……3/4

汚れつちまつた悲しみは なにのぞむなくねがふなく 汚れつちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む

164/294
汚れつちまつた悲しみに……4/4

汚れつちまつた悲しみに いたいたしくも怖気づき 汚れつちまつた悲しみに なすところもなく日は暮れる……

165/294
🔒

汚れつちまつた悲しみに……

4スナック

無題(1/3)
無題(1/3)1/10

無題

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、 私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、 酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝 目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら 私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして 正体もなく、今茲に告白をする、恥もなく、 品位もなく、かといつて正直さもなく 私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。

166/294
無題(1/3)2/10

人の気持ちをみようとするやうなことはつひになく、 こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに 私は頑なで、子供のやうに我儘だつた! 目が覚めて、宿酔の厭ふべき頭の中で、 戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら 私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。 そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、 今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!

167/294
無題(1/3)3/10

彼女の心は真つ直い! 彼女は荒々しく育ち、 たよりもなく、心を汲んでも もらへない、乱雑な中に 生きてきたが、彼女の心は 私のより真つ直いそしてぐらつかない。

168/294
無題(1/3)4/10

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に 彼女は賢くつつましく生きてゐる。 あまりにわいだめもない世の渦のために、 折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、 而もなほ、最後の品位をなくしはしない 彼女は美しい、そして賢い!

169/294
無題(1/3)5/10

甞て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは! しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。 我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、 彼女は出遇はなかつた。おまけに彼女はそれと識らずに、 唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。 そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!

170/294
無題(1/3)6/10

かくは悲しく生きん世に、なが心 かたくなにしてあらしめな。 われはわが、したしさにはあらんとねがへば なが心、かたくなにしてあらしめな。

171/294
無題(1/3)7/10

かたくなにしてあるときは、心に眼 魂に、言葉のはたらきあとを絶つ なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

172/294
無題(1/3)8/10

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて 悪酔の、狂ひ心地に美を索む わが世のさまのかなしさや、

173/294
無題(1/3)9/10

おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、 人に勝らん心のみいそがはしき 熱を病む風景ばかりかなしきはなし。

174/294
無題(1/3)10/10

IIII

175/294
🔒

無題(1/3)

10スナック

無題(2/3)
無題(2/3)1/10

私はおまへのことを思つてゐるよ。 いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、 昼も夜も浸つてゐるよ、 まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。

176/294
無題(2/3)2/10

私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。 いろんなことが考へられもするが、考へられても それはどうにもならないことだしするから、 私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。

177/294
無題(2/3)3/10

またさうすることのほかには、私にはもはや 希望も目的も見出せないのだから さうすることは、私に幸福なんだ。

178/294
無題(2/3)4/10

幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、 いかなることとも知らないで、私は おまへに尽せるんだから幸福だ!

179/294
無題(2/3)5/10

幸福

180/294
無題(2/3)6/10

幸福は厩の中にゐる 藁の上に。 幸福は 和める心には一挙にして分る。

181/294
無題(2/3)7/10

頑なの心は、不幸でいらいらして、 せめてめまぐるしいものや 数々のものに心を紛らす。 そして益々不幸だ。

182/294
無題(2/3)8/10

幸福は、休んでゐる そして明らかになすべきことを 少しづつ持ち、 幸福は、理解に富んでゐる。

183/294
無題(2/3)9/10

頑なの心は、理解に欠けて、 なすべきをしらず、ただ利に走り、 意気銷沈して、怒りやすく、 人に嫌はれて、自らも悲しい。

184/294
無題(2/3)10/10

されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。 従ひて、迎へられんとには非ず、 従ふことのみ学びとなるべく、学びて 汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!

185/294
🔒

無題(2/3)

10スナック

無題(3/3)
無題(3/3)1/8

更くる夜 内海誓一郎に

186/294
無題(3/3)2/8

毎晩々々、夜が更けると、近所の湯屋の 水汲む音がきこえます。 流された残り湯が湯気となつて立ち、 昔ながらの真つ黒い武蔵野の夜です。 おつとり霧も立罩めて その上に月が明るみます、 と、犬の遠吠がします。

187/294
無題(3/3)3/8

その頃です、僕が囲炉裏の前で、 あえかな夢をみますのは。 随分……今では損はれてはゐるものの 今でもやさしい心があつて、 こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、 感謝にみちて聴きいるのです、 感謝にみちて聴きいるのです。

188/294
無題(3/3)4/8

つみびとの歌 阿部六郎に

189/294
無題(3/3)5/8

わが生は、下手な植木師らに あまりに夙く、手を入れられた悲しさよ! 由来わが血の大方は 頭にのぼり、煮え返り、滾り泡だつ。

190/294
無題(3/3)6/8

おちつきがなく、あせり心地に、 つねに外界に索めんとする。 その行ひは愚かで、 その考へは分ち難い。

191/294
無題(3/3)7/8

かくてこのあはれなる木は、 粗硬な樹皮を、空と風とに、 心はたえず、追惜のおもひに沈み、

192/294
無題(3/3)8/8

懶懦にして、とぎれとぎれの仕草をもち、 人にむかつては心弱く、諂ひがちに、かくて われにもない、愚事のかぎりを仕出来してしまふ。

193/294
🔒

無題(3/3)

8スナック

秋(1/3)
秋(1/3)1/10

194/294
秋(1/3)2/10

昨日まで燃えてゐた野が 今日茫然として、曇つた空の下につづく。 一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ 秋蝉は、もはやかしこに鳴いてゐる、 草の中の、ひともとの木の中に。

195/294
秋(1/3)3/10

僕は煙草を喫ふ。その煙が 澱んだ空気の中をくねりながら昇る。 地平線はみつめようにもみつめられない 陽炎の亡霊達が起つたり坐つたりしてゐるので、 ――僕は蹲んでしまふ。

196/294
秋(1/3)4/10

鈍い金色を帯びて、空は曇つてゐる、――相変らずだ、―― とても高いので、僕は俯いてしまふ。 僕は倦怠を観念して生きてゐるのだよ、 煙草の味が三通りくらゐにする。 死ももう、とほくはないのかもしれない……

197/294
秋(1/3)5/10

198/294
秋(1/3)6/10

『それではさよならといつて、 めうに真鍮の光沢かなんぞのやうな笑を湛へて彼奴は、 あのドアの所を立ち去つたのだつたあね。 あの笑ひがどうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。 彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。 話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。 短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。 つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

199/294
秋(1/3)7/10

『ええさうよ。――死ぬつてことが分かつてゐたのだわ? 星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達よ。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』

200/294
秋(1/3)8/10

201/294
秋(1/3)9/10

草がちつともゆれなかつたのよ、 その上を蝶々がとんでゐたのよ。 浴衣を着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。 あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。 あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。 お豆腐屋の笛が方々で聞えてゐたわ、 あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、 ――僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、 昨日三十貫くらゐある石をコジ起しちやつた、つてのよ。

202/294
秋(1/3)10/10

――まあどうして、どこで?つてあたし訊いたのよ。 するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、 怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。

203/294
🔒

秋(1/3)

10スナック

秋(2/3)
秋(2/3)1/10

死ぬまへつてへんなものねえ……

204/294
秋(2/3)2/10

修羅街輓歌 関口隆克に

205/294
秋(2/3)3/10

序歌

206/294
秋(2/3)4/10

忌はしい憶ひ出よ、 去れ! そしてむかしの 憐みの感情と ゆたかな心よ、 返つて来い!

207/294
秋(2/3)5/10

今日は日曜日 縁側には陽が当る。 ――もういつぺん母親に連れられて 祭の日には風船玉が買つてもらひたい、 空は青く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……

208/294
秋(2/3)6/10

忌はしい憶ひ出よ、 去れ! 去れ去れ!

209/294
秋(2/3)7/10

酔生

210/294
秋(2/3)8/10

私の青春も過ぎた、 ――この寒い明け方の鶏鳴よ! 私の青春も過ぎた。

211/294
秋(2/3)9/10

ほんに前後もみないで生きて来た…… 私はあむまり陽気にすぎた? ――無邪気な戦士、私の心よ!

212/294
秋(2/3)10/10

それにしても私は憎む、 対外意識にだけ生きる人々を。 ――パラドクサルな人生よ。

213/294
🔒

秋(2/3)

10スナック

秋(3/3)
秋(3/3)1/9

いま茲に傷つきはてて、 ――この寒い明け方の鶏鳴よ! おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……

214/294
秋(3/3)2/9

独語

215/294
秋(3/3)3/9

器の中の水が揺れないやうに、 器を持ち運ぶことは大切なのだ。 さうでさへあるならば モーションは大きい程いい。

216/294
秋(3/3)4/9

しかしさうするために、 もはや工夫を凝らす余地もないなら…… 心よ、 謙抑にして神恵を待てよ。

217/294
秋(3/3)5/9

IIII

218/294
秋(3/3)6/9

いといと淡き今日の日は 雨蕭々と降り洒ぎ 水より淡き空気にて 林の香りすなりけり。

219/294
秋(3/3)7/9

げに秋深き今日の日は 石の響きの如くなり。 思ひ出だにもあらぬがに まして夢などあるべきか。

220/294
秋(3/3)8/9

まことや我は石のごと 影の如くは生きてきぬ…… 呼ばんとするに言葉なく 空の如くははてもなし。

221/294
秋(3/3)9/9

それよかなしきわが心 いはれもなくて拳する 誰をか責むることかある? せつなきことのかぎりなり。

222/294
🔒

秋(3/3)

9スナック

雪の宵
雪の宵1/10

雪の宵

青いソフトに降る雪は 過ぎしその手か囁きか  白秋

223/294
雪の宵2/10

ホテルの屋根に降る雪は 過ぎしその手か、囁きか

224/294
雪の宵3/10

ふかふか煙突煙吐いて、 赤い火の粉も刎ね上る。

225/294
雪の宵4/10

今夜み空はまつ暗で、 暗い空から降る雪は……

226/294
雪の宵5/10

ほんに別れたあのをんな、 いまごろどうしてゐるのやら。

227/294
雪の宵6/10

ほんにわかれたあのをんな、 いまに帰つてくるのやら

228/294
雪の宵7/10

徐かに私は酒のんで 悔と悔とに身もそぞろ。

229/294
雪の宵8/10

しづかにしづかに酒のんで いとしおもひにそそらるる……

230/294
雪の宵9/10

ホテルの屋根に降る雪は 過ぎしその手か、囁きか

231/294
雪の宵10/10

ふかふか煙突煙吐いて 赤い火の粉も刎ね上る。

232/294
🔒

雪の宵

10スナック

生ひ立ちの歌
生ひ立ちの歌1/11

生ひ立ちの歌

幼年時 私の上に降る雪は 真綿のやうでありました

233/294
生ひ立ちの歌2/11

少年時 私の上に降る雪は 霙のやうでありました

234/294
生ひ立ちの歌3/11

十七―十九 私の上に降る雪は 霰のやうに散りました

235/294
生ひ立ちの歌4/11

二十―二十二 私の上に降る雪は 雹であるかと思はれた

236/294
生ひ立ちの歌5/11

二十三 私の上に降る雪は ひどい吹雪とみえました

237/294
生ひ立ちの歌6/11

二十四 私の上に降る雪は いとしめやかになりました……

238/294
生ひ立ちの歌7/11

私の上に降る雪は 花びらのやうに降つてきます 薪の燃える音もして 凍るみ空の黝む頃

239/294
生ひ立ちの歌8/11

私の上に降る雪は いとなよびかになつかしく 手を差伸べて降りました

240/294
生ひ立ちの歌9/11

私の上に降る雪は 熱い額に落ちもくる 涙のやうでありました

241/294
生ひ立ちの歌10/11

私の上に降る雪に いとねんごろに感謝して、神様に 長生したいと祈りました

242/294
生ひ立ちの歌11/11

私の上に降る雪は いと貞潔でありました

243/294
🔒

生ひ立ちの歌

11スナック

時こそ今は……
時こそ今は……1/5

時こそ今は……

時こそ今は花は香炉に打薫じ ボードレール

244/294
時こそ今は……2/5

時こそ今は花は香炉に打薫じ、 そこはかとないけはひです。 しほだる花や水の音や、 家路をいそぐ人々や。

245/294
時こそ今は……3/5

いかに泰子、今こそは しづかに一緒に、をりませう。 遠くの空を、飛ぶ鳥も いたいけな情け、みちてます。

246/294
時こそ今は……4/5

いかに泰子、いまこそは 暮るる籬や群青の 空もしづかに流るころ。

247/294
時こそ今は……5/5

いかに泰子、今こそは おまへの髪毛なよぶころ 花は香炉に打薫じ、

248/294
🔒

時こそ今は……

5スナック

憔悴(1/3)
憔悴(1/3)1/10

憔悴

Pour tout homme, il vient une poque o l'homme languit. ―Proverbe. Il faut d'abord avoir soif…… ――Cathrine de Mdicis.

249/294
憔悴(1/3)2/10

私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた 起きれば愁はしい 平常のおもひ 私は、悪い意志をもつてゆめみた…… (私は其処に安住したのでもないが、 其処を抜け出すことも叶はなかつた) そして、夜が来ると私は思ふのだつた、 此の世は、海のやうなものであると。

250/294
憔悴(1/3)3/10

私はすこししけてゐる宵の海をおもつた 其処を、やつれた顔の船頭は おぼつかない手で漕ぎながら 獲物があるかあるまいことか 水の面を、にらめながらに過ぎてゆく

251/294
憔悴(1/3)4/10

昔 私は思つてゐたものだつた 恋愛詩なぞ愚劣なものだと

252/294
憔悴(1/3)5/10

今私は恋愛詩を詠み 甲斐あることに思ふのだ

253/294
憔悴(1/3)6/10

だがまだ今でもともすると 恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

254/294
憔悴(1/3)7/10

その心が間違つてゐるかゐないか知らないが とにかくさういふ心が残つてをり

255/294
憔悴(1/3)8/10

それは時々私をいらだて とんだ希望を起させる

256/294
憔悴(1/3)9/10

昔私は思つてゐたものだつた 恋愛詩なぞ愚劣なものだと

257/294
憔悴(1/3)10/10

けれどもいまでは恋愛を ゆめみるほかに能がない

258/294
🔒

憔悴(1/3)

10スナック

憔悴(2/3)
憔悴(2/3)1/10

それが私の堕落かどうか どうして私に知れようものか

259/294
憔悴(2/3)2/10

腕にたるむだ私の怠惰 今日も日が照る 空は青いよ

260/294
憔悴(2/3)3/10

ひよつとしたなら昔から おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ

261/294
憔悴(2/3)4/10

真面目な希望も その怠惰の中から 憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ

262/294
憔悴(2/3)5/10

あゝ それにしてもそれにしても ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!

263/294
憔悴(2/3)6/10

IIII

264/294
憔悴(2/3)7/10

しかし此の世の善だの悪だの 容易に人間に分りはせぬ

265/294
憔悴(2/3)8/10

人間に分らない無数の理由が あれをもこれをも支配してゐるのだ

266/294
憔悴(2/3)9/10

山蔭の清水のやうに忍耐ぶかく つぐむでゐれば愉しいだけだ

267/294
憔悴(2/3)10/10

汽車からみえる 山も 草も 空も 川も みんなみんな

268/294
🔒

憔悴(2/3)

10スナック

憔悴(3/3)
憔悴(3/3)1/12

やがては全体の調和に溶けて 空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……

269/294
憔悴(3/3)2/12

さてどうすれば利するだらうか、とか どうすれば哂はれないですむだらうか、とかと

270/294
憔悴(3/3)3/12

要するに人を相手の思惑に 明けくれすぐす、世の人々よ、

271/294
憔悴(3/3)4/12

僕はあなたがたの心も尤もと感じ 一生懸命郷に従つてもみたのだが

272/294
憔悴(3/3)5/12

今日また自分に帰るのだ ひつぱつたゴムを手離したやうに

273/294
憔悴(3/3)6/12

さうしてこの怠惰の窗の中から 扇のかたちに食指をひろげ

274/294
憔悴(3/3)7/12

青空を喫ふ 閑を嚥む 蛙さながら水に泛んで

275/294
憔悴(3/3)8/12

夜は夜とて星をみる あゝ 空の奥、空の奥。

276/294
憔悴(3/3)9/12

しかし またかうした僕の状態がつづき、 僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、 自分の生存をしんきくさく感じ、 ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。

277/294
憔悴(3/3)10/12

そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに 気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。 それがばかげてゐるにしても、その二つつが 僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

278/294
憔悴(3/3)11/12

と、聞えてくる音楽には心惹かれ、 ちよつとは生き生きしもするのですが、 その時その二つつは僕の中に死んで、

279/294
憔悴(3/3)12/12

あゝ 空の歌、海の歌、 ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが それにしても辛いことです、怠惰をれるすべがない!

280/294
🔒

憔悴(3/3)

12スナック

いのちの声(1/2)
いのちの声(1/2)1/10

いのちの声

もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。 ――ソロモン

281/294
いのちの声(1/2)2/10

僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。 あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。 僕は雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。 僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。

282/294
いのちの声(1/2)3/10

僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。 僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。 恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔れてゐる。 そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。

283/294
いのちの声(1/2)4/10

しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。 それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。 しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。 それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆分つたためしはない。

284/294
いのちの声(1/2)5/10

時に自分を揶揄ふやうに、僕は自分に訊いてみるのだ。 それは女か? 甘いものか? それは栄誉か? すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない! それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?

285/294
いのちの声(1/2)6/10

否何れとさへそれはいふことの出来ぬもの! 手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、 説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!

286/294
いのちの声(1/2)7/10

人は皆、知ると知らぬに拘らず、そのことを希望してをり、 勝敗に心覚き程は知るによしないものであれ、 それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み 誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

287/294
いのちの声(1/2)8/10

併し幸福といふものが、このやうに無私の境のものであり、 かの慧敏なる商人の、称して阿呆といふでもあらう底のものとすれば、 めしをくはねば生きてゆかれぬ現身の世は、 不公平なものであるよといはねばならぬ。

288/294
いのちの声(1/2)9/10

だが、それが此の世といふものなんで、 其処に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、 それに因て我等自身も構成されたる原理であれば、 然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。

289/294
いのちの声(1/2)10/10

されば要は、熱情の問題である。 汝、心の底より立腹せば 怒れよ!

290/294
🔒

いのちの声(1/2)

10スナック

いのちの声(2/2)
いのちの声(2/2)1/4

さあれ、怒ることこそ 汝が最後なる目標の前にであれ、 この言ゆめゆめおろそかにする勿れ。

291/294
いのちの声(2/2)2/4

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄むなるに、 その社会的効果は存続し、 汝が次なる行為への転調の障げとなるなれば。

292/294
いのちの声(2/2)3/4

IIII

293/294
いのちの声(2/2)4/4

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

294/294